見出し画像

高野秀行 | 第1章 コンゴ怪獣探査と言語ビッグバン【第3回】

第3回 言語ビッグバン

 初めてアフリカの地に降り立った日のことは忘れられない。
 私はムベンベ探索の偵察という名目で、向井という後輩と2人、パリ経由でザイールの首都キンシャサを訪れた。1987年のことだ。
 本来の目的地であるコンゴの方は前にも述べたように日本に大使館がなかったので、まずは日本に大使館のあるザイールのビザを取り、そちらに行ったわけだ。コンゴの首都ブラザヴィルはコンゴ川をはさんでキンシャサの対岸にあった。2つの首都の間はフェリーのような船が行き来していた。キンシャサのコンゴ大使館でビザを取れば、簡単にコンゴへ渡ることができる。


「ムシャシノ!」「ムシャシノ!」
 日が暮れた頃、キンシャサの国際空港からタクシーに乗り、「街の中心地へ行って下さい」とフランス語で頼んだ。すっかり夜になってから中心地に着いて、びっくりしたのなんの。
暗い。あまりに暗い。裸電球がちらほら灯っている程度だ。そしてそこかしこからリンガラ語か何語かわからないがアフリカの言語で歌う大音響のダンス・ミュージックが流れ、それに合わせて真っ黒い肌の人たちが道路の真ん中で奇声をあげながら踊っていた。
 これが首都の中心地!?
 絶句して立ちすくんでいると、隣の向井がボソッと言った。
「高野さん……帰りましょう」
 彼の顔を見たら血の気が引いていた。いや、暗くて顔色なんてわかりようがないが、茫然自失としているのはわかった。「帰るってどこへ?」と思わず笑ってしまったところで、ようやく我に返った。今夜の寝場所を探さねば。私たちは近くにいた人に声をかけ、安宿を見つけて首尾よく泊まることができた。
 私たちがたどり着いた地域は「マトンゲ地区」といった。官公庁やオフィス街からは離れていたが、下町(ダウンタウン)の中心地である。あとでわかったが、日本で言えば、渋谷と原宿と六本木と新宿歌舞伎町を合わせたような、エンタメとファッションと歓楽のエリアだった。
 翌日明るい光の下で歩くと、3階や4階建てくらいのビルがポツポツあるし、果物や野菜、パンなどを売る屋台が並び、夜の怪しさとはうって変わって、健康的な明るさがあった。これが同じ街かと思うくらいだ。だが、何より驚いたのは、自分たちが異常なほどに注目を浴びたことである。
 原因は主に2つで、両方ともリンガラ語と密接な関係があった。
 まず、街で行き交う人たちが私たちを指さし、「ムシャシノ!」「ムシャシノ!」と叫ぶ。最初は私たちのことを中国人(フランス語でシノワ)と勘違いして罵倒しているのかと思ったが、それにしてはみんなニコニコ顔である。
 泊まっている宿の人に訊いてわかったのだが、ムシャシノとは私たちが腰に装着しているウェストバッグのことだった。

リンガラ語とリンガラ音楽の深い関係
 コンゴとザイールは一つの地域として考えられるし、ザイールは現在「コンゴ民主共和国」なので、以下、この両国のエリアを〈コンゴ〉と表記したい。
 さて〈コンゴ〉では「リンガラ・ミュージック」という音楽が盛んだ。2本のエレキギター、ベース、ドラム、4、5人のヴォーカル、それに〈コンゴ〉の太鼓などの構成で、歌詞はリンガラ語である。アフリカ音楽研究者の鈴木裕之・国士舘大学教授によれば、リンガラ・ミュージック(長いので以下、「リンガラ音楽」と表記する)はキューバ音楽を「コンゴ化」したルンバで1950年代頃に確立したという。鈴木先生は「独立後(1960年頃以降)のアフリカで最大のポピュラーミュージックに発展し、東アフリカから西アフリカにかけて圧倒的な影響力を誇ることになる」とも書いている(『アフリカ学事典』昭和堂)。
 1980年代半ばにフランスに滞在していた探検部の先輩に聞いた話では、リンガラ音楽はフランスでも大流行しており、バカンスの時期のリゾート地では毎晩必ずリンガラ音楽が流れ、人々が踊りまくっていたという。
 ロックやサルサにも少し似ているが、キンキラした音色のギターや甲高いヴォーカル、ノリがよすぎる太鼓の乱打などは他に比べるものがない。リンガラ音楽を聴けばどんな偉い人も素敵な美人も腰を振って踊り出す。「〈コンゴ〉には法の下の平等はないが、リンガラの下の平等はある」と当時よく思ったものだ。初日の暗い夜に鳴り響いていたメロディーがまさにそれだった。
 マトンゲ地区はそのリンガラ音楽の中心地だった。週末になれば(あるいは週末でなくても)ライヴハウスやバー(バーは全てダンシングバーなのだが)に人気バンドが出演してみんな朝まで踊りあかす。その熱量とパワーは尋常でなかった。私たちが訪れていた頃はリンガラ音楽の最盛期だったらしく、当時を知っている日本人は誰もが口を揃えて「あのときのキンシャサは凄かった」と言い、夢を見ているような表情になる。

