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ヨーロッパ・南米篇(5) なんて理不尽なフランス語!

〈コンゴ〉や南米アマゾンと、世界をまたにかけてアルバイトをしているうちに、留年を繰り返した高野さんにも、進路を考えるときがきました。そこで、研究者を目指すため、フランス人の人類学者に会ったのですが──。

 フランス語、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語とたどっていったロマンス諸語の旅であるが、最後に話は再びフランス語に戻ってくる。
 前にも述べたように、私は具体的な目標があれば相当頑張るのだが、目標がなくなると、とたんにモチベーションメーターがゼロになるという悪癖がある。言語の天才どころか、習ったどの言語も大したレベルに到達しないのはそのせいだ。

京都大学アフリカセンターという進路
 一時期あれほど熱心に勉強していたフランス語もそうである。ムベンベ探査が終わり、興味が南米に移ってしまってからはすっかりやる気を失ってしまった。大学の授業(仏文専修なのでほとんどがフランス語関係の授業である)にもパタッと出席しなくなった。3年生まではきちんと出席して単位をとっていたのに、その後は4年生から6年生まで単位を一つも取れなかった。もちろんずっと留年状態である。
 NHKスペシャルのリサーチの仕事でザイールに行ったりしていたからフランス語自体はときどき使っていたが、ムベンベ探査のときと基本的に同じ単語や表現で事足りたので、惰性で乗り切っていた。
 実は一度だけフランス語に戻りかけたことがある。学生時代の私は〈コンゴ〉へ行く前後には毎回、京都大学のアフリカ地域研究センター(現・アフリカ地域研究資料センター。以下、略して「アフリカセンター」)へ足を運んだ。アフリカセンターは今西錦司に始まる生態人類学と大型類人猿の生態学・社会学的な研究で世界的に有名だった。とりわけ〈コンゴ〉の研究者は充実しており、私はコンゴの田舎町でアフリカセンターの研究者2人とばったり会ったこともある。ネットがない時代、どんな資料があるかもわからなかったから、この研究所で訊くのがなにより早くて確かだった。もちろん、〈コンゴ〉に関する疑問点や自分の知らない情報などなんでも教えてもらえた。
 アフリカセンターの人たちは学者っぽくなくて、やんちゃな雰囲気で、「何を調べたかより何キロ歩いたかの方が評価される」という説がまことしやかに流れるほど探検部っぽい気質の人が多かった。私はホテルに泊まるという発想がなかったため、初めは京都周辺の無人駅に野宿していたが、そのうち若手研究者の人たちが哀れに思ったらしく、代わる代わる家に泊めてくれるようになった。

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 NHKスペシャルのリサーチのため、ザイール東部の「イトゥリの森」に暮らす狩猟採集民ムブティを訪ねた。弓矢での狩りに同行したとき彼らは、なんと大きなニシキヘビを捕まえた。このときの写真はNHKか制作会社に渡してしまったらしく見つからないが、唯一自分の記念写真だけは手元に残っている。ムブティの人が撮影してくれたひじょうに貴重な写真だ。

 すっかり京大の人たちと仲良くなり、人類学の先生からは「うちの大学院に入ったらどうや。君はフィールドワークもできるしフランス語もわかるし即戦力や」と誘ってもらった。なんでも二次試験の面接はどうにでもなるから、一次試験のペーパーテストだけ頑張ればいいとのことだった。当時、就職する気がゼロで、なんとなく「外国でぶらぶらしながらフリーのライターをやろう」と思っていたのだが、この話には飛びついた。京大アフリカセンターの研究者なんてカッコイイ! と単純に思ったのだ。もし合格したら、フランス語と復縁することになる。
 ところが、こんなありがたい条件を与えられても私には簡単な話ではなかった。アフリカセンターが理系の研究所だったからだ。試験科目は①英語、②第二外国語(私の場合はフランス語)、③物理学、生物学、化学の中からどれか一つ、だった。①と②はおそらく大丈夫だろうが問題は③だ。私は筋金入りのぼんくら文系学生であり、物理や化学は論外なので、消去法的に生物学を選択した。親しくなったアフリカセンターの院生の人に過去の試験問題を大量にコピーして送ってもらったのだが、高校時代でも「生物」が赤点ギリギリだった私には、京大大学院受験用の生物学はさすがにハードルが高かった。大学生向けの生物学入門みたいな本を買って、一人でポツポツ勉強したが、だんだん絶望的な気持ちになっていった。

