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辺境ノンフィクション作家・高野秀行の超ド級 語学青春記が9月5日に発売。 noteで本書の一部を先行公開!(前編)

ノンフィクション作家・高野秀行さんの人気連載【言語の天才まで1億光年】が大幅に加筆・修正、改題され、書籍『語学の天才まで1億光年』として9月5日(月)に集英社インターナショナルより刊行予定です!
刊行を記念して、発売に先駆け、加筆部分の第1章の一部を前後編で公開します。(※文章は最終版ではないため、表記などが書籍と異なる場合があることをご了承ください)

日本人にいちばんなじみ深い外国語、英語。
まだ語学に興味がなかった高野さん、英単語の相撲番付を作って…
いきなり驚きのエピソードからどうぞ!

第1章 語学ビッグバン前夜(インド篇)/前編

1.驚きの海外英語初体験

 目の前で鳥みたいな顔をした英語ネイティヴの女性が何か懸命に喋っている。私はそれをぼーっと見ていた。  
 ──どうしよう。何一つわからない……。  
 ここはインドのカルカッタ(現コルカタ)。初めての海外旅行で、これが事実上の「初日」だった。片言のやりとりで済むタクシーの運転手やホテルのフロント係は別として、初めてまとまった会話をする相手の言うことが全くわからない。動揺すると同時に妙に納得もしていた。やっぱりな、という気持ちだ。自分の英語学習の歴史を振り返れば当然のことだった。

