コロナブルーを乗り越える本 小林紀晴
小林紀晴さん(写真家、作家)はニューヨーク滞在中、同時多発テロに遭遇した際に現地で手にした『星の王子様』の著者にして飛行士のサン=テグジュペリによるエッセイを紹介。気が休まらない日々のなか、心を穏やかにしてくれた一節とは。
※この記事は、集英社インターナショナル公式サイトで2020年4月25日に公開された記事の再掲載です。
『人間の土地』
サン=テグジュペリ、堀口大學訳/新潮文庫
2001年、ニューヨークに一年ほど暮らしているときに同時多発テロに遭遇した。事件から少し経ったころ炭疽菌(たんそきん)事件が静かに始まった。その菌が郵便物に入れられてニューヨーク中の報道機関や人へ送りつけられた。実際に数名の方がその菌によって亡くなった。日本ではあまり報道されなかったようだが、ニューヨーク市民の多くが、それに翻弄された。私も気が休まらず疲れ果てた。あの時の状況と今回のことがほんの少しだけ重なって感じられる。
当時住んでいたすぐ隣のブロックの郵便物からそれが見つかると、アパートの住民の誰もが疑心暗鬼になった。ポストから郵便物を出す時、口を閉じ、指先でつまみ上げるようしておそるおそる取り出した。そんな日常がしばらく続いた。
そんななか、現地の紀伊國屋書店でなんとなく手にしたのが本書だ。
「あのともしびの一つ一つは、見わたすかぎり一面の闇の大海原の中にも、なお人間の心という奇蹟が存在することを示していた」という一節がある。この文章に触れた時、どういうわけか心が穏やかになった。
飛行士であるサン=テグジュペリが夜間飛行の際、眼下に「ぽつりぽつりと光っている」明かりに思いをはせ、そこに暮らす人々の姿を想像するのだ。
上空からのその眼差しを、私は人間への絶対的な肯定だと感じた。だから、あのとき、その一文に眼が留まったのではないか。
「努めなければならないのは、自分を完成することだ。試みなければならないのは、山野のあいだに、ぽつりぽつりと光っているあのともしびたちと、心を通じあうことだ」と文章は続く。
ここには深い孤独がある。同時に、誰かの存在がなければみずからの存在はあり得ない、誰かの孤独がなければみずからの孤独もありえない、と語っているように感じられた。それを「心の奇蹟」と呼んでいるのかもしれない。
こばやしきせい 写真家・作家。東京工芸大学教授。
1968年長野県生まれ。東京工芸大学短期大学部写真技術科卒業後、新聞社カメラマンを経て1991年に独立。1995年、『ASIAN JAPANESE』でデビュー。『DAYS ASIA』で日本写真協会新人賞。写真展「遠くから来た舟」で林忠彦賞受賞。
『愛のかたち』『見知らぬ記憶』『まばゆい残像』など著書多数。最新写真集は『孵化する夜の鳴き声』