世界の不公平に気づいた瞬間
 それでも私は決してアフリカセンター行きを諦めたわけではなかった。その証拠に、フランス人の著名な人類学者が京大の招聘で来日すると聞き、アフリカセンターの先生方に頼んで、その学者(A博士と呼ぶことにする)が東京に来たときにわざわざ面会させてもらった。A博士はまだ42歳の若さながら、〈コンゴ〉の狩猟採集民の研究で世界的な権威となっていた。
 会ったのはたしか新宿の喫茶店だったように思う。アテンドしていたアフリカセンターのI先生がなぜか店の隅にあるコンピューターゲームでピコピコ遊び始めたので(アフリカセンターにはこういう風変わりな人が多かった)、私はA博士と差し向かいで座り、〈コンゴ〉のこと、狩猟採集民のこと、人類学のことなどをあれこれ訊ねた。共通語はフランス語でなく英語だった。フランス人研究者のフランス語などたぶん半分もわからないだろうし、反面、フランス人の話す英語はたいがいわかりやすいので、そうしたのだ。
 A博士は東洋人の若い学生を相手にとても気さくかつ誠実に受け答えしてくれたのだが、何を話したのかはまるで憶えていない。私の残念な忘却力もさることながら、最後のやりとりがあまりに強烈で、それまで話していた内容が吹き飛んでしまったからだ。
 「私は〈コンゴ〉を研究する人類学者になりたいです。優れた人類学者になるために何かアドバイスをいただけますか?」。私がそう訊くと、A博士はしばし間をとってから答えた。「日本人の研究者は優秀だが、一つだけウィークポイントがある。言語だ」
 え? と思った。〈コンゴ〉をフィールドにしているアフリカセンターの研究者は言語ができる。英語、フランス語に加え、リンガラ語と地元の民族語まで話すと聞いている。実際、私がコンゴでばったり会ったアフリカセンターの研究者2人はコンゴ人がびっくりするほど流暢にリンガラ語を話していた。
 それでもA博士から見れば「まだまだ」なのか。さすが世界のトップはちがうと思った。
 ところがその後で衝撃の事実が判明した。アテンドしてくれたI先生によれば、実はA博士はフィールドワークをすべてフランス語で行っているというのだ。
 〈コンゴ〉の公用語はフランス語だから、高校を卒業した程度の人なら、読み書きにしても会話にしても日常生活には全く困らないレベルのフランス語を話す。中にはフランス人の知識人に遜色ないくらいの能力のある人もいる。〈コンゴ〉はインテリの人たちが就くべき十分な仕事がないから、そんなハイスペックの人が定職をもたずにぶらぶらしていることもよくある。
 そういう現地の優秀な人材を通訳に使い、狩猟採集民の人たちに片っ端から訊いていくのだという。自分の母語を駆使できるのだから、どんなに込み入ったことでもわかるはずだ。私だって日本語で調査ができたら、どんなに複雑な神話や親族体系についても訊けるだろうし、狩りの手順や分配についても時期やグループによってどんな差異が生まれるかなど、桁違いのスピードで理解できるだろう。
 現地調査だけではない。〈コンゴ〉については植民地時代から今に至るまで膨大な文献資料がフランス語で残されており、それもすらすら読める。さらに論文を書くのもフランス語である。なお、A博士はリンガラ語も民族語も一切話せないという。
 そのうえで「日本人はフランス語が下手で、それが研究者としての欠点だ」などと言っているのである。そこには何の反省もなければ悪気も感じられなかった。
 フランス人のあまりの傲慢さと世界の不公平さに目眩(めまい)がした。〈コンゴ〉を含めアフリカのフランス語圏は政治経済的に圧倒的にフランスの影響力が強く、いまだにフランスの植民地みたいなものだと前から思っていたが、フランス人の意識でも完全に植民地状態のようだ。
 なんというか、フランス語にほとほと愛想が尽きてしまった。だいたい〈コンゴ〉などのフランス語圏のアフリカをフィールドにしていたらフランス人に絶対に勝てないではないか。
 同時に細々と続いていた大学院受験の意欲も消えた。まあ、こちらは単なる言い訳だろう。実際には京大の研究者の人たちはフランス語のハンディを背負いながらも世界的に評価される業績を上げていたのである。問題は私の方にあった。生物学が難しいことと、それに加えて学問の想像以上の地道さに気づき、未知とか謎が大好きでケレン味度数100%みたいな自分には無理! と悟ったのが真実に近いのだが、すべての責任をフランス語に押しつけたくなったのである。心の中で叫んだ。「アデュー、ル・フランセ(さらば、フランス語)!」 