父は英語教師だったが……  

 子供の頃、私は語学に特別な関心をもっていなかった。  
 英語は身近な存在だった。身近だけど親しみがもてない存在と言うべきか。  
 父は高校の英語教師で、しかも勉強熱心な人だったから、英字新聞の『ジャパン・タイムズ』や米『タイム』誌を定期購読していた。他にも英語の本が家のそこかしこに置かれていたが、私にとってそれらは「父の仕事道具」にしか見えなかった。会社員のお父さんが日本経済新聞や『週刊東洋経済』や『戦国武将に学ぶリーダー術』なんて本を読んでいてもたいていの子供は興味をもたないだろう。それと同じだ。
 父は朝、米軍のラジオ局が放送するFEN(現AFN)をかけていた。主に自分の勉強のためにだが、おそらく子供たちを英語に親しませようという意図もあったのだろう。毎日朝ご飯を食べながらアメリカ人アナウンサーの言葉をなんとなく聞いていたが、そこから何一つ学ぶことはなかった。音楽を聴くように聞き流していたからだ。私だけでなく、3つ年の離れた弟も十数年聞き続けたが、結果は同じである。
 いまだに「聞き流すだけで英語がペラペラになる」という謳い文句の語学教材があるが、そんなことは絶対にありえない。もし誰かが英語(か他の言語)を聞き流しているだけで聞き取りや会話ができるようになったとしたら、それは聞き流しているのではなく、集中して耳を傾けているはずだ。もちろん、その人が語学の天才なら話は別だが、天才ならどんなやり方でも習得できてしまうだろうから、学習法を語ることは無意味である。
 父は何度か私と弟に英語を教えようと試みたが、毎回2週間と続かなかった。親が先生役になっても子供は素直に言うことを聞かない。すぐ口論になったり子供たちが居眠りをしたりして、互いに嫌気がさしてやめてしまうのである。
 子供に英語を学ばせようという、父の試みはほとんどが水泡に帰したが、一つだけ功を奏したものがあった。NHKラジオの『基礎英語』だ。小学校6年生になったとき父に「これを毎日聞くように」と命じられた。なんと朝6時5分から25分までの20分間である。その前に犬の散歩に行かなければならなかったので、毎朝5時半過ぎに起きなければならなかった。
 これを毎日、1年間続けたのである。聞き損なったのはたった1日だけ。寝過ごしてしまったのだ。その日の夕方、2階から1階へ下りる階段で父とすれ違ったとき、不意に「おまえ、今日、『基礎英語』を聞かなかったろう」と言われたことを今でも鮮明に憶えている。
 当時から朝に弱く、勉強熱心でもなく、父の言うことに従順でもなかった私が、どうして基礎英語だけは聞き続けたのかは謎だ。特に面白いとも思わなかったし、それで英語が好きになったわけでもなかった。子供なりに「来年から中学にあがるから、英語ぐらいは少し勉強しなきゃ」と思っていたのかもしれない。その辺は記憶の靄の彼方である。
 翌年、中学1年生のときも、『基礎英語』かそのワンランク上の『続基礎英語』を聞いた記憶があるが、初年度のような「1日も聞き逃せない」という緊張感はなかった。週に何回か聞いていた程度じゃないかと思う。結局、二年にわたって毎日20分ずつNHKのラジオ講座を聞いたことが、大人になる前に受けた唯一の英語会話レッスンとなった。
 『基礎英語』(と『続基礎英語』)のおかげで、中学の英語の授業はわりあい余裕をもって受けられたが、もちろんそれですべて片付くほど世の中は甘くない。そして、私は幼少の頃から地道な努力が心底苦手であった(今もそうである)。動詞の活用とか単語のスペリングの暗記といった単調な作業がどうしてもできない。たちまち睡魔に襲われ、寝てしまう。
 逆に言えば、このような怠惰な性格ゆえ、いつも「どうやったらラクして覚えられるのか」を追究していた。例えば、こんな学習法をやってみたことがある。英語で重要なのは動詞だという。でも、教科書に出てくる動詞すべてを覚えるのは不可能だ。いや、不可能じゃないかもしれないが、あまりに面倒くさい。ならば、最もよく出てくる動詞を厳選して10個だけ覚えればいいんじゃないか。それだけ覚えてあとは捨てる。捨ててはいけないとわかっているけれど、どうせ全部は覚えられないのだからやむをえない。
 でも、最もよく出てくる動詞はどれか。それを知らないと10個選ぶことができない。そこで、教科書の最初から最後まで動詞の頻出度を調べてみた。giveとかdoとかtakeといった動詞の数を「正」の字を書きながら数えていく。途中からレースの観客になったような気分で「おっ、トップのdoをtakeが猛追している! 頑張れ!」などと応援したりした。
 時間が経つのも忘れて夢中になり、この調査の過程でけっこう覚えてしまった。
 最終的にベストテンが出揃ってもそこで終わりにはならない。これはあくまで「自分が覚えるべき動詞」の選抜なので、すでに私が覚えている動詞は不要だ。それを外して、11位以下の動詞を繰り上げていく。でも、自分が覚えているかどうかはテストをしてみないとわからない。次はテスト表を作り、自分で解答していく。正しい答えが書けたものは外し、間違ったものだけを入れて「マイ動詞ベストテン」を作る。まるでプロ野球で監督が先発メンバーを選ぶようだ。しかも、これはあくまで〝先発〟にすぎない。時間が経てば、その中の動詞を私が覚えてしまう可能性があり、するとその動詞はもうベストテンに入れておいてはいけないので外す。そして、控えの動詞を繰り上げてベストテン入りさせる。気分はプロ野球監督なので楽しい作業だ。
 相撲の番付のように東の横綱have、西の横綱takeといったように英語動詞(あるいは名詞・形容詞・副詞)番付を作ることもあった。ランキングや番付作りは気分がいい。
 「haveは前評判どおりだが、takeもよく頑張った」などと英単語相手に上から目線になれるからだ。これも面白い。相撲は横綱がいちばん偉いと思っていたが、実は相撲協会がいちばん偉いのである。そして自分は相撲協会の立場に立っている。面白くないはずがない。
 こんなことをやっていると、結果的にだが、教科書に出てくる単語をどんどん覚えてしまう。苦にならないどころか、意外な単語が上位に来るといった発見もあって純粋に面白い。
 「ラクするためにあらゆる工夫を凝らす」というのは、語学好きに転じても毎回試みる方法となり、まさに「三つ子の魂百まで」である。
 とはいえ、子供時代の私にとって英語は他の教科と同じく、義務的に学習するものでしかなかった。
 高校になると環境が変わった。私が進学したのは早稲田大学高等学院(通称「学院」)という早稲田大学の付属校だった。ひじょうに偏差値が高い学校として知られるが、私は同じ年の子供がとても少ない丙午(1966年)生まれだったことと国語の成績がよかったおかげで、英語と数学が並み以下にもかかわらず合格してしまった。
 だが、ここが本当にどうしようもない学校だった。大学受験がなく、全員がエスカレーター式に早大へ進学できるので、ほとんどの生徒が驚異的なレベルで勉強をしない。先生も教える熱意がない。期末試験なども超絶に易しく、試験当日に教科書の当該範囲を1時間読めば70点ぐらいとれるほどだった。それでも教科書を1時間も読むのが苦痛で、私は苦手の数学や物理で何度も落第点をとった。
 ただ、英語だけはなるべく勉強するようにしていた。というのは、将来は世界の秘境へ行き、謎の超古代遺跡を発掘したり、未知の動物を探索したりしたいと思っていたからだ。外国へ行くなら英語が必要だということは、さすがにわかる。
 無気力が満ちあふれている学校で、英語科に一人だけ熱血の先生がいた。ふだんの授業でも容赦なく生徒に発音練習をさせるという普通の学校の先生みたいな人だったが、3年生のとき、夏休みの宿題をどかんと出した。『ニューヨーク・タイムズ』『タイム』『ニューズウィーク』などからピックアップした記事を、A4の紙30枚にコピーして手渡し「全部、翻訳せよ」と言ったのだ。政治・経済・社会・文化・科学など広いジャンルがカバーされており、〝本場〟の匂いがプンプンした。
 ほとんどの生徒は宿題そのものを無視していたが(それで何も問題ない)、私はそういう本場の匂いが好きだったし、単調な作業は苦手でもチャレンジは好きである。苦労しながらも全て翻訳した。ところが、熱血先生は二学期の初めの授業で「全部ちゃんとやったのは高橋だけだ」と、あろうことか私の名前を間違えて呼んで褒めたのだった。あのときは本当にむかついた。クラスには高橋という友だちもいたのでなおさらだ。授業のあと、他の生徒が高橋君に「すごいじゃん!」と話しかけ、高橋君が「いや、俺じゃないよ。なんか間違えてるんじゃない?」などと答えるのが聞こえてきたが、横から「それ、俺だよ!」なんてことは恥ずかしくて言えず、一人で歯ぎしりした。本当に英語にはいい思い出がない。
 大学の文学部へ進むと、クラスには全国から激しい受験戦争を勝ち抜いてきた学生たちが集まっていた。私たち「学院」出身者のほとんどは彼らに比べると極端に学力が劣る。「学院」出身者にしては英語をそれなりにやっていた私も、英語力はクラスの下の方だったはずだ。

