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ヨーロッパ・南米篇(4)アンラッキーな言語の天才

スペイン語の方言という認識で学んだポルトガル語。3カ月、しっかり準備したはずが、いざブラジルに行って耳にしたのは……。          

 コロンビア旅行の翌年、今度はアマゾン川を河口から源流まで現地の定期船を乗り継いで旅することになった(※1)。相変わらず一介の大学生(6年生)ながら、アマゾンのガイドブックを書くという仕事を請け負ったのである。取材スタッフは私のほか、カメラマンの鈴木邦弘さんとミヤザワという探検部の後輩の3人。
 私と鈴木さんは河口から遡り、ミヤザワは逆に上流から下っていき、テフェというアマゾン川中流の町で合流するという予定だった。今から考えるとおかしな方法だが、二手に分かれれば、それぞれが途中で情報交換ができていいという私の発案であった。

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             アマゾン取材ルート
 アマゾン川の本流は太平洋に近いミスミ山を最長源流とし、南米大陸を横断するように大西洋に注ぐ。計画では、私と鈴木さんはブラジル南部の町サンパウロからアマゾン河口の町ベレンまでは長距離バスで移動し、そこからは定期船を乗り継いでテフェまで行くことになっていた。いっぽう、ミヤザワはペルーの首都リマから国内線でプカルパに飛び、そこで同じく定期船を見つけてテフェへ向かう……。
 この計画は一見完璧なように見えたが落とし穴があった(オチは本文をお読み下さい)。

言語の天才ミヤザワ
 肝心の言語だが、今度は旅の半分以上がブラジルなので、スペイン語だけでなく、ポルトガル語が必要だ。
 私はポルトガル語を自分で耳にしたことがなかったが、コロンビアで出会った地元の人が「ブラジル人の言うことはだいたいわかる」と話していたので、ポルトガル語はスペイン語の方言みたいなものという印象が強くあった。ただ、基礎語彙や発音は若干ちがうので、やはり習う必要がある。私と同行する鈴木さんはともかく、単独行動となるミヤザワも一緒に学ぶことになった。
 ミヤザワは当時、私と同じ、早稲田にある古いアパートに暮らしていた。それぞれ三畳間の部屋を借りていたが、冷蔵庫や炊飯器、電話を共有していたため、実質的には同居しているようなものだった。
 彼は「言語の天才」だった。少なくとも私にはそのように見えた。
 探検部2年生のとき、タイ北部の少数民族であるラフ族の村に3、4カ月住み込み、タイ語とラフ語を同時にある程度習得してしまった。3〜4年生のときはネパールのグルン族の村に半年住み込んで小規模水力発電を行うNGOの手伝いをした。そのときはネパール語とグルン語を覚えたという。
 ミヤザワを天才と思うのは習得した言語の数だけでなく、その方法だ。彼は私のように文法を調べたり、単語帳を作ったり、いちいち辞書を引いたりしない。ネイティヴの人たちと一緒に生活しているだけで、自然に覚えてしまうという。なにより羨ましかったのは「一度、耳にした単語はそのまま覚えて忘れない」ということだ。私なんぞ、一度耳にした単語を5秒後には完璧に忘れている。だから、毎回すべてメモ帳に書きとめ、使う度にメモ帳を見返さなければならない。記憶力の差は圧倒的だった。
 また、彼は耳もひじょうによく、有気音と無気音のちがい(例えばkhとk)、語尾のngとnのちがいもはっきりわかるという。もっともこの頃、私はタイ語やビルマ語、中国語といった有気音と無気音を区別する言語にまだ出会ってなかったから、彼の話を感心しながら聞いていただけだった。
 天才ミヤザワも言語、とりわけマイナー言語を愛することにおいては私に引けをとらず、私たちはよく三畳間の部屋でさまざまな言語について語り明かした。「マイナー言語研究所」を2人で設立しようなんて話もした。設立といっても、三畳間の入口にそういう看板を出すだけなのだが。

