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シティを覗く──『異邦人のロンドン』番外編③

 朝日新聞GLOBE【世界の書店から ロンドン編】で15年にわたり執筆を続ける園部哲(そのべ・さとし)さんの著書『異邦人のロンドン』が本日発売になりました!

 最初はビジネスマンとして、現在は翻訳者として30年以上滞在しているロンドンの街を、「移民」の視点から描くこの本には、王室報道ではお目にかかることのできない、コスモポリタン都市の素顔があります。

 本書の発売を記念して、『異邦人のロンドン』には収まりきらなかった、とっておきのエピソードをご紹介します。
 あなたの知らないロンドンの姿が、きっとここにあります。
(編集担当IT)

 ロンドン通の旅行者、あるいはロンドン在住の人でもサラリーマン以外は乗ったことがないであろう地下鉄がある。その名をウォータールー・アンド・シティー・ラインといい、テームズ川南岸のウォータールー駅とシティ(駅名はバンク)をつないでいる。ロンドン最短、おそらく世界の大都市でも最短の地下鉄で全長2.4キロしかない、1898年開業のミニ地下鉄である。車輌もたった四輛しかない。駅も両端のウォータールーとバンクだけで、列車はテムズ川の底をくぐり、この二駅間を振り子のように往復する。日曜と祝日は運休というのも旅行者になじみのない理由かもしれない。
 
 そんな遊園地の電車みたいなものがなんのために走っているのかというと、ロンドン南西のサリー州に住むシティ勤務者の送り迎えのためだ。サリー州というのは緑豊かな郊外で(ビートルズのメンバー、ジョンやジョージも住んでいた)、ストック・ブローカーズ・ベルトと言われる。ストック・ブローカー(証券取引業者)や銀行員が住む地域とされ、彼らは毎朝鉄道でウォータールー駅に着く。そこからシティまで歩くのは遠い、バスや地下鉄を乗り継ぐのもめんどうくさい。そこでこのシャトルです、三分ちょっとでお勤め先まで!

 と、利便性にはすぐれているけれど、僕が通勤していたころはロンドンで最も古めかしい地下鉄だった。なにせ車輌は第二次大戦中のデザインで、良くいえばアールデコ・スタイルのサロン風で木材とリノリウム、木綿と模造皮革などを多用していた。それほど古いからガタピシして騒々しい。この線の愛称は「ザ・ドレイン(the drain)」、排水溝である。下水のようにやかましいのと、川の下を走っていることからつけられた。バンクの駅からプラットホームへ向かうには、傾斜がきつく異様に長い歩道(現在は動く歩道)を文字通り川底めがけて降りていかねばならず、若干不気味な感じがする。1967年にNHKが「タイム・トンネル」というタイムトラベルを材料にしたSFのシリーズ物を放映していたが、あのトンネルに似ているので、残業でフラフラしながら降りてゆくときなど、黄泉の国へ降下してゆくような気分がしたものである。

 もう一つの特徴は、地下鉄のシステム全体が密閉されている点。その昔、「地下鉄の列車はどこから入れたのか?」という地下鉄漫才があった。密閉型の本線にもふさわしい疑問だが、回答が簡単すぎてあの漫才は成り立たない。1993年の改修時、地面に穴を開けて車輌をクレーンでおろしたのだ。54年間陽の目を見なかった旧車輌は、その時地上に引き出されてすぐスクラップになった。まるで蝉の人生である。 

 あのやかましい車輌が懐かしいのは、閉塞感いっぱいの地下鉄でシティの朝へ浮上し、十数時間後、埃っぽい空気のよどむ地下鉄駅から深夜のシティをあとにする、朝の轟音と夜の轟音が、一日を開けるカギ括弧と一日を閉じるカギ括弧のような、シンボリックな轟音だったからだ。 

 二度目の転勤と合計すると、シティ勤務は通算13年となり、どの場所よりも長くなってしまった。そんなわけで、骨董車両での通勤の日々から、ニョキニョキ建ち始めたガラスと鉄鋼の高層建築を見あげて歩いた日々まで、あの「スクェア・マイル」(シティの面積がほぼ一平方マイルであることから来た愛称)がサラリーマン人生の大半を占めることになった。 

 僕がシティで働き始めたのはバブル経済真っ盛りの1988年からで、東京では見たことのない日本の地方銀行や相互銀行が続々進出してきていた。30近くの日本の銀行がシティにひしめいていた(今ではほんの数行しか残っていない)。ひしめいていた、というのがおおげさなのは認める。しかし、印象としてはそういう言葉を使いたくなる。金融関係以外にも日系企業がどんどん進出していた。ダブル・ブレステッドのジャケットにタック入りのパンツ、人によってはサスペンダーという日本人サラリーマンが跋扈し(これも誇張)、昼飯時には「英国閣」を初めとする日本料理屋が日本株式会社社員食堂みたいになっていた。残業時間に入ると、そうした料理屋が残業弁当を売りはじめる。 