リンガラバンド

キンシャサ・マトンゲ地区のバーで演奏するリンガラ・バンド。
「ヴィクトリア・エレイ ソン」という当時の人気バンドで、右端がリーダーのエメネヤ・ケス テール。リンガラ音楽界の大御所の一人だったが、残念ながら、2014年、57歳で亡くなった。


キンシャサのバー

バーでは男女が一晩中、踊り明かす。コンゴのバーは基本、塀で四角く囲っただけの青空バーだ。必須なのは電気と音楽機材と冷蔵庫だけで、田舎へ行くと塀もない。

 面白いことにリンガラ音楽の歌詞は原則としてリンガラ語だ。〈コンゴ〉には民族が250以上あり、前回書いたように各民族は独自の言語をもつとされている。中でもコンゴ川下流域から大西洋沿岸部に住むコンゴ族(バコンゴ)は当時でも人口が数百万人おり、彼らの言語コンゴ語はザイールの共通語の一つとなっていたが、コンゴ語で歌うリンガラ風の音楽は聴いたことがない。あるのかもしれないが、メジャーではない。やっぱり〈コンゴ〉においてはポップス=リンガラ語なのである(後で鈴木先生に訊いたら、「有名なミュージシャンがときどき自分の母語である民族語で歌うことがある」とのこと)。
 音楽としてのリンガラと言語としてのリンガラは深い関係にある。
 リンガラ語はコンゴ川中流域で交易のために人々の間に自然と生まれた共通語だということはすでに述べた。それが19世紀、フランスやベルギーの植民地支配やカトリックの宣教にも利用され、さらに1960年にフランスとベルギーの植民地がそれぞれ「コンゴ」を名乗って独立すると、新たに創設された国軍の共通語として使われるようになった。
 そして、リンガラ語を〈コンゴ〉の強力な共通語として普及させたのがリンガラ音楽だった。キンシャサを中心に爆発的な人気を博したこの音楽はコンゴ川流域の至るところに広がった。私は学生時代(1980年代後半)に合計4回〈コンゴ〉を旅している。相当あちこちに足を延ばしたが、どんな奥地に行ってもリンガラ音楽はあった。電気がない村でも、発電機や電池でラジカセをかけ、ボリュームマックスでリンガラ音楽を流し、男が女性に愛を語ったり女性が不実な男を恨んだりするリンガラ語の歌を聴きながら、ビールを飲んで踊っていた。
 密林の奥深くにある村から街に出た、あるいは軍隊に入った若者たちは、リンガラ語とリンガラ音楽をセットで故郷に持ち帰ったのだ。こうして、リンガラ語はコンゴ川流域の人たちの「心の言葉」となっていった。

レア中のレアグッズ
 ムシャシノに話を戻す。私が〈コンゴ〉に通っていた80年代後半から1990年頃にかけて、最も人気のあったミュージシャンに「パパ・ウェンバ」がいる。彼は自分のバンドを引き連れ、私たちが〈コンゴ〉に来る前年の1986年に日本でコンサートを行った。ザイールに戻ってから、彼らはライヴのたびにステージで「トウキョー、シンジュク、ムシャシノ!」と叫ぶようになった。いずれも日本でライヴを行った場所であり、ムシャシノとは武蔵野市民文化会館のことである。そして、ちょうど「ムシャシノ!」と叫ぶとき、彼らは日本でお土産に買ったウェストバッグをまるでチャンピオンベルトのように誇示したという。
 当時はまだ〈コンゴ〉にはウェストバッグがなかった。人々はパパ・ウェンバのライヴへ行ったりその様子をテレビで見たりして、ウェストバッグのことを「ムシャシノ」と呼ぶようになったというのである。
 私たちがキンシャサに着いたとき、ムシャシノ、つまりウェストバッグはまだ「パパ・ウェンバのバンドメンバーしか持ってない」というレア中のレアグッズだったから、私たちが人気の的になってしまったわけだ。
 ちなみに、1986〜87年頃は、パパ・ウェンバに匹敵する人気バンド「ザイコ・ランガランガ」の『ニッポン・バンザイ』というアルバムが大ヒットしていた。
 “ザイコ”は「ザイールとコンゴ」の省略形、“ランガランガ”はリンガラ語で「酔っ払った」とか「ハイになった」といった意味らしい。
 ザイコも同時期に日本公演を行い、このアルバムはそのライヴ盤という触れ込みだった。リードヴォーカルが「ニッポンのみなさん、コニチワ!」などと日本語で挨拶している。調べてみたら実はこれ、なんと日本公演のあと、パリのスタジオで録音された「フェイクライヴ盤」らしいのだが、内容は素晴らしい。私も相当な数のリンガラ音楽を聴いてきたけれど、タイトルがニッポンであることを抜きにしてもこれ以上かっこいいアルバムを知らない。今でも原稿を書くとき、テンションをあげるためにときどき聴くくらいだ。リンガラ音楽史上に残る名盤じゃないかと思っている。

