混沌のゴールデントライアングル言語群篇 (5)麻薬王のアジトでビルマ語を習う
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混沌のゴールデントライアングル言語群篇 (5)麻薬王のアジトでビルマ語を習う

日本語教師だったことが功を奏し、シャン人のアジト潜入に成功した高野さん、そこでシャン語を習おうという企てはだが、思わぬ方向に──。

シャン語を習いながらコネをつかむ。素晴らしい一石二鳥作戦のはずだったが、いきなりつまずいた。シャン語を教えられる人がいないのだ。

シャン語の読み書きができないシャン人
 前述したように、この家(アジト)には社長のお兄さんの家族、親戚、そしてクンサー軍の兵士(少年兵)などが十数人、住んでいた。みな、シャン州に生まれ育ったミャンマー国籍のシャン人である。
 シャン州の生活環境は決してよくない。ミャンマーは軍事政権であり、経済発展がひじょうに遅れているうえ、少数民族は弾圧されている。不法な逮捕や強制労働、虐殺やレイプといった深刻な人権侵害も珍しくない。だから、地理的にも言語的にも近いタイ北部へ逃げてきたり、仕事を求めてやってきたりするシャンの人はひじょうに多い。
 また、タイの人たちもそうだが、シャンの人たちもよく移動する。いい病院があるとか、行きたいお寺があるとか、仕事を見つけるとか、単にそこへ行ってみたいなどといった理由で、親戚や知り合いを訪ねては数週間から数カ月、あるいは1年以上滞在するのだ。
 当時はチェンマイを中心にタイ北部に住むシャン人は約10万人いると言われていた。
 本来はパスポートとビザが必要なのだが、ミャンマーでパスポートを取得するのは容易なことでなく、またタイ政府もミャンマー人に簡単にビザを発給しない。難民認定もしない。したがって、タイにやってくるシャン人はたいていが非合法な手段を用いる。「社長」のようにタイ人の身分証を買ってしまえば安心だが、お金やコネクション、それにタイに本格移住するという覚悟がいる。もっと一般的なのは国境のイミグレーションで賄賂を払うとか、一時的な出入国許可で長期滞在してしまうとかである。
 この家では男性は忙しそうだった。社長のお兄さんは宝石の密輸売買やクンサー軍関係の仕事をしていたし(詳細は一切不明)、社長はガイド業、他にも何をしているのかわからない男性が数人いた。少年兵たちは地下工場で宝石加工に携わっている。いっぽう、女性はあまり外へ出ない人が多かった。 風俗関係の店以外にシャン人女性の働き口はあまりなく、外で仕事をしないとタイ語がうまくならないので警察に身元を怪しまれやすい。また、男性なら万一捕まって1週間ぐらい留置所へ入れられても気にしないが(賄賂を渡すと釈放される)、女性にとってはそういう体験は恐怖だということもあっただろう。彼女たちが外出するのは身分証をもっている人と一緒に市場へ買い物に行くとか、他のシャン人の家に遊びに行くぐらいだ。居候なので家事もたいしてしていない。
 その中に社長のお兄さんの奥さんの妹という20歳の女性がいた。シャン州北部の中心的な都市であるラショーの人だという。「先生、この子に教えてもらって」と社長が連れてきたはいいが、当の彼女は「え、シャン語? 無理!」とびっくりしたように手を振る。
 私は社長に通訳してもらって、「教えた経験がなくても大丈夫」と伝えたのだが、彼女は頑なに拒否する。いったい何が問題なのか? 徐々にわかってきたのは、軍事独裁政権ミャンマーならではの特殊事情だった。
 まず、彼女はシャン語の読み書きができない。シャン語はちゃんと文字があるのだが、軍事政権は少数民族の言語を学校でもプライベートでも教えることを禁止しており、一部の年配者を除いて読み書きができる人がいない。社長とお兄さんを含め、ここに住む人は誰ひとりシャン語の読み書きができないという。
 次にそもそも彼女はシャン語が上手でなかった。ミャンマーでは公共の場所ではビルマ語しか使用してはいけない。学校の授業もテレビも外で友だちと話をするのもビルマ語だけ。その結果、彼女は両親ともシャン人でありながら、ビルマ語の方がはるかに上手になってしまっている。というよりビルマ語ネイティヴなのだ。シャン語は聞く分にはだいたいわかるけど、話す方はよくできないという。
 日系ブラジル人二世そっくりだと思った。彼らは両親が純粋な日本人であってもブラジル社会に育つうちにブラジル人化し、日本語は不得意になるケースが多い。シャン人は自分たちの土地に住んでいながら、まるで移民の子女のように同化を強制されているのだ。
 あとでわかったが、農村部に住んでいる人たちはシャン語を母語として使っている。村は民族単位なので、シャン人の村にはシャン人しか住んでいない。小さな町では他の民族がいても共通語がシャン語になるので、やはりシャン語をふつうに話している。ただ、ラショーのような大きな町はビルマ族や他の少数民族も多く住むし、当局の監視の目も光っているから、日常語がビルマ語になりやすい。
 いったいどうしたらいいのか? 戸惑う私に、彼女は朗らかに言った。「ビルマ語を教えてあげる」。
 なんと。シャン人はビルマ民族の支配から独立するために武力闘争を行っており、ここはその拠点の一つだ。なのに、どうしてそこで「敵性言語」であるビルマ語を習うのか。
 しかし、社長も「先生、いいじゃん、ビルマ語を話せたらミャンマーのどこへ行っても話ができるよ。シャン州の他の民族の人たちだってビルマ語が通じるよ」と勧める。そして、私はこういう想定外な展開が大好きな性分である。いきなり予定変更してビルマ語を学ぶことにしてしまった。他にシャン語を教えてくれそうな人もいないし、しかたない。