見知らぬ小さなおばあさん  

 すべてが劇的に変わったのは、1年生の終わりにインドへ旅行に行ったときである。私は探検部に在籍していたが、1年生のときは大して活動していなかった。探検部の部室はひじょうにわかりにくい所にあり、私は最初なかなか部室にたどり着けず、やっと場所を突き止めて入部したのは他の部員たちが新入生歓迎合宿へ行っているときだった。つまり、完全に乗り遅れてしまい、部の活動に溶け込めなかった。2年生になる前の春休み、他の1年生は親しくなった先輩たちにくっついてタイの少数民族の村に住み込んだり、西表島でサバイバル合宿をやったりしていたが、私は参加するグループもなく、探検部として最低レベルの活動とおぼしき「海外一人旅」を選択した。目的地はインド。先輩たちの話を聞くと、タイや中国よりは異文化の度合いが高そうで、でも南米やアフリカほど旅するのが困難でもないし旅費も安く済むからだ。
 とはいえ、自分にとってこれは途轍もないチャレンジに思えた。なにしろ、英語が全然話せない。その数カ月前、一度、近所にホームステイに来ていたアメリカ人の高校生の女の子を早大に案内したことがあったが、驚くほど会話ができなかった。彼女の言うことがいくらもわからないし、自分が何か言おうとしても頭が真っ白になり、言葉が出てこないのだ。途中からは二人ともずっと沈黙していた。この一件はひどいトラウマとなって私にのしかかっていた。
 ましてやインドである。日本人とはまるで違った外見の人たちに取り囲まれて、自分が英語でやりとりする姿など全く想像できなかった。ちなみに、当時の私はインドの言語事情などさっぱり知らなかった。
 実際にインドに行ってみると、毎日私の想像力をはるかに超える出来事が起きた。英語面にかぎっても、初日から普通でない体験をした。
 ここで冒頭のシーンに戻る。
 真夜中に到着し、翌朝、ゲストハウスの食堂で、他の客を真似しておそるおそる朝食を頼んで食べていると、同じ宿に泊まっていた白人女性が話しかけてきた。西洋人としてはひじょうに小柄で身長が150センチぐらいしかなかった。鼻が尖っていて目がせわしなく動くので小鳥みたいに見えた。バードさんと呼ぶことにする。
 このバードさんの言うことが全然わからない。でも彼女は妙にしつこい。写真のアルバムを広げて噛んで含めるように説明する。時間をかけてなんとかわかったのは、バードさんがニュージーランドから一人で来ていること、熱心なカトリックの信者であり、このカルカッタに同じカトリックの知り合いがいること、その知り合いは以前ニュージーランドを訪問したことがあり、今度はバードさんがその人を訪ねるつもりであること、でも彼女はインドが初めてであり、街中が怖くて一人では出歩けないから、私に一緒に付いてきてほしいと言っているらしいことだった。
 当時、インドの都市、特にカルカッタは犯罪の多い混沌とした場所という印象を外国人に与えていた。あとでわかったことだが、この印象は間違っていないが、正しくもなかった。というのは、当時のインドでは掏摸や詐欺、盗難は珍しくなかったものの、強盗や殺人、レイプといった凶悪犯罪は稀だったからだ。少なくとも外国人旅行者に対してはそうだったと思う。でもインド(特にカルカッタ)が凶悪犯罪の巣窟であるかのような噂も流れたりして、必要以上に怖がる人は大勢いた。バードさんもその一人だったのだろう。
 私だって初めての海外旅行の初日であり、カルカッタは右も左もわからないのだが、住所はわかるというので、一緒にリキシャー(人力車)に乗って出かけた。幸い、バードさんは英語に困らないから、誰とでも普通に話ができる。
 途中いきなり彼女が「ストップ!」と言って道路に降り、何か叫んだ。いったいどうしたのかと困惑したが、よくよく見ればカメラを出して写真を撮る仕草をしている。「私の写真を撮って!」と言ったらしい。それすら聞き取れなかった。カルカッタが怖いくせに頻繁に車を止めては町並みをバックにポーズをとるバードさんを私はせっせと写真に撮った。

