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混沌のゴールデントライアングル言語群篇 (4)麻薬王のアジトでシャン語に出合う

チェンマイ大学で「先生、いじわる〜」と女子学生に言われる日本語教師は、世を忍ぶ仮の姿だった!?  高野さんの野望が明らかに!

 チェンマイで第二の青春を謳歌していた私だが、このまま日本語教師に落ち着くつもりは毛頭なかった。実はチェンマイに来る前からひじょうに明確な目標があったのだ。それは「ゴールデントライアングルに住み込んでケシ栽培を行ってアヘンをつくる」という端から見れば突拍子もないものだった。

世界屈指の暗黒地帯の全貌を明らかにするという野望
 ゴールデントライアングル(黄金の三角地帯)とは、かつてタイ、ラオス、ミャンマー(ビルマ)の三国国境に広がっていた麻薬地帯のことだ。当時この地域でつくられる麻薬はほとんどアヘンだった。アヘンはアヘンケシというケシの実から出る液体のことである。それを精製するとモルヒネやヘロインになる。私がチェンマイに住んでいた1990年代前半、世界のすべての非合法アヘンのうち約60〜70%がこの地で生産されると言われていた。実際にはその当時、タイとラオスでは両国政府による取り締まりによりケシ栽培が急速に減っており、ほとんどはミャンマー東北部のシャン州で行われていた。

ゴールデントライアングル

                                      ゴールデントライアングル
 タイ、ラオス、ミャンマー(ビルマ)の三国国境地帯を漠然と指すが、人によって認識するエリアは大きく異なる。私の認識ではシャン州の大部分が含まれる。1990年代はアヘンが主な「麻薬」であったが、2021年現在はアンフェタミン類(いわゆる覚醒剤)にとって代わられている。 
 タイでは三国国境にあたるメコン川の中洲を「ゴールデントライアングル」と呼んでいるが、これはあくまで観光用の名称である。

  シャン州は世界屈指の暗黒地帯だった。第二次世界大戦が終わった後、中国で共産党軍と国民党軍による内戦が勃発し、結果的に敗れた国民党軍の残党は国境を越えてシャン州へなだれ込み、居座った。そこを拠点に中国共産党へ逆襲をかけようと画策したのだ。彼らは軍と生活を維持する資金を得るため、地元の少数民族を使ってケシ栽培とアヘン生産を始めた。国民党の残党は1950年代初めに事実上解体されるが、彼らの中には麻薬マフィアとして現地に残った者も少なくなかった。
 いっぽう、それとは関係なく、シャン州は混沌としていた。軍事政権が少数民族を弾圧し、自由と独立を求める少数民族の人々は反政府武装勢力をいくつもつくって反撃を続けていた。政府軍も少数民族ゲリラも資金源として麻薬を利用した。
 軍事独裁政権と少数民族武装勢力と麻薬マフィア。しかもシャン州は標高1000~2000mの山々と深い谷、小さな無数の盆地からなる山岳地帯だ。険しい地形のうえ数多(あまた)の民族が割拠しているシャン州でこの三者が組んずほぐれつの闘いを繰り広げるのだから、まさにカオスである。シャン州の麻薬地帯の実態は謎に包まれていた。短期で訪れた外国人ジャーナリストはいるが、長期取材を行った人はいない。そこで現地の人たちに紛れて、ケシ栽培からアヘン生産までやってみれば、麻薬を基幹産業とする未知の土地の全貌が明らかになるのではないかと思ったのだ。
 アフリカや南米はインド・ヨーロッパ語族の連中に牛耳られていたが、ここに彼らの手は及んでいない。現地の人たちは全く異なった系統の言語を話す。後で知ったことだが、シャン州だけで、タイ・カダイ語族、シナ・チベット語族、モン・クメール語族、ミャオ・ヤオ語族という4つの異なった言語グループの話者が住んでいた。言語的にも混沌としている。少なくとも言語的に私にハンディはない。
 しかもこれらの民族の顔つきはとても日本人に似ていた。インド・ヨーロッパ語族系のジャーナリストや研究者がこっそりこの地に潜入しようとしても顔つきや目・髪の色などですぐにバレるが、私なら現地人と見分けがつかないだろう。それもまた私の有利な点だった。世界を相手に戦うにはうってつけの場所なのだ。
 ……なんて、壮大な野望を抱いてチェンマイにやってきたものの、しばらくは途方に暮れていた。なにしろ私はしがない現地採用の日本語教師。ジャーナリスト経験もなければ、所属するメディアや組織もない。麻薬組織やゲリラに何のコネクションもない。
 チェンマイはゴールデントライアングルの重要都市とされていた。シャン州で採れたアヘンがどこかで精製されてヘロインになり、このチェンマイに集まる。そして欧米やオーストラリアなど世界中に密輸される。だがそれはあくまでアンダーグラウンドの話だ。ここは南米のコロンビアではない。麻薬ビジネスはあくまで地下の世界でひっそり行われているもので、一般の市民はまるで無縁だということが、2〜3カ月の滞在でよくわかった。
 しかたなく私はタイ語を習ったり、かわいい学生たちと恋愛マンガを読んだりして、日々を過ごしていた。野望はだんだん遠くなっていった。

