コロナブルーを乗り越える本 川内有緒
ノンフィクション作家、川内有緒さんが紹介するのは音楽の力に想いを馳せ、夢を描ける本、そして人生というものと、日常との接し方に改めて気付かされる本の2冊です。
※この記事は、集英社インターナショナル公式サイトで2020年4月17日に公開された記事の再掲載です。
『パリ左岸のピアノ工房』
T.E.カーハート、村松潔訳/新潮クレスト・ブックス
かつて私がパリに住んでいた頃のことだ。通りの向かい側のアパルトマンに住んでいた男性が、唐突に部屋の窓をひらき、ベランダからオペラの歌曲を披露し始めたことがある。
石畳の通りに響くのびやかなバリトン。
それは街角にかけられた魔法みたいで、私の記憶に深く刻まれた。
ヨーロッパの街角には、いつだって音楽が似合う。いま、コロナで苦しんでいるときでさえそうだ。ロックダウン中のイタリアやスペイン、フランスでは、人々がベランダに楽器を持ち出し、通りのこっちと向こうでセッションしているらしい。羨ましい。苦しい時こそ、一緒に歌い、楽器が奏でられる人たちが。
『パリ左岸のピアノ工房』は、パリ在住のアメリカ人の著者が、家の近所の裏通りで謎めいたピアノ工房と出会うところから始まる。そうして、自分だけの愛すべきピアノを手に入れ、音楽とともに暮らす喜びを発見していく。パリという街が持つおおらかさ、そしてピアノという楽器の奥深さを感じさせる色褪せない名著である。
私自身は残念ながら楽器を弾くことはできない。いや、正確にいえば十代の頃は毎日のようにピアノを弾いていた。しかし、先生のあまりの厳しさにピアノ自体が嫌いになってしまい、今となっては一曲も弾くことができない。しかし、こうして家にいる時間が長くなると、もう一度ピアノを弾いてみたいという思いだけはどんどん募る。そうして、自分の家で練習したあとは、東京の家の窓をあけ放ち、近隣の人たちを驚かせてみたいものだ。
『断片的なものの社会学』
岸政彦/朝日出版社
とてつもなく奇妙で、とてつもなく魅力的な本である。著者は社会学者の岸政彦氏。
「人生は、断片的なものが集まってできている」
そう書かれている通り、この本には海から打ち上げられた漂流物のような不揃いな断片が寄り集まっている。
それらは、著者が聞き取り調査をするなかで、こぼれてしまったような会話やたまたま焼きついた記憶らしい。一度だけ道ですれ違っただけ男性のことや、道端に捨てられていた猫のこと、長らく会ってない昔の女友達のことなど。一見するとまるで一貫性のない話が万華鏡のように立ち現れる。しかし、読み進めていけばいくほど、その全てに愛おしさと煌めきを感じてしまうのだ。たぶん、まさしくこういう細やかなディテールこそが私たちの人生だからだ。
いま多くの人が悩み、苦しみながらも自分なりの決断を下しながら生きている。外で働くのか、家にこもるのか。お店を開けるのか、閉めるのか。いや、そんな大きな決断じゃなくとも、テレビをつけるのか、消すのか。歩くのか、走るのか。何を買い、何を食べるのか、そして、何を捨てるのか──。
その決断の多くは誰にも注目されないひっそりとしたものだ。ただ、そこにこそ私たちが生きてきた断片がある。読み終わった後は、密やかな幸福感に包まれていることだろう。
かわう ちありお ノンフィクション作家。
1972年東京都生まれ。日本大学藝術学部卒業後、米国ジョージタウン大学で修士号を取得。米国企業、日本のシンクタンク、仏の国連機関などに勤務後、フリーのライターに。『バウルを探して』で新田次郎文学賞、『空をゆく巨人』で開高健ノンフィクション賞受賞。著書に『パリでメシを食う。』『パリの国連で夢を食う。』『晴れたら空に骨まいて』など。
東京でギャラリー「山小屋」を運営。