 2016年の英国のEU離脱決定にポカンとしたというか裏切られた感じを抱いたのは、1990年前後にロンドンにいた我々の仕事の相当部分が、日本企業を英国に呼びこむことだったからだ。当時は統一通貨をふくめたEU域内経済統合を目指し、市場統合が進められていた。ヒト、モノ、カネ、サービスの域内の移動を自由にしようという趣旨だ。このようにEUが大きなブロックとして固まってしまうと、外部者の市場侵入は難しくなる。だからさっさと外部者(アウトサイダー)から内部者(インサイダー)になってしまおう。その場合、ドイツやフランスは言葉が難しいから、英語の通じる英国に基地を設けるのが一番便利だ。英国政府もこの点を売りこんで熱烈に手招きをしていた。英国へ進出すればEUのインサイダーになれる、という簡単で魅力的なアプローチだった。 

 当時の商社の投資というのは単なる株式投資ではなく、現地に製造会社なり事業会社を建てて人を雇い、販売ネットワークまで構築する物と人を動かす力仕事だった。配当狙いの投資というよりは、そうした会社を作って物流(物の流れ=原材料の売りと製品の買い)に介入することを主目的としたのである。ゲームに例えるならばシムシティであってモノポリーではない。早くEUの中にいらっしゃい、中でも英国はいいよと音頭取りをした。 

 その英国がEUから出てゆくという。まあ身勝手な話だ。人をたぶらかしておいて。しかしこの身勝手さというか融通無碍な面が英国の強さであったりもする。EU離脱自体は、高すぎるプライドと勘違いによる拙策だったとは思うけれど。 

 仕事のひとつにシティの保険業者との交渉があった。保険といっても火災、生命、自動車事故などとは関係のない、非常危険をカバーするものだ。非常危険というのは、具体的にいうと取引先国の政治的理由によって契約履行がなされず損害をこうむるリスクのことでカントリー・リスクといわれるもの。わかりやすい例をあげると、発展途上国に旅客機をリースしたけれど、政変が起きてリース料を払ってこないようなケース。あるいは、ある国で鉱山開発を始めたが、同国政府がその事業を没収するようなケース。平たくいえば、国レベルでの泥棒とかやらずぶったくりに備える保険である。もちろん日本政府の貿易保険でカバーできる部分もあるけれど、国が取ってくれるのは比較的「きれいな」リスクであって、得体の知れないリスクを帯びている地域のリスクは取ってくれない。商社というのはそういう得体の知れない場所へ向かいがちなので、そのリスクの一部をロンドンの保険市場でヘッジする。 

 そもそも保険業というのは、エドワード・ロイズ氏が1688年に開店したコーヒーハウスに集まった船主や貿易商人たちの中から、貿易船が沈没した場合のリスクを引き受けて引き受け料をもらう人々が現われたのが始まりで、それ以来シティは保険業の一大メッカとなり、その中心にはいつもロイズ保険があった。そういう名前の保険会社があるのではなく、さまざまな保険業者が「ロイズという場所」に集まって保険引き受けをしていると考えるのが正しい。 

 歴史の教科書に出てくる東インド会社があった跡地にロイズ・ビルディングという超近代的なビルが立っている。高さでこそ最近のビルに負けたとはいえ、そのデザインと存在感はシティの中でも群を抜く。まだヴィクトリア朝の建物が残る古いシティの真っ只中にあって、そこだけが未来都市のようなたたずまいだった。 

 当時の僕は、全世界のリスク処理のデパートとでもいうべきロイズ・ビルの周囲を、ある日はアフリカの、ある日は中近東のリスク・ファイルを抱えてうろうろしていた。パブやレストランで保険ブローカーに会って取引全容を説明し、これがいかに魅力的なリスクか説得し交渉するのであった。金額が大きくなるとロイズ・ビルの中にデスクを構えるシンジケート(保険引き受け者のまとめ役)に直接会うこともある。 

 一番親しかったブローカーは江戸時代からある老舗で、タイタニック号の保険をまとめた会社だ。担当のジョンは同い年だったが、もみあげの濃い男で十歳くらいは年上に見えた。アフリカ案件をもっていくと「スリー・ゼッド(3Z)はもうやめていただきたい」と白目をギョロリとむいて睨む。三つのZとは、ジンバブエ、ザンビア、ザイール(現在のコンゴ共和国)という国名の頭文字のことで、この三国は当時リスク三兄弟として敬遠されていた。彼と薄暗いパブで交渉をしていると、それこそディケンズの小説の登場人物と話しこんでいるような気分になった。