標準タイ語が話せない「社長」
 シャン州行きにつながる「糸口」を偶然見つけたのはチェンマイに来て5カ月ほど経った頃だった。きっかけは観光ガイドのための日本語講座である。チェンマイは世界中から旅行者が集まる観光地なので、職業的なガイドが大勢いた。彼らは長らく勝手にガイドを名乗って仕事をしていたが、私が赴任した年からチェンマイ市が公認の観光ガイドライセンス制度を導入した。ライセンス獲得のためには、チェンマイ大学で歴史や文化、そして自分が専門とする言語の講座を3週間にわたって受ける必要がある。英語ガイドなら英語、日本語ガイドなら日本語といった具合だ。そして最後に各科目の試験にパスすると、晴れて公認ガイドのライセンスが取得できるという仕組みだ。
 この日本語ガイド相手の講座を私が担当することになった。彼らの多くは大学も出ておらず、独学と日本人への接客で日本語を覚えてきた海千山千の強者たちだった。金回りもいいらしく、よく「先生、一緒にカラオケ行こうよ!」と私を誘ってくれ、たちまち仲良くなった。

3-4中国系ガイド2

                             観光ガイド講座のガイド氏と記念写真
   受講生(ガイド)の人たちとタイ北部を研修でまわったときのもの。このガイド氏は、父親が国民党軍の残党の兵士であり、ミャンマー生まれであることが後で判明した。タイ語、シャン語、中国語、ビルマ語、日本語がぺらぺらという本物の「言語の天才」だった。

3-4ガイド集合写真

                             観光ガイド講座の受講生の人たち
   全員がすでにチェンマイでプロの日本語ガイドとして活躍していた。私の左上が「社長」。この写真では地味な感じであるが。

 その中に「社長」と周囲から呼ばれる男性がいた。まだ30歳前後だが、小太りで髪が薄く、妙に貫禄がありながら喜劇俳優のようなおかしみを醸し出している。彼はチェンマイ周辺の山岳地帯に住むアカ族という少数民族の出身だという。山奥の村に育ち学校へ通っていないので、標準的なタイ語が話せず、他の人たちとはもっぱらチェンマイ方言(北タイ方言)で話していた。
 かつてタイ北部には800年近くにわたって、チェンマイを首都とする「ランナータイ王国」という王国があった。ランナータイ王国の公用語(共通語)はカム・ムアンと言われる。“カム”は「言語、ことば」、“ムアン”は「国」「町」の意味だが、ここでは「都(みやこ)」というニュアンスが近いだろう。つまり「都ことば」である。
 カム・ムアンで読み書きできる人は今ではほとんどいないが、ちゃんと文字もあった(鉄道のチェンマイ駅の前にある石碑にランナー文字が記されている)。バンコクの中央タイ人の王朝に併合されてから旧ランナータイ王国は「タイ北部」となり、彼らの都ことばは「チェンマイ方言」「北部方言」などと呼ばれるようになった。
 もしランナータイ王国がタイ王国に併合されず、別個に独立していれば、カム・ムアンは今でも本物の都ことばであったはずだ。外国人からはきっとランナー語とかチェンマイ語などと呼ばれていたのではないかと思う。
 ちなみにバンコクの標準タイ語とチェンマイのカム・ムアンはどの程度ちがうのか。私の感覚では「リンガラ語とボミタバ語」「フランス語とスペイン語」「東京弁と鹿児島弁」ぐらいのちがいではないかと思う。パッと聞いても全然わからないが、一つ一つ語彙を比べていくと、「ああ、なるほど……」と共通性が見て取れる。
 北タイ人は多かれ少なかれカム・ムアンが話せるが、その頃(90年代前半)すでに若い世代で標準タイ語が話せない人はめったにおらず、それだけをとっても社長は「田舎者」として笑いのタネだった。ただ、社長は出稼ぎで日本に5年ほど暮らしたことがあり、日本語はいちばん上手で後輩の面倒見もよかったから、誰も本気でバカにしているわけではなく、むしろみんなから慕われていた。