居眠り先生とチンピラ学生
 というわけで、私とミヤザワは2人でポルトガル語を習うことにした。ミヤザワは英語以外のヨーロッパの言語を学んだことがなく(ネパール語はヒンディー語に近く、インド・ヨーロッパ語族の一員だが、ロマンス諸語とは文法・発音・語彙のすべての面でひじょうに異なる)、前に私が「彼女」とスペイン語を習ったときと同様、相手にすごくハンディがある共同学習だが、今回はミヤザワが言語の天才なので、それぐらいのハンディがあってちょうどいいぐらいに思っていた。
 今もなお悔やまれるのだが、なぜかこのとき、私はそれまでのようにポルトガル語のネイティヴ、つまりブラジル人から習おうとしなかった。日伯中央協会(「伯」はブラジルの意味)というところで、日本人の先生を見つけてしまった。よく覚えていないのだが、協会にブラジルの話を聞きに行ったとき、その先生に出会って、そのまま成り行きで教えてもらうことになったのではないかと思う。その先生の名前を仮に山岡先生としておく。
 山岡先生は昭和十年代にブラジルに関わった日本人の多くがそうであったように、波乱の人生を送った。大学を出て大手商社に就職したまではよかったが、太平洋戦争が始まる前にブラジルのサンパウロ支社に赴任。当初は3、4年の任期だったらしいが、戦争が激しくなり帰国ができなくなった。そして現地の日系二世の女性と結婚し、家庭をもった。戦争が終わっても日本は貧しい敗戦国で、ブラジルとの行き来は困難な状態が続いた。結局、先生が日本に帰国できたのはサンパウロに渡ってから20年後のことだった。
 先生はそのまま商社勤務を続けたのち定年退職をし、私たちが出会った頃は協会の顧問みたいな形で、希望者にボランティアでポルトガル語を教えていた。75歳くらい、当時の日本人男性としてはかなり高齢だった。
 私たちは7月から9月までの3ヶ月間、毎週土曜日の午後1時に新橋にある協会に出かけ、1時間半の授業を受けた。当時の私たちは異様な風体をしていた。ミヤザワはカーリーヘアーで私にいたってはその頃の日本では極めて珍しいドレッドヘアーである。そして2人ともアロハのような、外国で買った派手な柄物のシャツを着て、破れたジーンズにゴム草履を履いていた。まるっきりヒッピーかチンピラである。
 先生は私たちの風体に面食らった様子だったが、人種と民族のるつぼであるブラジルに長く住んだだけあってその点については小言の一つも言わなかった。ただ、その年の夏は暑かった。授業を受けている部屋は冷房どころか扇風機もなく、アマゾンの密林にも匹敵する猛暑だった。
 私たちも暑さに朦朧(もうろう)としたが、それ以上に参っていたのは先生だった。ブラジルで刊行されたテキストを使い、先生が例文を読んで説明するという、日本の古典的な外国語授業であったが、その声がしばしば途切れた。顔をあげると先生が舟を漕いでいる。私とミヤザワは顔を見合わせ、それからどちらかが「先生、この文の主語はなんですか?」などと適当な質問を投げかける。すると、先生がハッと目を覚まして、何事もなかったかのように、先ほどの説明に戻るのだった。
 続きにちゃんと戻るときはいいが、そのうちテキストがバサッと落ちて閉じてしまい、先生は目を覚ますと、慌てて適当なページを開いて読み始めたりした。すると、とんでもない箇所から続きが始まってしまう。それまで第3課の28ページを開いていたのに、いきなり第5課の43ページに飛ぶといった調子だ。私たちはそういうときも特に意見することもなく、先生がくじ引きのように開いたページをなんとか探して、授業についていった。
 私はスペイン語の文法と基礎語彙を知っていた。書いてあるものを読むかぎりでは、ポルトガル語とスペイン語は本当にそっくりで、日本語の標準語と関西弁よりもちがいが少なく、どう見ても方言の範疇だった。そして、先生が話すポルトガル語もスペイン語とそっくりの平安京的な発音だった。文字と同じで、規則的なのである。
 だから私はどんなにページが飛んでも困ることなくついていけた。いっぽう、天才ミヤザワはヨーロッパの言語が初めてにもかかわらず、まるで息をするかのように、動詞の活用や単語・表現を吸収していった。
 こうして、授業中の居眠りが絶えないご高齢の先生と言語が大好きなチンピラ学生2人という奇妙な組み合わせで、3カ月ポルトガル語の授業が続けられた。
 
