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コロナブルーを乗り越える本 春日武彦

春日武彦さん(精神科医、作家)が紹介するのは、風変わりな構成の本です。春日さんはそこには潜む意味を考察。これから長く続くであろう人類とコロナウイルスとの共存を思うときの、やるせなさに対処するヒントになるかもしれません。

※この記事は、集英社インターナショナル公式サイトで2020年4月22日に公開された記事の再掲載です。

『人生の段階』

ジュリアン・バーンズ、土屋政雄訳/新潮クレスト・ブックス

人生の階段.bk

不安と恐怖、得体の知れぬ気味悪さ、人影の消えた繁華街のシュールな眺め、対岸の火事めいた非現実感と医療現場の生々しさとの対比――まったくのところ、コロナはわたしたちを困惑させる。おそらく今後、人類は変異を重ねるコロナウィルスと危うい共存を図っていかなければならないだろう。それが未来永劫続く。そんなことを考えると、じわじわと無力感が前景化してくる。少なくとも現時点のわたしの心は、激しさよりも「やるせなさ」という妙に静まりかえった響きの言葉がもっとも当てはまる状態にある。

やるせなさについて考えるとき、真っ先に思い浮かぶのはジュリアン・バーンズの『人生の段階』である。これはいささか不思議な本で、全体が三つのパートに分かれる。最初は「高さの罪」と題され、気球の歴史とナダールによる(気球から撮影した)空中写真についてのドキュメンタリーが語られる。二番目のパートは「地表で」と題され、女優サラ・ベルナールと気球乗りでもあった軍人フレッド・バーナビーとの恋を描いたフィクションである。そして最後のパートは、長年連れ添った妻(バーンズの小説の良き理解者でありエージェントも務めていた)を病気で失った作家バーンズの悲しみ、喪失感、やり場のない怒り、寂しさ、無気力、そして「やるせなさ」についての内省的なエッセイである。

この本のテーマは、妻を亡くした小説家がいかに現実と折り合いをつけようとしたかの記録である。したがって本来的には三番目のパートのみで語るべき内容は十分の筈だし、読み応えもしっかりあるのだ。にもかかわらず、時代も場所も異なる二つのパート、しかもドキュメントとフィクションといったものが一冊の中に同居している。そしてバーンズは三つのパートが揃ってこそ悲しみのメモワールが成立すると考えている。多くの読者はそこに困惑する。実際、訳者あとがきにおいても「本書は三部構成になっている。主眼が第三部にあることは疑いがなく、第一部と第二部はそこに至るための導入部分だが、一読すると、どちらも本論たる第三部との関係がさほど強くない。独立させるまでもなかったのでは……と思わなくもない」と書かれている。

ではなぜ二つの「余分な」パートが書かれたのか。なるほど第一部は「組み合わせたことのないものを二つ、組み合わせてみる。それで世界が変わる」と書き出され、第二部では「これまで組み合わせたことのないものを、二つ、組み合わせてみる。うまくいくこともあれば、そうでないこともある」と始まり、第三部は「これまで一緒だったことのない者が、二人、一緒になる」と語り出される。確かに相似した文章である。でも、やはり第三部と第一、二部との内容には隔たりがあり過ぎる。

わたしの勝手な推測を述べるならば、おそらくバーンズはいきなり第三部を書き始められなかった。それだけの気力を振り絞れなかったし、きわめて個人的な苦しみを、あたかも普遍に通じるかのように語るのには躊躇したのだろう。羞恥心も関与していたかもしれない。でも第一部や第二部なら、手慣れた仕事として仕上げられる。しかも他人には不明瞭であろうと、彼にとって第一部や第二部と最後のパートとはしっかり詩的連想という「個人的と普遍的との中間的な紐帯(ちゅうたい)」によってつながっている。ドキュメントと小説とエッセイとを詩的連想でつなげたところに、バーンズなりの救済のイメージがあったのではないか。

とにかく慣れ親しんだやり方で第一部や第二部を作り上げ、ささやかながらも達成感や充実感を味わい、そこから率直かつ痛ましい吐露へとスライドしていく。その方法論は、わたしたちが辛い状況から回復していくプロセスと似ていないだろうか。まずは日常生活を大切にし、出来る範囲で丁寧にものごとをまっとうしていく。そうした愚直さに似ていないだろうか。

『人生の段階』は、読者を微妙にまごつかせる。が、その歪(いびつ)な部分にこそ、救いへ向かう意志が埋め込まれている。

かすがたけひこ 精神科医・作家。
1951年京都府生まれ。日本医科大学卒業。産婦人科医を経て精神科医に。
『無意味なものと不気味なもの』、『私家版 精神医学事典』、『猫と偶然』『援助者必携 はじめての精神科』など著書多数。
『様子を見ましょう、死が訪れるまで』など小説も手がける。共著に穂村弘との『秘密の友情』、平山夢明との『サイコパスの手帖』など。

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