「麻薬王クンサー」の部下!
 さて、話を戻そう。あるとき、郊外のお寺に実地研修に出る講座があった。歴史の先生が講義を行っているとき、ガイドの人たちは熱心にノートをとっている。その中に社長もいたのだが、よく見れば、彼は見たことのない変な丸っこい文字をメモ帳に書きつけていた。
 「何これ?」と話しかけたら社長は慌ててメモ帳を閉じて、「なんでもないよ。やめてよ〜先生、勉強の邪魔するのは〜」とわざとふざけてみせた。
 その帰り道、社長は解散場所であるバスターミナルで私に声をかけてきた。「先生、方向が同じだから一緒に帰りましょう」。同じトゥクトゥク(三輪タクシー)に乗り込むと、社長はニヤッとして話し出した。「さっき、ノートを見たでしょ? あれ、ビルマ語よ。ぼく、ほんとうはビルマの人間だから。ビルマのシャンという民族」
 説明を聞いて驚いた。彼はシャン州東部のチェントゥンという町の出身で、お父さんは中国系でお母さんはシャン民族の人(以下、シャン人)。彼自身は学校へ行ってないどころか、ヤンゴン大学物理学科卒業だというのだ。ヤンゴン大学は“ミャンマーの東大”だから、凄いエリートではないか。
 軍事政権下のミャンマーは経済が停滞して仕事がない。彼はタイのアカ族の人からタイ人の証明書をお金で買い、タイ人になりすました。そしてタイのパスポートを取得して日本へ仕事に行ったのだという。チェンマイに戻ってからはタイ人(チェンマイ人)女性と結婚した。東大卒が隣国で無学で読み書きもできないふりをしていることになり、彼の経歴自体がカオスな秘境シャン州の異常さを象徴していた。
 「うちでご飯食べて行きなよ」と誘われるままに社長宅を訪れた。大学の正門から歩いて10分もかからない、大通りに面した2階建ての会社っぽい建物だ。入口から中を見ると、ガランとしたスペースにデスクが1つ見えるだけ。タイによくある家族経営の会社にしか見えないが、行ってみて驚いた。ここは正確には社長のお兄さんの家であり、お兄さんは「麻薬王クンサーの部下だという。
 クンサー!!
 世界的に有名な麻薬王は社長と家庭環境が似ており、父親が中国系で母親がシャン人。元はミャンマーの軍事政権の手先の民兵あがりで、長年軍と協力してシャン州の麻薬を取り仕切ってきたが、何を思ったのか、1980年代半ばからにわかにミャンマー政府に叛旗(はんき)を翻し、Mong Tai Army(ムン・タイ・アーミー:略称MTA)というシャン独立の武装勢力を創設した。意麻薬から得られる豊富な資金力で最新鋭の武器を揃え、他の武装勢力を統合し、ミャンマー屈指の武装勢力に成長していた。
(わかりやすくするため、本稿ではMTAを「クンサー軍」と記す)

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                                  麻薬王クンサー(1934-2007)
   クンサーはシャン州北部のロイモー出身。生涯を通じてシャン州の麻薬ビジネスにたずさわっていたが、1980年代に反政府ゲリラMTA(クンサー軍)を立ち上げ総司令官となった。この写真はクンサー軍の総帥としてシャン人の集まりで演説しているときのもの。背後の壁に描かれた旗は「シャン州旗」、上の文字はシャン語。

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クンサー軍(MTA)
  クンサー軍(MTA)はシャン州独立を目指す反政府ゲリラでありながら、実際には政府軍とはほとんど戦わず、もっぱら他の反政府ゲリラや麻薬マフィアと抗争を繰り広げていた。後から考えれば軍事政権の手先だったのだろう。タイ国境に近いホー・ムンに拠点を構え、全盛期は兵力2万5千人。ロケットランチャーや地対空ミサイルなど、最新鋭の武器を豊富に備えていた。