ミャンマーの小学校の「国語」の授業スタイル
 さっそくレッスン開始。その女性のことは「サヤマ(ビルマ語で「女性の先生」のこと)」と呼ぶことになったので、ここでもそう記す。ちなみに私は「チココ」というビルマ名をもらった。チココとは「愛するお兄さん」という意味で、れっきとしたビルマの男性の名前だが、いっぽうで妻が夫に対して呼ぶときにも使うという。だから外国人の私がこんなビルマ名を名乗るとミャンマーの人はくすくす笑う。さらに、この当時、まん丸いメガネをかけたチココという男子が主人公のコメディマンガがミャンマーで人気を博していた。私もたまたま丸メガネをかけていたから、なおさら自己紹介だけで爆笑された。この名前だけで私はミャンマーのどこへ行ってもウケがとれてしまったから、サヤマの功績は大きい。
 さて、レッスンは珍妙だった。なにしろまともな媒介言語がないのだ。サヤマは英語を一言も解さない。結局、タイ語でやりとりするしかなかったが、私はまあなんとか基本的な会話ができる程度で、サヤマにいたってはほんの片言しか話せず、読み書きは一切できない。だから、タイ語でよく挨拶がわりに使う「ご飯を食べましたか?」がビルマ語では「タミンサービービーラー?」と言うところまではわかるのだが、どこからどこまでが「ごはん」でどこからどこまでが「食べる」なのか、すぐにはわからない。
 だいたい私はビルマ語について何一つ知らない。「タイ語とは全然ちがうらしい」ということが私のもっている全知識であった(ちなみに当時チェンマイではかなり探したがビルマ語のテキストや辞書は一切見つからなかった)。
 これは私にとっても初めてのケースだ。コンゴでいろいろな現地語をかじったときは、たいていフランス語が媒介言語になっていたので意思疎通に問題はなかった。たまにリンガラ語だけのこともあったが、それでも私のリンガラ語はサヤマのタイ語よりずっとマシだった。
 なにより、コンゴの言語はみなバントゥー諸語かそれに類する言語だと見当をつけていたからやりやすかった。実際にかなり文法が似ており、共通する語彙も少なくなかった。
 しかしビルマ語は私にとってまるっきり未知の言語である。フランス語やリンガラ語のように主語の人称や時制によって動詞が激しく変化するかもしれないし、タイ語のように変わらないのかもしれない。日本語のようにまた別の法則によって動詞の活用が起きるのかもしれない。語順は英語やタイ語のようにSVO(主語+動詞+目的語/私・食べる・ご飯)なのか日本語のようにSOV(主語+目的語+動詞/私・ご飯・食べる)なのか、あるいはもっとちがう語順(例えば「食べる・私・ご飯」とか)なのか。声調の有無もはっきりしない。
 サヤマはノートに丸を無数に重ねたような文字をくるくる書いていくが、それもまた、かわいい模様にしか見えない。
 語学における4要素は、1.文法、2.発音、3.語彙、4.文字だと、前に書いたが、何一つわからないのである。
 しばし呆然としていたら、サヤマが「私がちゃんと教えるから心配ない」みたいなことをタイ語で言った。そして、実際に授業を始めると、意外なことにとても体系立ったものだった。それもそのはず、サヤマは自分が習った、ミャンマーの小学校の「国語」の授業スタイルを再現していたのだ。
 サヤマはまず文字を一つずつ書いて発音を教えてくれた。見た目はタイ文字と似ても似つかないが、実は共通性があるのに気づいた。「ていうか、そっくりじゃん!」と思う部分もあった。

