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混沌のゴールデントライアングル言語群篇 (3)「日本文学」でマンガ講読

チェンマイで第二の青春を謳歌しながらも、熱心にタイ語の勉強に取り組んだ高野さん。日本語教師としても「話し言葉」を教えることに力を入れた。そのどちらにも役立った画期的なテキストとは。

 現地に住みながら言語を学ぶのは言語好きにとって申し分のないシチュエーションである。チェンマイにはかつてなかったほど、いろいろな学習法の選択肢が揃っていた。私は片っ端からそれらを試していった。学習法を試すこと自体にも興味があったのだ。今回はそのうち2つを紹介したい。

語学学校のマンツーマンレッスン  
 まずはオーソドックスに語学学校へ通った。チェンマイにはAUAという外国人向けの語学学校があり、日本や先進国に比べたら格安で、英語の話せる先生からマンツーマン授業を受けることができた。1回90分の授業を週に3回、月に直すと12回受けた。月に3千バーツ(約1万5千円)、1回あたり1,250円である。たしかに格安だが、私の月給は超格安の5千バーツ(約2万5千円)だから、月収の半分を上回る額になってしまった。
 AUAの先生はさすがに教えるのが上手だった。英語はすぐに使わなくなり、やさしいタイ語だけで授業が進められるようになった。テキストには主にタイ(特に古都であるチェンマイ)の文化や歴史を簡便に紹介する随筆のような文章が書かれていた。先生は生粋のチェンマイ人だったので、自分の経験を交えながらそれらを解説してくれた。文法の説明も専門的でありつつ、わかりやすかった。まるで大学のタイ語学科で授業を受けているようだ。
 「本来、俺がこういう授業をすべきなんだろうなあ……」とよく思ったものだ。
 私は自分にきちんとした日本語教育の能力がないことを自覚していたので、最初から即戦力的な日本語会話を中心に教えていた。例えば、実際の日本人は「大きいもの」ではなく「でかいやつ」と言うとか、「とてもおいしい」よりも「すごくおいしい」もしくは「すごいおいしい」という表現が多用されるとかだ。「すごいおいしい」にいたっては文法的に間違っているのだが、現実にはそう言う人の方が多い。私は言語に関しては現実至上主義をとっているから、文法的に間違っていても、人々が使う表現を学ばねばいけないと思っている。
 逆に言えば、AUAで教えてくれるタイ語はあまりに「公式」すぎる嫌いがあった。タイ語は日本語ほどではないが、やはり書き言葉と話し言葉はちがう。学校の先生が話すような言葉遣いと学生たちが話す言葉遣いも同じでない。だからAUAだけでは不十分だった。もっと、私が日頃、学生に教えている「でかいやつ」的な、くだけた話し言葉が習いたかった。

貸本屋で日本のマンガを探す
 目をつけたのはマンガだった。当時は1990年代初頭で、タイでは日本のマンガが異常なほどの人気を誇っていた。ありとあらゆる種類のマンガがタイ語に翻訳されていた。コミックはもちろんのこと、「週刊少年ジャンプ」や「別冊マーガレット」のようなマンガ雑誌でさえ、1カ月遅れぐらいで翻訳出版されていた。もっとも、おそらくそれらの多くは海賊版で、日本の漫画家や出版社には無断で発行しているものだったろう(今ではきちんと契約しているはずだ)。
 これらのマンガはコンビニや書店でも販売されていたが、そこで入手できるものはごく一部である。というのも、タイには書店というものがいくらもない。当時チェンマイでは文房具店とセットになった書店が1軒か2 軒しかなかったと思う。品揃えもよくない。コンビニでは日本のマンガよりタイのマンガの方が優勢だった。タイのマンガは日本のものとは全くちがって、おどろおどろしくてときに滑稽なホラー(お化け)マンガが中心である。

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 日本のマンガ売り場。どこで撮影した写真かよく覚えていない。もしかすると、バンコクのBTS(高架鉄道)の駅かもしれない。おそらく撮影時期は2000年以降で、これらのマンガは日本の出版社から版権をきちんと取得したものだと思われる。

 では一般の人はどこで日本のマンガを読むのか。それは貸本屋だ。当時、タイでは町のそこかしこに貸本屋があった。活字だけの本はごく限られ、大部分は日本のマンガの翻訳だ。マンガを読むのは若者であり、特に大学生に人気があったから、いちばん充実した貸本屋は大学の正門前や裏門前にあった。正門前の貸本屋など、蔵書数千冊を誇っており、本好きの私を恍惚とさせた。
 まず最初に選んだのは『ドラえもん』。このマンガは語学にはうってつけだ。使われている言葉は小学生レベルにして、家庭や学校、仕事など、日常生活のあらゆる場面が描かれている。『ドラえもん』はまずどんな貸本屋でも置いてある。 
 貸し出し料は1冊いくらだったのだろう。まるで憶えてないが、とにかく安かった。日本円で1冊10円とか20円とかではなかったか。
 まずタイ語初心者にとって難しかったのは、文字の判読だった。タイ語のマンガは吹き出しの文字が基本、活字ではなく手書きなのだ。翻訳者は多くの場合、若い女性らしく、活字とは異なる丸っこい奇妙な字体で書かれている。ちょうどその頃、日本の若い女性の間で流行っていた丸文字みたいな感じだ。最初は戸惑ったが、慣れると字を崩すパターンがわかり、読めるようになった。私の学生たちもそっくりの字を書いていたから、手書き文字に慣れると、学生の文字も読めるようになって助かった。作文などで、学生は日本語表現がわからないところにタイ語の単語を書き込んだりするのだ。
 文字がわかると辞書を引くことができる。頻出する単語はノートに書き写しておく。わからない表現はタイ人の同僚の先生や学生にあとで訊くこともあった。