シャン、タイ、ミャンマー
 シャンとはどんな民族か。
 ミャンマーは多数派のビルマ族が人口の約7割を占めるが、その他に数え切れないほどの少数民族がいる。その中でも最も数が多いのがシャン人だ。2014年の統計ではミャンマー全体で約460 万人、全人口の9%を占めるとされる。彼らはシャン州の多数派民族でもある。
 シャン人はタイ人の親戚筋にあたる。自称を「タイ(Tai)」と言い、タイ王国の「タイ(Thai)」とはほんの少し発音がちがうだけだ(だからクンサー軍は正式名称を「ムン・タイ・アーミー(タイ国軍)」という)。「シャン」もタイの古名(他称)であるシャムのビルマ語訛りである。本来は彼らの自称である「タイ」を用いるべきだが、あまりに紛らわしいので本稿でも「シャン」と呼ぶことにする。
 タイでもシャン人はシャン州国境付近に数十万人暮らしており、「少数民族」の扱いを受けている。タイ人は自分たちを「タイ・ノーイ(小さなタイ人)」、シャン人のことを「タイ・ヤイ(大きなタイ人)」と呼ぶ。「タイ・ヤイ(シャン人)からわれわれが生まれた」と考えているのだ。でもそれはあくまで歴史的な順序だけで、実際にはタイで「タイ・ヤイ」と言えば、「山に住む文明化が遅れた人たち」という差別的なニュアンスになるので、多くのシャン人は嫌がる。私もタイにおけるタイ・ヤイ(シャン人)の存在は知っていたが、彼らと実際に会ったことはなく、言語も聞いたことがなかった。
 社長宅にはお兄さんの家族やら親戚やら、ずいぶん大勢の人がいたが、みんな、私の聞いたことのない、でも明らかにタイ系の言語で会話をしていた。私が聞き取れたのは「ギン・カオ(ご飯を食べる)」だけである。パッと聞いた感じではカム・ムアンやタイ東北部の方言に似ているように思えた。「これがシャン語か」とそれだけで感銘を受けた。

 タイ語とシャン語はどのくらいちがうのか。後にわかったことだが、タイ語とシャン語は日本で言えば標準日本語と標準沖縄語(那覇語)ぐらいのちがいがある。互いに全く通じない。でも文法や語彙に共通性が高いので、もしシャン人がタイ語をきちんとした教育機関で学習すればかなり早く習得できるはずだ。私の感覚ではバンコクのタイ語(タイ標準語)とシャン語のちょうど真ん中ぐらいにカム・ムアンがあるように思える。だからシャン人はタイ語を覚えるのは難しくても、カム・ムアンはわりとすぐに話せるようになる。

シャン語とタイ語

                  タイ語、カン・ムアン(チェンマイ語)、シャン語
   私の感覚では、タイ標準語(バンコク語)とシャン語のちょうど中間あたりにカム・ムアン(チェンマイ語)があるような感じ。地理的にはむしろタイ北部はシャン州に近い。
    タイ語系民族の居住域で独立した国家はタイとラオスだけだが、シャン州もミャンマーに併合されなければ国家になっていたかもしれない。あるいはタイの一部となっていても不思議ではない。実際に、第二次世界大戦中、タイは日本と同盟を結び、社長の出身地であるチェントゥンを中心としたシャン州東部に軍事侵攻し占領している。タイ政府は「ここはもともとタイ人の土地だったのだ」と主張した。もし日本が戦争に勝っていれば、シャン州の一部は今でもタイの領土だった可能性が高い。

 シャンの独立運動はある意味ではタイ語系民族がビルマ語系民族から分離独立しようという動きである。シャン州は北海道と東北地方を合わせた面積に近いくらい広大だ。人口も約580万人を数える(うちシャン人は3分の2)。もしイギリスによるビルマ併合がなければ、独立国家となっていても全然不思議でない。あるいはタイ王国の一部であってもこれまた全然おかしくない。そうすれば、今頃シャン語は「タイ語のシャン方言」として扱われていたことだろう。
 シャン料理のご飯をいただくと中には納豆が入っており、「納豆?!」とびっくりしたが、当時はそれどころでなかった(私がシャンの納豆を本格的に取材するのはそれから20年後である)。