1_3-5突撃ビルマ語ノート

            突撃リンガラ語会話
 最近発見されたビルマ語学習ノートにはこのようなタイトルが書かれていた。リンガラ語のテキストを作ったときも「突撃リンガラ語入門」だったし、20代の私はよほど「突撃」が好きだったと見える。


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         ビルマ語ノート、最初のページ
 サヤマとの授業の第1回目から記録されている。まだ、このときは学習方法が確立せず、日本語とタイ語、英語のごちゃまぜで意味が記されていたり、発音と声調がてきとうなローマ字表記+記号で書かれたりしている。手探りでスタートしたことがよくわかる。

タイ文字もビルマ文字もインド系の文字
 当時の私は知るよしもないことだったが、南アジアと東南アジアの大陸部は「インド系文字の世界」である。町田和彦編著『華麗なるインド系文字』(白水社)によれば、紀元前3世紀頃の碑文に刻まれたブラーフミー文字が時を経てサンスクリット語や現在のヒンディー語に使用されるデーヴァナーガリー文字になる一方、インドの各地方、チベット、東南アジアへも伝播したようだ。ただ、その古代のインド文字(もしくはその系統の文字)を利用した各民族はみな、改変を加えたので、それぞれ文字の形が変化していったが、並べてみればやはり似ている。 

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            インド系文字の伝播
 町田和彦編著『華麗なるインド系文字』(白水社)を参考にして私が自作したもの。あくまでイメージである。緑色で書いたのがk音の文字、黄色で書いたのがp音の文字。かなり似ているのがわかる。
 古代インドではブラーフミー文字が使用されていたが、現在ではサンスクリット語もヒンディー語もデーヴァナーガリー文字で書かれている。この地図上でも「インド」のところに書いてあるのはデーヴァナーガリー文字。インド系文字は国内にも各地に伝わった。その一つの例として南部のタミル語を挙げた。
 インドからミャンマーへはまずモン族の言語であるモン語の文字(モン文字)として5世紀頃伝わり、そのモン文字がビルマ文字となった。モン文字とビルマ文字はそっくりである。
 いっぽう、東南アジアへの伝播としては5、6世紀にカンボジアに伝わり、クメール文字となった。このクメール文字からタイ文字やラオ文字(ラオスのことばであるラオ語の文字)が生まれたと思われる。

 これらインド系・東南アジア系の文字は、面白いことにカ・サ・タ・ナ・ハ・マ・ヤ・ラ・ワ・アという発音の順に並んでいる。辞書もその順序で引く。日本語のひらがな・カタカナと同じなのだ。奈良時代の日本人は万葉仮名を作成したとき、仏教経典の言語であるサンスクリット語の文字の並びに倣(なら)ったという。結果として文字の系統が異なるにもかかわらず、ひらがな・カタカナの順序はタイ文字やビルマ文字とそっくりになった。おかげで、日本人にはタイ語やビルマ語の辞書がひきやすい(「ア」だけ異なるのは理由があるが、ひじょうに説明が複雑になるので省略する)。
 いずれにしても、私がタイ文字を知っていたのはアドバンテージになった。だからといって、ビルマ文字をすんなり覚えられたわけでは全然なかったが、早い段階で、なんとなく全体像を把握することはできた。

数学の法則で文法を発見する
 それよりも問題は文法である。白紙の状態から調査しなければならない。基本的にはコンゴでボミタバ語などを習ったときと同じやり方を試みた。似たような例文をいくつも作ってもらい、そこから一つ一つ、どれが何の単語なのか、どのように変化するのかを分析するのである。ただ、文法体系が全く予想できないので、コンゴのときよりも桁違いに困難だ。しかし、一つずつチャレンジするしかない。
 まず確認すべきは、主語の人称(私/あなた/彼・彼女など)によって動詞が変化するかどうか。
 サヤマに訊くと、ご飯は“タミン”だという。それから人称代名詞については、「私」は“ジャノー(男性の場合)/ジャマ(女性の場合)”、「あなた」は“ケミャー”、「彼・彼女」は“ドゥー”……と教えてくれる。
それらをふまえ、「ご飯を食べる」という例文を作ってもらう。