好条件(?)の就職情報
 アフリカセンター行きを断念したら、大学を卒業する気もなくなった。なんせ、まだ単位は山ほど残っており、それらはフランス語を勉強しないと取得できないのである。「まあ、いいや、このまま中退してフリーライターになればいいのだ」と思ったのも自然な流れである。
 この後、前述したように、南米のアマゾンを河口から源流まで遡ってガイドブックを作るという仕事に専念した。しかし、知れば知るほど、(中)南米というのは支配階級がスペイン系やポルトガル系などの白人で、政治的にはアメリカの影響力がひじょうに強かった。(中)南米を「アメリカの裏庭」と呼ぶ人もいたくらいだ。
 要するに、アフリカも南米も、日本から見れば遠いが、欧米人にはさほど遠くない。言語的にも英語とロマンス諸語の肉食言語に制圧されている。
当時の私は「世界で闘わなければいけない」というケレン味たっぷりの野望があった。世界の人が驚くようなことを何かするには、英語やロマンス諸語の支配下にあるアフリカや南米は不利だ。それならヨーロッパ言語の通じないアジアの方が有利なんじゃないかと思った。
 漠然とそんなことを考えながら、三畳間でゴロゴロしていたら、突然「就職情報」が舞い込んだ。タイに通って文化人類学を専攻している探検部OBの先輩が「タイ北部のチェンマイ大学で日本語講師の口がある」と教えてくれたのだ。なんでも月給は日本円で2万5千円ほど。日本人の感覚では異常に安いが、タイの公務員の大卒初任給と同じで、宿舎もあてがわれ、生活には困らないという。そして日本語教育の技術も経験もいらないとのこと。条件はたった2つ、「日本人(日本語ネイティヴ)であること」と「大卒であること」。
 「やります!」と即答した。
 ここで最大の障壁が立ちはだかった。「大卒」とはフランス文学専修を卒業することだ。フランス語に別れを告げてアジアを目指したのに、そこへ行くにはフランス語を乗り越えなければいけないのである。なんと世の中は理不尽なのだろう……。

A学生時代の高野(縦イチ)

 私が22歳から30歳まで8年間暮らした三畳間の部屋。家賃1万2千円で、私が長期間海外へ行っている間は探検部の他の部員が勝手に暮らしたりしていた。大家さんもそれを快く許してくれ、理想的な住処だった。
(撮影:鈴木邦弘)
高野秀行(たかのひでゆき)
ノンフィクション作家。1966年東京都生まれ。『幻獣ムベンベを追え』(集英社文庫)でデビュー。『ワセダ三畳青春記』(集英社文庫)で酒飲み書店員大賞を、『謎の独立国家ソマリランド』(集英社文庫)で講談社ノンフィクション賞と、梅棹忠夫・山と探検文学賞を受賞。
著書に『アヘン王国潜入記』(集英社文庫)、『移民の宴』(講談社文庫)、 『幻のアフリカ納豆を追え!』(新潮社)など多数。歴史家・清水克行との共著に『世界の辺境とハードボイルド室町時代』、『辺境の怪書、歴史の驚書、ハードボイルド読書合戦』(ともに集英社文庫)がある。

第2・第4金曜日 更新! 次回は5月14日(金)です。

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