麻薬王のアジト、秘密の宝石工場
 食後、社長に案内されて地下室に下りていくと、驚いたことにそこは秘密工場だった。まだ12〜13歳ぐらいにしか見えないクンサー軍の軍服を着た少年兵が数人、グラインダーでギュイーン! と火花を散らしてルビーやサファイアを研磨していた。シャン州は世界屈指のルビーの産地だという(ルビーとサファイアは同じ石の色違い)。シャン州から密輸された原石がここで加工され、チェンマイ市内の有名な宝石店(これまたクンサーの直営店)で売買される。社長は観光ガイドとして裕福な日本人旅行者をそこへ案内し、自分たちで密輸・研磨した宝石を売りさばいているという。しかし社長には悪いことをしているという風情は一切なかった。彼が主張するに、「悪いのはミャンマーの軍事政権。シャンの人たちには自由が何もない。軍の言うことを聞かないとすぐ逮捕されたり、殺されたりする。商売もみんな軍と(多数派の)ビルマの人たちにとられちゃう。だから僕たちはいろんな方法でお金を作って戦わなきゃいけない」

3-4ルビーを売る女性2

                          シャン州・タウンジーのルビー売り
   社長のアジトを訪れた翌年(1993年)、ミャンマー・シャン州の州都タウンジーを訪れたときの写真。大通りの一角が青空ルビーマーケットになっており、老若男女がルビーの売買を行っていた。ルビーは小さなビニール袋に入れ、太陽にすかすと質の善し悪しがわかると言われる。

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                                             青空ルビーマーケット
    ここに写っている人々はすべてルビー売買の関係者である。といっても、ごく普通の人たちも小遣い稼ぎのためにルビーの商売に手を出しているようだった。この翌年から路上でのルビーの販売は政府によって禁止され、このような光景は見られなくなったという。

 しかし、長閑(のどか)なチェンマイ大学のすぐ脇に麻薬王のアジトがあるとは信じられない。私は興奮を隠せなかった。シャン州の麻薬地帯へ潜入するための糸口が突然目の前に現れたのだ。
 「クンサー軍の支配区に住んでケシ栽培がしたい」と私は社長に訴えた。彼は私のことを単に「大学で日本語を教えている日本人の若者」としか思ってなかったから、この申し出を冗談だと思っているようだった。何度もくり返してようやく本気だとわかってもらい、クンサーの部下であるお兄さんに会わせてもらうことになった。
 日を改めてお兄さんに面会し、同じことを言ったのだが、コメディアンのような弟とちがい、やせぎすで鋭い目をしたお兄さんは「ははは、そんなのダメだよ。危ないよ、死んじゃうよ」と笑って相手にしてくれなかった。
 無理もない。私はどこの馬の骨かわからない若造なのだ。しかし、この「糸口」を手放すわけにはいかなかった。ここに通って、家の人たちと仲良くなり、クンサーとまではいかなくても、少しでも上の人と知り合いになって話を通してもらうしかない。
 でも、何の用もなく、しょっちゅうこのお宅(アジト)を訪ねるのは不自然だし、向こうも嫌がるだろう。そこで思いついたのは「シャン語を教えてもらう」というアイデアだ。彼らはミャンマーでもタイでも少数民族として見下されている。私はアフリカでの経験から、言語はその人たちのアイデンティティだと肌身で知っていた。きっとシャンの人たちも自分たちの言語を学びたいという外国人がいたら喜んでくれるにちがいない。私は私で、クンサー軍にコネができ、言語も習えて一石二鳥となる。
 社長に話すと、案の定、「いいよ」と二つ返事でオーケーしてくれた。よっしゃ!と拳を握ったのだが、カオスな秘境シャンはさすがにそんなに甘くなかった。

3-4シャンのお祭り2

                                                 シャンの新年祭
    時はすぎて2013年。シャンの納豆を取材しにタウンジーを再訪したとき、ちょうどシャン人の新年祭に出くわし、私もシャンの民族衣装を着て参加した。女性は竹で編んだ笠をかぶり、男女とも首から布のバッグ(シャンバッグ)をかけるのが特徴。


高野秀行(たかのひでゆき)
ノンフィクション作家。1966年東京都生まれ。『幻獣ムベンベを追え』(集英社文庫)でデビュー。『ワセダ三畳青春記』(集英社文庫)で酒飲み書店員大賞を、『謎の独立国家ソマリランド』(集英社文庫)で講談社ノンフィクション賞と、梅棹忠夫・山と探検文学賞を受賞。
著書に『アヘン王国潜入記』(集英社文庫)、『移民の宴』(講談社文庫)、 『幻のアフリカ納豆を追え!』(新潮社)など多数。歴史家・清水克行との共著に『世界の辺境とハードボイルド室町時代』、『辺境の怪書、歴史の驚書、ハードボイルド読書合戦』(ともに集英社文庫)がある。

第2・第4金曜日 更新! 次回は7月23日(金)です。

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