 チープサイドからはずれた小路に入りこんだり、セント・ポールの北側の精肉市場のぐるりを回ったり、点在する小さな墓場の傾いた墓石を凝視していると、あの時代からまだそう遠くには来ていないという気がしたものだ。90年代にはまだ、床におがくずを撒いたパブも珍しくなかった。一日の終わりにおがくずを掃けば、こぼれたビールやら煙草の吸い殻、得体の知れぬ液体、粘液、あくたもくたもあら不思議、全部からめて一掃できるというわけだ。床にペッペと唾を吐いてもいいらしい。Spit and sawdust(唾とおがくず)という表現は大衆向きパブの愛称であり、今では開き直ってそれを店名にしてしまったパブもある。 

 2000年以降、シティの風景はどんどん変わってパブの数も減り、ディケンズ的な小路や暗がりも不動産投資の対象となって、平方フィート当たり幾らと勘定すべき区画となり、詩文は散文になった。かつての仕事仲間ジョンはスクウェア・マイルを去ることなく、あの枠内でピンボールのように上下左右に動き回っているうちに雪だるま式に体重と威厳を増し、今では保険業界の重鎮になってしまった。ときどきウェブサイトでお姿を拝見しているが、ディケンズの『ピクウィック・クラブ』の主人公、サミュエル・ピクウィック氏そっくりになってきた。

 最初の転勤時、リッチモンド・ヒルの近くに住んでいたとき、同じ会社の友人がたまたま近くに引っ越してきた。彼は学生時代にシェークスピアの芝居をやっていたくらいの英国通で、英語はうまいしロンドンの情報にもくわしい。まだ30を出たばかりで独身だった二人は、ときには日本人CAたちをまじえてあちこち出歩いていた。

 リッチモンドで一番有名な場所といえばリッチモンド・パークである。17世紀にチャールズ一世が鹿狩り場と定めてから、そのままになっている自然公園だ。およそ600匹の鹿が放し飼いになっている。ある日彼が、リッチモンド・パークからシティが見える場所があるから行ってみようという。 

 公園の北西の端に小高い丘があって、ヘンリー王の丘という名前がついている。ヘンリー王というのはヘンリー8世のことだ。6人の妻を娶り、その内二人を処刑しているが、二番目の妻で最初に処刑されたのがアン・ブリン。彼女は1536年5月19日にロンドン塔で斬首された。言い伝えによれば、その日その時ヘンリー8世はこの丘に昇って東方16キロ先のシティに目を凝らしていた。処刑終了の印として、ロンドン塔からのろしがあがることになっていた。はたしてアンの首は落ちのろしが上がった。 

 歴史的事実ではないらしいが、良くできたストーリーだ。あの丘へ昇って望遠鏡を覗く人はそんな伝説は気にせず、ロンドンの東の端にあるシティが意外にもはっきりと見えることに驚く。公園の管理者は過去四世紀にわたって、シティまでの遠望をさまたげる繁みや木の枝を伐採してきた。その丘から見えるシティ(もっぱらセント・ポール大聖堂のドーム)は、広重の富士三十六景のひとつ、木の割れ目から望む富士山のように木々の小窓に縁取られたカメオのようなシティである。

 僕たちはそこに設置された望遠鏡に目を当て、手に取るように見えるとはこのことだ、とか、ヘリがあれば通勤もひとっ飛びなのに、などと自分たちの勤務地を覗いて喜んでいた。もう30年以上も前のことだ。

 数日前、その丘へ行ってみた。珍しく快晴の日だった。望遠鏡の前には小学生の長い行列ができていた。順番に覗いてははしゃいでいる。ひょっとするとあの子たちのほとんどは、シティに行ったことなどないだろうし今後一生行く必要はないかもしれない、と妙なことを考えた。彼らは単に10マイル先に見える白い建物に、見えた見えたと興奮しているだけなのだ。

 そんなことを考えていつ果てるとも知れぬ長い列を眺めていた僕に気づいた少年が、お先にどうぞと順番をゆずってくれた。自分の父親よりはるかに高齢の大人が望遠鏡を覗きたがってジリジリしているのを不思議に感じたのだろう。

園部 哲(そのべ・さとし)
翻訳家。1956年、福島県生まれ。79年、一橋大学法学部卒業、三井物産入社。2005年同社退職、翻訳者に。訳書に『北極大異変』(集英社インターナショナル)、『北朝鮮 14号管理所からの脱出』『アジア再興』『アメリカの汚名』『ニュルンベルク合流』『エリ・ヴィーゼルの教室から』『第三帝国を旅した人々』『上海フリータクシー』(以上、白水社)、『密閉国家に生きる』『人生に聴診器をあてる』(共に中央公論新社)。朝日新聞GLOBE連載「世界の書店から」英国担当。ロンドン郊外在住。
Instagram(@satoshi_sonobe)

★好評発売中★
『異邦人のロンドン』園部哲・著

2023年9月26日(火)発売
定価:1,980円(税込)
発行:集英社インターナショナル(発売:集英社)
体裁:四六判ハードカバー/224ページ


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