私はご飯を食べる ジャノー・タミン・サー・デー
あなたはご飯を食べる ケミャー・タミン・サー・デー
彼・彼女はご飯を食べる ドゥー・タミン・サー・デー
私たちはご飯を食べる ジャノロー・タミン・サー・デー
あなたがたはご飯を食べる ケミャーロー・タミン・サー・デー
彼らはご飯を食べる ドゥロー・タミン・サー・デー

 以上の例文を作ってもらうと、すべての例文で「食べる」は“サー・デー”であることが確認できた。どうやらビルマ語の動詞は、主語の人称によって変化しないらしい。
 続いて時制による動詞の変化を調べる。

昨日、私はご飯を食べた。マネガ・ジャノー・タミン・サー・デー
明日、私はご飯を食べる。マネピャン・ジャノー・タミン・サー・メー
私は毎日ご飯を食べる。ネー・ダイン・ジャノー・タミン・サー・デー

 すると、またしても“サー”は不変だった。かわりに文末が変わる。「過去」はデー、未来はメー、毎日食べる場合は過去と同じデー。ここから暫定的に「未来形は動詞の後ろにメーをつけ、現在形と過去形はデーをつける」という法則を見出した。では現在形と過去形の区別はどうすればいいのかという問題はあるが、それらはおいおいわかっていくだろう。タイ語などは現在形と過去形に格別のちがいがないから、ビルマ語もそうなのかもしれない。あるいは何かタイ語とはちがう区別の仕方があるのかもしれない。
 このように常に「暫定的に法則を見つけ、新しいことがわかれば随時その法則に変更を加える」というのが私が独力で編み出した調査法だ。とはいっても、フィールド言語学の世界ではごく初歩的な手法であると思う。
 考え方としては算数や中学程度の数学に近いのではないかと思う。説明は難しいが、連立方程式、最小公倍数、最大公約数、集合、関数などの技術が役に立っている気がする。
 さて、調査をくり返した結果、ビルマ語は、語順が日本語と同じ「私・ご飯・食べる」であること、名詞のあとに日本語の「てにをは」に似た助詞がつくこと、声調は3種類であること、でもその声調はタイ語とちがい、状況に応じて微妙に変化すること、形容詞が名詞を修飾するとき、例えば「大きい」の場合は「大きい・家」と前につくときもあれば「家・大きい」と後ろにつくときもあることなどが判明していった。
 ……なんて書くと、私がまるですらすらビルマ語の文法を読み解いていったかのようだが、現実はそうではない。なにしろ、文字がまだ覚束ないし、耳も慣れていない。本当にすべての例文で「タミン・サー」と言っているのか確信がなかなかもてない。もしかしたら私が気づかないところで発音が変わっていたり、声調がずれていたり、字がちがっているのかもしれない。サヤマの手書きの文字はときどき、別の文字に見える。
 「これとこれ、同じ?」「同じ!」「本当?」「本当!」「チココ(私のビルマ語名)、どうして私の言うこと信じない?! 私、先生だよ!」「先生だけど、小さい先生でしょ」「小さい先生って何!?」などと大声で言い合い、ときに互いの変なタイ語に笑い転げたりしながら、少しずつ手探りで真っ暗なビルマ語洞窟の中を歩いていった。完全に気分は「探検」だった。
 毎回1時間半ほど、1日おきぐらいのペースでアジトに通っていた。毎回、謎解きにチャレンジする気分だった。一つのことを理解するのにものすごい労力と時間を要したが、それがわかったときの快感は何にも代えがたかった。それに先生や教科書が教えてくれた文法事項はなかなか覚えられないが、自分で「発見」したことは絶対に忘れない。

3_3-5ビルマ語ノート01-2

          ビルマ語会話ノート・その2
 ビルマ語の全貌がおおまかにわかると、授業内容も安定してきた。ここは形容詞の比較級の練習。ちなみに、このビルマ語はサヤマが書いたもの。キレイな字だ。