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 タイで発見・購入した『ドラえもん』の英語とタイ語の対訳本。タイ人も英語をマンガで学習しようという、私と同じ発想に至ったらしい。私はこれを読んで、英語とタイ語の両方を学ぼうとした。

 小学生向けの『ドラえもん』を読み飽きると、もっと自分の好きなマンガを探して読むようになった。これは本当に楽しかった。私はもともと重度の読書中毒者であると同時に辛いことが大嫌いという体質である。どんなことでもラクにやりたいと願ってやまない。だから語学においても単語や動詞の活用や例文を暗記するといった地道な努力が心底苦手で、いつも「もっとラクをして言語が身につく方法はないか」と探していた。
 その意味で好きなマンガを楽しみながらタイ語が学べるというのは最高だった。
 かくして、私はチェンマイの街中で貸本屋を見つけると片っ端から入ってマンガを探した(タイの他の町へ旅行したときにも同じように貸本屋を物色した)。どこの貸本屋もおおざっぱに「この辺は少女マンガ」「この辺は少年マンガ」的な棚の区別をしていたが、まあ、ほとんどはごちゃごちゃである。しかもタイの翻訳マンガ本は(価格を下げるためだと思うが)1冊が日本の半分ぐらいの厚さに分冊されていることが多い。背表紙の幅は狭く、そこに小さく記されたタイ語のタイトルを読み取るのが難しい。なにしろ店によっては何千冊とあるのだ。細かいタイ語の文字が壁(本棚)を埋め尽くしており、初めは本当に目が回りそうだった。
 でも、慣れとは恐ろしいもので、1カ月もすると初めての店でもパッと見渡すと、日本語の本を探すときと同じようにお目当ての本をひょいひょい見つけ出すことができるようになっていた。中には「おっ、こんなもんがあるのか!」という発見もあった。
 私がタイで読んだマンガは相当な量に及ぶ。憶えているところでは『ブラック・ジャック』『めぞん一刻』『どろろ』『YAWARA!』などがあった。シリーズものはなかなか全巻揃っている店がなくて、バイクで街中を走り回って欠けた巻を探した。そんなことをしていると、自分がチェンマイの町にどんどん溶け込んでいくのを体感して、それもまた楽しかったことを思い出す。

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『ブラック・ジャック』は私にとって子供の頃からの愛読書。タイでも巡り会えるとは思わなかった。