 いずれにしてもパパ・ウェンバとザイコという二大スターのおかげで、〈コンゴ〉にもニッポンブームみたいなものが訪れていたのだ。

画像1

▲著者所有のザイコ・ランガランガのアルバム『ニッポン・バンザイ』。日の丸のチーフのデザインにZAIKO LANGA LANGA AU JAPON(IN JAPANの意味)とあり、ライブ盤を強調。これは著者が2008年に南アフリカ共和国のケープタウンを訪れたとき、地元のミュージックショップで発見し購入したコピーCD。いかにこのアルバムが時代と国を超えて愛されているかわかる。

裏声の悲鳴
 私たちがキンシャサで大人気を博した要素はもう一つある。それはリンガラ語そのものだった。
 私はふだんフランス語を使っていた。シルヴィ先生直伝の「100%本音フランス語」は予想していた以上によく通じた。私の二重録音学習法が実践的だったとも言える。また、アフリカ人のフランス語がフランス人よりスピードが遅く、表現もシンプルなことにも助けられた。それは彼らがフランス語を母語としてではなく、共通語か公用語として(つまり第2言語として)使用しているからだ。結果として、もちろん苦労しながらではあったが、自分の意思を伝えることができ、相手の言うこともおおまかには理解することができた。
 フランス語はコミュニケーションのために必要不可欠な言語だったのだ。
 いっぽう、リンガラ語はどうか。こちらは何しろフランス語のように熱心に勉強していなかった。辞書もないし、片言しか話せない。だから、「ムボテ(こんにちは)」とか「コンボ・ナ・ヨ・ナニ(君の名前は何?)」「オザリ・モニンガ・ナ・ンガイ(君はぼくの友だち)」程度のことを言うだけなのだが、現地の人たちが驚くことと言ったらない。
 必ず「アッ!」と裏声の悲鳴みたいなものをあげ、「オロバカ・リンガラ?(あんた、リンガラ語をしゃべるのか?)」と目をひんむいて聞き返すのだ。老若男女問わず、「アッ!」である。
 やがて、周りの人たちに「おーい、このムンデレ(白人。私たちも白人のうちに含められていた)はリンガラをしゃべるぞ!」と呼びかけ、私たちの周りに人だかりができるのだ(その後、コンゴ側へ渡り、首都のブラザヴィルや地方の町・村でもリンガラ語を話したが、キンシャサほどではないながら、同じように「アッ!」と言われてウケた)。
 アフリカでもベスト5に入るといわれるメジャー言語なのに、なぜこれほど驚かれるのか。あとあとわかってきたのだが、外国人はみなフランス語でコミュニケーションをとり、誰もリンガラ語を学んだりしないのだ。とくに西欧人はアフリカ人と同じレベルに身を置くことを嫌う。例えば自分の雇っているドライバーや従業員と一緒に食事をしたりしない人が多い。
 だから〈コンゴ〉の人たちの頭の中には「ムンデレは決してリンガラ語をしゃべらない」という常識ができている。それをヘンな東洋人の若者が打破するから驚かれ、喜ばれたのだ。
 夜などバーに繰り出して、「モテマ・ナ・ンガイ(私の心)」「ナリンギヨ(アイ・ラブ・ユー)」「ママ・ナ・ンガイ(ぼくの愛しい人)」などといったリンガラ音楽によく出てくるフレーズを真似して歌ったりすると、これまた大受けだ。
 到着の夜に失神寸前のような顔で「高野さん、帰りましょう」とつぶやいた後輩の向井などはこの状態にはしゃぎまくっていた。「高野さん、ぼく、ここで歌手デビューしたいです!」とウィリー先生みたいなことを言い出すほどだった。特に彼はフランス語が全く話せないので、リンガラ語が唯一のコミュニケーション手段だったし、「ムカイ」という名前が〈コンゴ〉の人たちにもよくある名前だとのことで、名前を言うだけで大受けしたということもある。
 ……なんて書くと私がいかにも冷静に振る舞っていたようだが、全然ちがう。私は向井以上に舞い上がっていた。酔っていたといってもいい。まさに“ザイコ・ランガランガ状態”である。なにしろ、私は地味で目立たない人生を送ってきた。学校の成績もスポーツもそこそこであり、女の子とはまるで縁がなかった。バブル時代だったのに、冗談ではなくディスコやテニスサークルがアフリカより遠く思えたほどだ。それが今、突然人気の絶頂を迎えてしまったのだ。舞い上がらない方がおかしい。