ポルトガル語は蝶のように軽やかに
 10月になり、私は鈴木さんと一緒にブラジルのサンパウロに渡った。それから巨大なブラジルをひたすらバスで70時間以上もかけて北上し、アマゾン川河口の町ベレンに着いた。そして、それから地元の定期船を乗り継いで、上流へと旅していった。

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 アマゾンではハンモックが最も一般的な寝具であり、それは船の中も同じ。「船室」はなく、屋根のある甲板にハンモックを吊せるだけ吊し、その上か周辺に荷物や衣服も置いている。男女の別もない。若い男性連中は朝から晩まで女性をナンパしていた。                       (撮影:鈴木邦弘)

 一方のミヤザワはペルーのプカルパという小さなジャングルの町からアマゾン川を下っていくことになっていた。ただし、携帯電話もネットもない当時、互いに連絡する手段は全くなかったので、ミヤザワがどのように旅をしているかは知るよしもなかった。
 初めてのブラジルでのポルトガル語の実践は……ショックの一言に尽きた。現地の人が話していることがまるっきり理解できないのだ。単語と単語はくっつき、音程は歌をうたうように軽やかで、最初はフランス語かと思ったほどだ。そしてフランス人の話すフランス語同様、蝶のように軽やかに舞い、あっという間に視界の外に出てしまう。つまり、何を言っているのかさっぱりわからない。
 しばらくして気づいたのだが、ブラジル人の発音は山岡先生の発音と全然ちがっていた。rの音を先生は日本語のラ行で発音していたが、ブラジル人はハ行に近い音で発音している。ℓ(エル)の音は、先生は英語やフランス語のℓと同じように発音したが、ブラジル人は語中のℓは母音のuのように発音した。
 有名なサッカー選手にロナウド(Ronald)やロナウジーニョ(Ronaldinho)、リバウド(Rivaldo)がいるが、彼らは現地ではそれぞれ、ホナウド、ホナウジーニョ、ヒヴァウドというふうに発音されるのだ。
 不思議なことにブラジル人の格闘技選手が日本に紹介されるときは、現地の発音に忠実に翻訳されている。例えば、有名なグレイシー柔術のグレイシー一家。世界で初めて行われたバーリトゥード(「何でもあり」の総合格闘技)で優勝したホイス・グレイシー、400戦無敗を誇り高田延彦や船木誠勝にも圧勝したヒクソン・グレイシーはそれぞれ、Royce、Ricksonと書く。つまり山岡先生読みならロイスとリクソンなのである。
 その他、gente(人々)は先生によれば「ジェンテ」だったが、実際には「ジェンチ」だった。語尾の母音eはiの音に近くなるか消えてしまって子音だけになり、子音のdとtもつぶれて、それぞれjやchに近くなる。
 ポルトガル語もスペイン語同様、本来は開音節だが、単語の語尾がすり減っているため往々にして閉音節のようだった。だからなおさら聞き取りが難しい。
 いまだに不思議でならない。山岡先生は昔の日本の語学教師のように書物だけで勉強した人ではなく、現地に20年以上も住んでいたのだ。奥さんも日系とはいえネイティヴのブラジル人なのだ。先生もネイティヴに近い発音をすると私たちが思い込んだのも無理はない。しかし実際にはほとんど別言語のような発音を教わっていた。
 私は毎日、真っ白な霧の中を手探りで進むような心許なさでポルトガル語の海を漂っていた。こちらの言うことは通じるが、相手の言うことがわからない。旅行に必要な会話ぐらいはできるが、相手の体験談や何かの事件の経緯などを聞くとなると、いきなり迷子である。
 どうして、ネイティヴの先生を選ばなかったのか。どうして、当時からたくさんいた日系ブラジル人を探して会話の練習をしなかったのか。心底後悔した。
 1カ月が過ぎても私のポルトガル語は大した進歩を見せなかった。下手に間違った発音が染みついているので修正がきかないのだ。その辺は私が天才ではなく、語学の凡人たるゆえんだ。