最高の口語表現テキスト
 マンガは結果的に私の「本業」の役にも立った。
 後期には「日本文学」の授業があった。前任の先生は夏目漱石の『こころ』なんかを取り上げていたようだが、私はマンガに切り替えた。なぜか。日本の文学小説はいくらなんでも学部の学生には難しすぎる。前任者のときは、『こころ』が半年でたった3ページしか進まなかったという。
 無理もない。入学以来、まだ3年半しか日本語を勉強していないのだ。しかも、彼ら(彼女ら)は日本文学などに関心をもっていない。日本語学科を選んだ動機を訊くと、「マンガが好きだったから」が第1位を占めた。中には「将来はマンガの翻訳者になりたい」という子もいた。実際、タイに溢れる莫大な量の日本マンガはチェンマイ大学を含む、各大学の日本語学科の卒業生たちによって翻訳されていたのだ。
 ならば、マンガをテキストにした方がいい。マンガは日本が世界に誇る文芸であるのも間違いない。
 ただ一つだけ問題があった。これだけマンガの翻訳が充実していると、テキストにしにくい。例えば、『ブラック・ジャック』をテキストにしたら、学生たちの誰かがタイ語訳を貸本屋で借りてきてコピーしてしまい、授業の意味が半減してしまう。前も述べたが、言語学習では自分の母語を介在させない方がいいのである。タイ人が日本語を学ぶときにタイ語のあんちょこがあるのは百害あって一利なしだ。
 しかし、そこはタイの貸本マンガ文化を熟知した私の強みである。「ありとあらゆる種類のマンガがある」と言ったが、日本で出版されたすべてのマンガが翻訳されているわけではない。例えば、『ドカベン』みたいな野球マンガは一切なかった。ほとんどのタイ人は野球に興味がないから当然であろう。時代ものや会社ものといった「おじさん向け」の漫画も少なかったと思う。
 中には、理由は不明だが、まだタイ語訳されてないマンガもある。私は自分が読んだことのある「学生に受けそうな漫画」をリストアップしてから、「授業の準備」と称して、貸本屋を回り、まだ翻訳されてないマンガを探した。これまで幻の怪獣を含め、「あるかもしれないもの」を探してきたのだが、このとき生まれて初めて「ない」ものを探した。
 見つけたのは(貸本屋になかったのは)柴門ふみの『東京ラブストーリー』。日本で爆発的な人気を呼び、1991年にドラマ化もされて大ヒットしていたのに、なぜかタイ語版が出ていなかったのだ。
 日本文学のテキストにマンガを使うと伝えると、学生は目を丸くした。毎回、『東京ラブストーリー』の1話分のコピーを配る。彼らは自分と同じ世代の日本の若者の風俗や恋愛を描いていたこのマンガに熱中した。彼らもまた、「努力しないで楽しく日本語がうまくなりたい」と思っていたのだ。
 学生たちはいつになく予習をきちんとしてきたし(早く先が読みたかったのだろう)、なによりディスカッションが毎回異常に盛り上がった。ナンパをしてそのままホテルで寝てしまうシーンには「日本はフリーセックスの国なんですか?」と質問が出た。考えてみれば、それまでこんなにあけすけなシーンを描いた若者向けの恋愛漫画はそれまでなかったかもしれない。今はすっかり変わってしまったが、当時のタイは日本よりはるかに性について控えめな国だったから、これが理由で翻訳が行われていなかった可能性もある。
 でも学生たちは今まで見たことがなかったからこそ興味津々である。純朴な「完治」とプレイボーイの「三上」という2人の男子が登場する。日本の女子の間でもどちらが好みか意見が分かれたらしいが、タイの女子学生の間でもきっぱり二分された。「私は完治がいいです。かっこよくないけど、信頼ができます」「いいえ、私は三上がいいです。なぜならかっこいいからです。本当に愛したら、あとで信頼もできると思います」などと、熱い議論が交わされた。学生たちがこんなに活発に日本語で喋るのを見たのがなく、私はそちらに感動していた。言語(外国語)は「話したいことがあると話せる」のである。
 技術的にも口語の勉強になった。私はなるべく口語的な表現を教えていたものの、てきとうな口語テキストがなく、限界があった。書かれていないものを教えるのは想像以上に困難で、結局は「もう行かなければなりません(いけません)」とか「それでは困ります」などという教科書的な表現になりがちだった。その結果、学生たちは実際に日本人と会ったとき、相手の言うことが聞き取れず困ることが多かった。
 日本語は明治初期に言文一致がなされたことになっているが、それは幻想にすぎない。結果的には「文語」がやわらかくなった程度である。日本語で書かれた出版物において言文一致が(ほぼ)実現されているのはマンガしかない。
 マンガでは「じゃ、もう行くから」とか「そんなの困るよ」という普通の日本人の喋り方が普通に出てくる。そういう日本語こそが「ネイティヴの話す言葉」であり、私がタイ語学習に求めていたものでもあった。マンガにおいて、私と学生の需要と供給は見事に一致したのだ。
 期末テストがまた学生たちの度肝を抜いた。「糊を用意するように」と言ったのだ。私はまだ授業で取り上げていない『東京ラブストーリー』の回を人数分コピーし、すべてのコマをはさみで切ってバラバラにしてから、何枚かのA4用紙と一緒に学生一人ずつに配った。
 「コマを正しい順序に並べて紙に貼ってください」
 これが日本文学の期末試験である。学生はびっくりしていたが、絵と吹き出しの日本語を読み比べ(見比べ)、1時間かけてなんとか物語を再構築していった。意外にみんな、よくできていた。
 言語学習とマンガは相性がいい。私も学生たちもお互いにすっごい満足できた授業だったのである。

タイの日本語講師時代

私が赴任した翌年、卒業を迎えた日本語学科の教え子たち。このうちの何人かはマンガ翻訳者になったかもしれない。
高野秀行(たかのひでゆき)
ノンフィクション作家。1966年東京都生まれ。『幻獣ムベンベを追え』(集英社文庫)でデビュー。『ワセダ三畳青春記』(集英社文庫)で酒飲み書店員大賞を、『謎の独立国家ソマリランド』(集英社文庫)で講談社ノンフィクション賞と、梅棹忠夫・山と探検文学賞を受賞。
著書に『アヘン王国潜入記』(集英社文庫)、『移民の宴』(講談社文庫)、 『幻のアフリカ納豆を追え!』(新潮社)など多数。歴史家・清水克行との共著に『世界の辺境とハードボイルド室町時代』、『辺境の怪書、歴史の驚書、ハードボイルド読書合戦』(ともに集英社文庫)がある。

第2・第4金曜日 更新! 次回は7月9日(金)です。

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