言語の醍醐味に目覚め、快感を知る
 私には特技もなかった。旅先でも現地の人とうまく馴染めないことが多かった。それまで行ったタイとインドでは世界各国からのいろいろな旅行者と出会ったが、旅慣れた人たちは、絵を描いたり、歌をうたったり、あるいはシンプルな英語や身ぶり手ぶりで気の利いたジョークを言ったりして地元の人たちを笑わせていた。私は技術的にも性格的にもそういうことが得意でなかった。「俺は旅先でもダメだな……」と幾度となく落ち込んでいた。
 そんな私でも地元の言語を習って片言を喋るくらいはできる。そしてそれがめっぽう受ける!
 旅先のローカル言語を話す醍醐味に完全に目覚めてしまったのだ。
 フランス語はコミュニケーションに必須だが、意思や情報を伝達するだけだ。いっぽう、リンガラ語での会話はコミュニケーションを十全にとるには程遠いが、地元の人たちと「仲良くなれる」のである。
 コミュニケーションをとるための言語と仲良くなるための言語。外国へ行って現地の人と交わるとき、この2種類の言語が使えれば最強なのだ。いわば「言語の二刀流」、これを使いこなす快感を知ってしまった。
 私にとって「言語ビッグバン」である。ただし、この「仲良くなる」ための言語の習得(片言に毛が生えた程度だが)は探検的な活動や取材を行ううえで抜群の威力を発揮した反面、強い副作用があった。また、もっとずっと後になって気づくことになるが、コミュニケーション言語と親近感を喚起する言語の両刀遣いには、私が「言語の天才」から光速で遠ざかってしまう根本原因も含まれていた。
 その意味ではむしろ「言語版パンドラの箱」を開けてしまったようなものかもしれない。でも始まったものはしかたない。私の言語宇宙はもう膨張するしかなくなったのである。

高野秀行(たかのひでゆき)
ノンフィクション作家。1966年東京都生まれ。
『幻獣ムベンベを追え』(集英社文庫)でデビュー。『ワセダ三畳青春記』(集英社文庫)で酒飲み書店員大賞を、『謎の独立国家ソマリランド』(集英社文庫)で講談社ノンフィクション賞と、梅棹忠夫・山と探検文学賞を受賞。
著書に『アヘン王国潜入記』(集英社文庫)、『移民の宴』(講談社文庫)、 『幻のアフリカ納豆を追え!』(新潮社)など多数。
歴史家・清水克行との共著に『世界の辺境とハードボイルド室町時代』、『辺境の怪書、歴史の驚書、ハードボイルド読書合戦』(ともに集英社文庫)がある。

第2・第4金曜日 更新予定

前の話へ | 連載TOPへ | 次の話へ 




更新情報は公式Twitterでもお伝えします。よかったらフォローしてください✨️

スキありがとうございます!!
31
集英社インターナショナルの公式アカウントです。硬軟とりまぜたオリジナル連載、新刊案内など続々更新予定です! https://www.shueisha-int.co.jp/

こちらでもピックアップされています

連載 言語の天才まで1億光年 高野秀行
連載 言語の天才まで1億光年 高野秀行
  • 4本

「誰も行かないところに行き、誰もやらないことをやり、それをおもしろおかしく書く」をモットーにしているノンフィクション作家、高野秀行さん。辺境の地では、テキストはもちろん辞書もないような言語が話されている。アフリカのリンガラ語、ボミタバ語、ミャンマーのワ語……。 それらの言語を高野さんは習い、現地で操り、人々の懐に入り込む。なぜそんなことができるのか。 その謎に答えるのが本連載。学んだ言語は20以上、言語オタクを自認する高野さんが、自らの言語体験をたどる。フランス語やスペイン語、中国語など、メジャーな言語の独特すぎる学習方法も登場します。 なお、高野さんの言語人生を振り返りますので、一部が既刊の本の内容と重なる場合がありますが、ご了承ください。

コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。