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テムズ川の泥をあさる──『異邦人のロンドン』番外編①

 朝日新聞GLOBE【世界の書店から ロンドン編】で15年にわたり執筆を続ける園部哲(そのべ・さとし)さんが、自身初の著書となる『異邦人のロンドン』を9月26日(火)出版します。

 最初はビジネスマンとして、今は翻訳者として30年以上滞在しているロンドンの街を、「移民」の視点から描くこの本には、王室報道ではお目にかかることのできない、コスモポリタン都市の素顔があります。
 本書の発売を記念して、単行本『異邦人のロンドン』には収まりきらなかった、とっておきのエピソードをご紹介します。

 あなたの知らないロンドンの姿が、きっとここにあります。
(編集担当IT)

 日本の川を見慣れた目でテムズ川を見ると、どっちへ流れているんだかわからないほどその流れは遅く、流れというよりは、たゆたいという表現が似合う気がする。プール・オブ・ロンドン(The Pool of London)というのはテムズ川のロンドン・ブリッジ近辺から下流を指す何百年も前からの表現だから、やっぱり昔からここは水溜まりみたいに見られていたのだろう。

 五月雨を集めて早し最上川、のような勢いがないのは、テムズの水源が山ではなくあまり海抜のないところでじくじくとしみだす湧水の集合体だからだ。そして河床の高低差の少ないテムズ川には、海からの水が容易に入りこむので、潮の満ち引きにものすごく影響される。そういった敏感な川のことを感潮河川というらしい。そうでない川は非感潮河川といって、なんだか感受性の足りない川のような響きだけれども、海の潮汐などには影響されずにガンガン真水を海に注ぎ込むたくましい川なのである。つまりは最上川のような急流である。

 こうして満潮時のテムズ川は、盛りこぼし寸前の酒のようにヒタヒタになる。逆に干潮時には、川底が左右からどんどん干上がって流れの幅が細くなり、向こう岸まで歩いて渡れそうな気がしてくる。紅海を渡るモーセになったような気分である。そんなとき、水が引いた泥底に集まってくる人々がいる。どちらかというと、ブラックフライアーズ橋あたりからシティへ向かう東側に多い。みんなしっかりした靴をはき、目を皿のようにして(たぶん)川底を見つめて歩いている。中には金属探知機らしきもので探っている人もいる。初めてそうした人々を見たころは、金目のものを拾おうとしている強欲な連中だろう、と決めつけていた。こんな臭い泥にまみれて。

©A. Wilson

 あるとき、アメリカ人アリソンの家に行くと食堂のテーブルにあやしげな破片が並んでいた。だいたい黒から灰褐色、あるいは茶褐色の陶片である。
「マッドラーク(mudlark)です」と例のクールな表情で言う。辞書を引くとマッドラークとは「干潮時に川の泥をあさる浮浪児」という意味だった。すごい言葉もあるものだが、いつのまにか、アリソンは干潮時にそういうことをするマッドラークになっていた。つまりは僕が勝手に強欲者と決めつけていた連中の一味になっていたのである。

 無知は偏見を呼ぶ。その無知をアリソンはおだやかに訂正してくれた。現代のロンドンでマッドラークとは、干潮時に川底を露呈したテムズ川でローマ時代以降の陶片、コイン、装飾品などを見つけようとする考古学的活動なのだった。そして彼女が食卓に広げていた破片は、彼女の戦利品であった。仲間内で破片の由来を検討したり、手にあまればインターネットのあちこちに生息している専門家の鑑定を仰ぐ。単なる破片でなく、ある程度の形を保ったものとしては、壺の取っ手のようなもの、陶製パイプのようなものがある。

「それはローマ時代のだと思う。そっちのは十六世紀のボタン」と言うアリソンの説明を聞きながら、ざらざらだったり、意外と滑らかな考古学的発見物を手に取ってみる。ロンドン二千年のなまの歴史が鼻の先にあった。泥の匂いはしない。

©A. Wilson

 コロナ禍で飛行機が飛ばなくなって空が静かになったのと同じように、川も静まりかえった。河川運送は止まり通勤用や観光用のボートも動かない。マッドラークの天国になったのである。と同時に、広大な河床でのアクティビティはコロナ禍では最も安全な暇つぶしの一つとなった。ロンドンの歴史を自らの手で探るという知的興奮もついてくる。もともとマッドラークは許可制で、三年間有効ライセンスを一万五千円くらいで買わなければいけない。酔狂といえば酔狂な趣味だから会員数もそれほどではなかったが、こうしたコロナ要因があって申請数が急増。当局はライセンスの発行を止めている。「その前にライセンスを取っておいてよかったわ」といつものように万全の構え、アリソンは次の干潮を待つ。

園部 哲(そのべ・さとし)
翻訳家。1956年、福島県生まれ。79年、一橋大学法学部卒業、三井物産入社。2005年同社退職、翻訳者に。訳書に『北極大異変』(集英社インターナショナル)、『北朝鮮 14号管理所からの脱出』『アジア再興』『アメリカの汚名』『ニュルンベルク合流』『エリ・ヴィーゼルの教室から』『第三帝国を旅した人々』『上海フリータクシー』(以上、白水社)、『密閉国家に生きる』『人生に聴診器をあてる』(共に中央公論新社)。朝日新聞GLOBE連載「世界の書店から」英国担当。ロンドン郊外在住。
Instagram(@satoshi_sonobe)

★絶賛予約受付中★
『異邦人のロンドン』園部哲・著

2023年9月26日(火)発売
定価:1,980円(税込)
発行:集英社インターナショナル(発売:集英社)
体裁:四六判ハードカバー/224ページ


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