コワモテから言語を学ぶ
 覚えた表現は身近な人たちに使ってみる。社長、社長のお兄さん、その家族、親戚、クンサー軍の少年兵、そして出入りするクンサーの軍かビジネスの関係者……。
 そう、ここはアジトであるだけに、クンサーの関係者がしばしば顔を見せた。ビルマ語で話しかけると、みんな、笑みを浮かべて返事をしてくれた。いつの間にか、すっかりこの家(アジト)になじんでしまった私は、そういう人たちがやってきたとき、一緒にご飯に呼ばれたりするようになった。ご飯の最中、どんな話をしたらいいかわからないので(いきなり麻薬のことなど聞けない)、「おいしい」とビルマ語で言ってみたり、「これはビルマ語でなんていう料理ですか?」などと訊く。すると、相手は──軍の大物なのか麻薬マフィアの幹部なのかよくわからないが──けっこう、熱心に「それはブーディージョーと言うんだ」とか「ビルマ語ではタミンジョー、でもシャン語ではカオコー」などと教えてくれ、少なくともその場ではたいへん和んだ。
 ビルマ語レッスンを開始して約2カ月後、私はクンチャウーというクンサー軍の顧問を務める長老に出会った。彼もまた、シャン語が不得意でビルマ語を母語とするシャン人だった。「ビルマと戦え。シャンの国を守れ! 今すぐ独立せよ!」とビルマ語で檄を飛ばす彼の姿はひじょうに不思議で、シャン人のおかれた独特の立ち位置を象徴していた。
 私は彼とすっかり仲良くなり、彼の導きでチェンマイのシャン人独立運動コミュニティに出入りするようになった。長老の実の弟はシャン州の“老舗”のゲリラ組織であるシャン州軍(SSA)の元リーダーで、同じくチェンマイに住んでいた。私はセンスックという名前のその人物とも親しくなった。そして彼らからシャン州とシャン民族のことを一つ一つ学び、いつの間にか彼らの独立運動の手伝いまでするようになっていた。難民の人たちに毛布や食糧を配ったり、ゲリラの幹部をバイクで送迎したり、集会所の掃除やメンテナンスをしたりといった雑用である。
 ビルマ語学習のおかげでシャン州入りに一歩前進した。だが、道はまだまだ遠かった。本当に麻薬生産をしている村へ入るまで、あと言語を2つも習うはめになるとは、このときは夢にも思ってなかったのである。

4_3-5クンチャウーとクンサー

        クンサーとクンチャウー氏(右)
 何かの会合で演説しているクンサーの脇で、不機嫌そうにしているクンチャウー氏。彼はシャン州独立のためにクンサー軍に合流し顧問となったが、本当はクンサーが大嫌いだった。私は2年ほどクンチャウー氏の生活支援を行い、一時期は同じ家に住んでいた。

5_3-5センスックと高野

シャン州軍元リーダーのセンスック氏(中央)とその夫人(左)、私(右)
 クンチャウーの実弟であるセンスック氏はシャン州軍創立メンバーの一人で、かつては同軍の総司令官だった。当時は下野してチェンマイで独自に活動していた。センスックは私を気に入ってくれ、のちにシャン州内の独立地域「ワ州」を支配するワ州連合軍に私を紹介してくれた。おかげで私はそのワ州でアヘン作りを行うことができた。

 本連載をお読みくださったみなさま、どうもありがとうございました。
 我ながらどうなるかわからないまま書き始めたこの連載、結果的には私の「言語青春記」となっていました。場当たり的に諸言語を食い散らかす高野青年はこれから一体どうなるのか、我ながら気がかりです。
 それを含めて、今後、大幅な加筆を行ったうえ書籍化するつもりです。
みなさま、どうぞお楽しみに!!

高野秀行(たかのひでゆき)
ノンフィクション作家。1966年東京都生まれ。『幻獣ムベンベを追え』(集英社文庫)でデビュー。『ワセダ三畳青春記』(集英社文庫)で酒飲み書店員大賞を、『謎の独立国家ソマリランド』(集英社文庫)で講談社ノンフィクション賞と、梅棹忠夫・山と探検文学賞を受賞。
著書に『アヘン王国潜入記』(集英社文庫)、『移民の宴』(講談社文庫)、 『幻のアフリカ納豆を追え!』(新潮社)など多数。歴史家・清水克行との共著に『世界の辺境とハードボイルド室町時代』、『辺境の怪書、歴史の驚書、ハードボイルド読書合戦』(ともに集英社文庫)がある。

【最終回】

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