スペイン語を話すミヤザワ
 2カ月後、ペルーとの国境が近づき、ミヤザワと待ち合わせのテフェに到着した。市場の周りをぶらぶらしながら彼を探していると、一緒にいた鈴木さんが「あ、ミヤザワだ!」と叫んだ。どこにいるのか最初は全くわからなかったが、「カミーサ・バラータ、カミーサ・バラータ(服が安いよ、安いよ)!」とスペイン語で呼びかける物売りの声に聞き覚えがあった。
 髪はぼうぼうに伸び、やせこけてすっかり人相が変わってしまっていたが、たしかにミヤザワだった。なぜか、アマゾンで行商をやっているのだ。
「ミヤザワ!」と呼びかけると、一瞬服を売りつけようとしかけて、ようやく彼も私たちに気づいた。話を聞いて驚いた。ペルーの首都リマで悪徳警官2人組に銃を突きつけられてカネを奪われ、その後アマゾン川上流の町プカルパから川旅を始めてまもなく、今度は船の中で盗難にあい、残りの所持金を全部失ってしまったのだという。テフェまでは親切な船の乗組員が食事を分け与えてくれ、テフェに着いてからは同じ船に乗り合わせたペルー人の行商人のグループに拾われ、彼らの仲間として一緒に服を売りながら生き延びていたという。
 さすが言語の天才だけあり、彼は習ってもいないスペイン語にすぐになじんでいた。もちろん、そんなにうまいわけではないにしても、行商人グループとふつうに会話し、商売まで任されていたのだ。もっとも、山岡先生のポルトガル語の発音は極めてスペイン語に近いものだったから、むしろミヤザワにはラッキーだったのかもしれない。
 ミヤザワは一文無しで行商人の下っ端生活に疲れ果てていたようだが、その姿に私は羨望を隠せなかった。私の方はお金こそ不自由してなかったが、言葉が通じず、毎日が苦痛でならなかった。私から見れば、ブラジルに入ってもスペイン語で押し通してブラジル人の客と値段交渉をして服を売っているミヤザワは輝いていた。彼にはブラジル人のポルトガル語が私よりずっと聞き取れるようだった。
 言語の天才は実在する。どこへ行ってもたちまちその中に入って言葉に苦労しなくなるような人間が。たとえ運はとてつもなく悪くても。
 私にとってはなんとも苦い体験であり、複雑な溜息をついたのだった。

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 ミヤザワと出会ったテフェでは地元のガイドの案内でアマゾンツアーを楽しんだ。これはガイド氏が夜のうちに捕まえたワニを翌朝、私が検分しているところ。ちなみに私のドレッドヘアはブラジルではとても好評だった。(撮影:鈴木邦弘)

(※1)正確には、河口の町ベレンからペルーのイキトス(イキートス)までは定期船を乗り継ぎ、その先は治安もよくないため、空路や陸路を使って最長源流のミスミ山付近まで行った。詳しくは『巨流アマゾンを遡れ』(集英社文庫)をご参照いただきたい。

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 ペルー・イキトスの市場で、巨大なナマズが歩いているのでびっくりしたが、よくよく見れば、男の人が背負っていた。人間がとても小柄なので魚に隠れて見えなかったのだった。今はどうかわからないが、1990年頃のアマゾンには巨大な魚がいくらでも捕れるようだった。              (撮影:鈴木邦弘)

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 アマゾン川最長源流のミスミ山めざして何もない原野を歩いていたら、アルパカの赤ちゃん二匹を背負って旅する先住民の男性に出会った。彼はアルパカにほ乳瓶で乳をあげていた。仔アルパカの可愛さと男性のやさしさにノックアウトされたものである。                       (撮影:鈴木邦弘)
高野秀行(たかのひでゆき)
ノンフィクション作家。1966年東京都生まれ。『幻獣ムベンベを追え』(集英社文庫)でデビュー。『ワセダ三畳青春記』(集英社文庫)で酒飲み書店員大賞を、『謎の独立国家ソマリランド』(集英社文庫)で講談社ノンフィクション賞と、梅棹忠夫・山と探検文学賞を受賞。
著書に『アヘン王国潜入記』(集英社文庫)、『移民の宴』(講談社文庫)、 『幻のアフリカ納豆を追え!』(新潮社)など多数。歴史家・清水克行との共著に『世界の辺境とハードボイルド室町時代』、『辺境の怪書、歴史の驚書、ハードボイルド読書合戦』(ともに集英社文庫)がある。

第2・第4金曜日 更新! 次回は4月23日(金)です。

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