カルカッタを走るリキシャー

 20分ほどして到着したのは、石造りの古いカトリックの施設だった。よくわからないが、教会というより修道院みたいな雰囲気だ。頭に白いスカーフをかぶったシスターたちが大勢いる。インド人が多いようだが、なかには明らかに西洋人という容姿の人もいた。バードさんはなにしろ英語が堪能というかネイティヴなので、誰彼となく話しかけて、どんどん先へ進む。英語が何一つ聞き取れない私は黙って後を付いていくのみ。
 奥まった小部屋に着いた。中に入ると、インド人っぽく見える小さなおばあさんのシスターがおり、バードさんを見ると喜びの声をあげて二人で抱き合った。この人が以前、ニュージーランドを訪ねてきたという知り合いらしい。私もおばあさんと握手をした。すごく小さくてやわらかい手だった。
 バードさんとおばあさんはひとしきり話をして、大いに盛り上がっていたが、英語なので内容は全然わからない。アルバムの写真を見ながらだったから、思い出話のようでもあったし、共通の知り合いの近況のようでもあった。
 部屋にいたのは意外に短くて、20分ほどだっただろうか。最後に頼まれて二人の記念写真を撮影した。バードさんは私に「あなたもこの人と一緒に写真を撮ったら?」みたいなことを言った(そういう仕草をした)が、見知らぬおばあさんと記念写真を撮ってもしかたないので遠慮した。
 そのまま二人で真っ直ぐ宿に帰った。バードさんはとても喜んでおり、何度も私にお礼を言った。事情はさっぱりわからないものの、私も人の役に立ててよかったと思った。
 驚いたのは翌日である。何かイベントの告知らしいのだが、宿のロビーに大きな人物の顔写真のポスターが貼ってある。写真の主は昨日会ったあのおばあさんだった。
 「どうして!?」と思ってそのイベントのタイトル(当然英語である)をたどってひっくり返りそうになった。「マザー・テレサ」と書いてあったからだ。
 あのおばあさん、マザー・テレサ(*1)だったのか!!  
 マザー・テレサはそれより6年前の1979年、私が中学生の頃にノーベル平和賞を受賞しており、日本でも知らない人がいないという存在だった。マザー・テレサがカルカッタに暮らしているというのも、どこかで読んだ記憶がある。ということは、私が訪れた施設は彼女が運営する有名なホスピス、「死を待つ人の家」だったのか。
 英語が皆目わからないがゆえに、世界的な著名人に会ったことすら気づかなかった。
 これが、私の海外における語学体験の始まりである。

後編につづく。

*1 マザー・テレサは、旧ユーゴスラビア、現在の北マケドニア共和国の生まれで、修道女としてインドに移ったのは、1928年。

高野秀行『語学の天才まで1億光年』
2022年9月5日(月)発売
定価:1,870円(税込)
発行:集英社インターナショナル(発売:集英社)
体裁:四六判ソフトカバー/本文:336P(カラー口絵4P)
ISBN:978-4-7976-7414-9
※表紙画像は仮データです。発売時に変更になる場合があります。

高野秀行(たかのひでゆき)
ノンフィクション作家。1966年東京都生まれ。
ポリシーは「誰も行かないところへ行き、誰もやらないことをし、誰も書かない本を書く」。
『幻獣ムベンベを追え』(集英社文庫)でデビュー。『ワセダ三畳青春記』(集英社文庫)で酒飲み書店員大賞を、『謎の独立国家ソマリランド』(集英社文庫)で講談社ノンフィクション賞等を受賞。著書に『幻のアフリカ納豆を追え!』(新潮社)など多数。
歴史家・清水克行との共著に『世界の辺境とハードボイルド室町時代』(集英社文庫)などがある。


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