コロナブルーを乗り越える本 野崎歓
フランス文学者の野崎歓さんは、外国文学から人間が苦難に直面しながらもしぶとく生きる姿を描いた3作をセレクト。今、こうした本を読めるということは、苦難を生き延びた人間からのプレゼントではないかと分析しています。
※この記事は、集英社インターナショナル公式サイトで2020年4月10日に公開された記事の再掲載です。
『デカメロン』
ボッカッチョ、平川祐弘訳/河出文庫など
いまわれわれは未曽有の事態の真っただ中にいる──というのが実感だが、しかし人類が歴史上、何度も何度も伝染病の恐怖に直面し、大変な被害にあいながら、そのつど打ち克って現在に至っていることもまた確かなのだ。
人類はしぶとく生き延びてきた。しかも後世に、はるかな時を隔てて生き続ける本をプレゼントしてくれたではないか。
そこには危難に屈しない人間の姿が刻まれている。たとえば『デカメロン』だ。
黒死病の大流行に襲われた14世紀のイタリア。フィレンツェ市中では地獄図絵が繰り広げられ、「尊ばれるべき法の威信は、宗教界においても俗界においても、ほとんどみな地に落ちて、顧みられなくなっていた」。そんななか、高貴な10人の男女は一見、そうした状況とまったく無関係な物語を互いに語り合い、興じ合う。苦難の時にも精神の楽園を守り抜く姿に感嘆する。
『ガラン版 千一夜物語』
西尾哲夫訳/岩波書店
ペルシャのシャフリヤール王は女性不信に凝り固まって、夜ごと新たな花嫁を迎えては、翌朝には命を奪う。
疫病さながらの被害をもたらすその非道な王に、自ら志願して嫁いだシェヘラザードは、夜な夜な「おもしろいお話」をつむぎ出すことで処刑の脅威に立ち向かう。人間にとって物語とは死への抵抗だったのだ。
『千一夜物語』を一躍、世界文学の重要作とした18世紀、アントワーヌ・ガランによる仏訳の初の日本語完訳版。達意の訳文に箱入りの美しい造本も嬉しく、ぜいたくな読書の時間に浸らせてくれる。
『雪』
オルハン・パムク、宮下遼訳/ハヤカワepi文庫
現代文学からこの長編を。
雪に降りこめられ交通が遮断されたトルコの都市を舞台に、主人公は「ペストのように伝染」する自殺連鎖の謎を追う。
そこに浮き彫りになるのは、イスラム原理主義の脅威にゆるがされる共同体の苦しみだ。
カミュの『ペスト』を下敷きにしながら、パムクもまた、出口の見えない状況に対し物語の力であらがおうとする。
のざき かん フランス文学者。
1959年、新潟県生まれ。東京大学文学部仏文科卒業。同大学院博士課程中退。東京大学文学部教授を経て、放送大学教養学部教授。
『ジャン・ルノワール 越境する映画』(サントリー学芸賞)、自身の子育て体験を綴った『赤ちゃん教育』(講談社エッセイ賞)、『異邦の香り ネルヴァル『東方紀行』論』(読売文学賞)『水の匂いがするようだ 井伏鱒二のほうへ』(角川財団学芸賞)など著書・訳書多数。