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第1回【鹿島アントラーズ新監督】コソボから来たセルビア人 、ランコ・ポポヴィッチ

J1リーグ16試合を終え、現在2位につけている鹿島アントラーズ(2024年5月28日)。好調の鹿島アントラーズを指揮するのが、コソボ出身のセルビア人、ランコ・ポポヴィッチだ。
2024年シーズンからチームの監督に就任したポポビッチの出身地コソボとは、どのような国なのか。ポポヴィッチの半生とともに、コソボという国家の歴史に迫る。
※本記事は、ノンフィクション作家の木村元彦氏の著書『コソボ 苦闘する親米国家』(集英社インターナショナル)を一部抜粋したものです。

●コソボ出身のセルビア人サッカー指導者がJリーグに


 ランコ・ポポヴィッチの存在を初めて知ったのは、2006年の年末に祖母井うばがい秀隆(元ジェフ千葉GM)から、話を聞いたのがきっかけだった。祖母井は、知る人ぞ知るオシムを日本に招聘した人物で、大阪体育大で指導をしていた頃から、堪能なドイツ語を駆使して東欧のサッカー人脈を構築していた。ゆえに、情報の精度は極めて高い。日本代表監督に就任して5カ月のオシムを交え、浦安の中華料理屋「泰興」で行った忘年会の席上で、その祖母井がビールを飲みながら唐突に言った。「そう言えば、サンフレッチェ広島のコーチのポポヴィッチさんはコソボの生まれやそうですよ」「えっ! 名前からしてセルビア人ですよね?」「そうですね。シュトゥルム・グラーツで監督をしていた頃のオシムさんの教え子ですけど、かなりしんどい苦労されたというのをうかがっています」


©KASHIMA ANTLERS


 コソボ出身のセルビア人サッカー指導者がついにJリーグに来たのかと、サンドウィッチマンのコント並みに興奮した記憶がある。Jリーグにはストイコヴィッチやビニッチ(ともに名古屋グランパス)をはじめ多くのセルビア人プレーヤーがやって来たが、彼ら本国のセルビア同胞とは大きく背景が異なる。少し説明を施そう。


 1999年のNATO軍によるユーゴ空爆以後、コソボにおける民族間(セルビア人とアルバニア人)のパワーバランスは反転した。

 米国の主張によってセルビア治安部隊が撤退すると、今度は元々マイノリティであるセルビア人が、彼の地で「民族浄化」の標的になっていった。公正な統治と治安維持を目的とした国際機関であるUNMIK(国連コソボ暫定統治機構)やKFOR(NATO主体のコソボ治安維持部隊)の監視下にあるにもかかわらず、そのほとんどがアルバニア系武装組織による拉致や殺害の恐怖に晒されて居住地を追われているのが現実であった。空爆前、州都プリシュティナに約20万人もいたセルビア人は、難民としての流出を余儀なくされ、05年に居留をUNMIKにカウントされたのはたったの38人であった。追われたのはほとんどが先住していた民間人である。

 そして私が調べた限り、3000人以上の拉致被害者が出ていた。ショッキングなことに、新コソボ政府の中核にいるKLA(コソボ解放軍)の一派によって拉致されたセルビア人の多くは、アルバニア本国で内臓を抜かれて殺され、臓器移植のビジネスの犠牲者になっていたことが、判明していく。コソボで暮らすセルビア人たちからすれば、行政の長が、そのことを謝罪も検証もせずにまだ権力の座にいることになる。新コソボ政府タチ首相は、もともとKLAの幹部であった。

 コソボには非暴力での独立を主張し、民心も得て初代大統領とされていた「コソボのガンジー」ことイブラヒム・ルゴバという人物がいた。ところが米国は、コソボを統治するにあたって、そのルゴバを登用せず、山村ゲリラであったこのKLAと組んだのである。

 

●フェイクニュースによる集団暴力行為


 私は98年に幾度かKLAが支配するマレーシャボの山岳基地に入って司令官を取材したが、その軍事行動の最終目的は、至ってシンプルで乱暴なものであった。何度も聞いたのは、「武力によるアルバニア人によるアルバニア人のためのコソボ独立」。アルバニア本国の他に、もうひとつセルビア内に純然たるアルバニア民族主義国家を作ろうというものである。ルゴバが、少なからず文民統制と他民族との共生を謳っていたのとは対照的であった。このことはコソボのマイノリティからすれば脅威である。NATO空爆後に新生コソボのトップに立った者が、ミロシェビッチ大統領によって奪われたアルバニア人の権利を取り戻した上で、民族融和を図るといった穏健派であれば、共に国作りにも参加できようが、その地位に就いたのは、融和よりも分断と排斥を唱えた武装組織のリーダーなのである。かつて警官をテロ行為で殺害し、資金調達のために覚せい剤やコカインを密売していたKLAの元司令官が大国アメリカのお墨付きを受けて首相になった。はなから公正な法治統治を期待はできない。そうした懸念が現実となる象徴的な事件が、04年3月に起こった。

 コソボ内におけるセルビア人集落やセルビア正教教会がアルバニア人暴徒によって焼き討ちになった、いわゆる「3月暴動」である。発端は「コソボ南部のチャバル村のアルバニア人の少年がセルビア人に犬をけしかけられてイバル川で溺れ死んだ」、という噂が乱れ飛んだことであった。ところが、これがデマであった。私はこの亡くなった少年ゾン・デリーム(当時13歳)の父親に直接会い、事故現場の川にも向かった。水深は30㎝、流れも穏やかで到底溺れるような環境にはなく、地元警察もUNMIKも犬をけしかけられての溺死という事実認定はしていなかった。父もまた「罪を犯していないセルビア人はコソボに戻ってくれば良いし、その扉はいつも開けておくべきだ」と語っていた。しかし、一度流れたフェイクニュースは瞬く間に広がり、扇動されたアルバニア人群衆によってコソボ全土でセルビア人やロマに対する集団暴力行為が起きた。警察もKFORも鎮圧には至らず、セルビア人居住地域や12世紀から残る歴史的なセルビア正教の宗教施設が、暴徒によって破壊された。UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)によれば、民家930棟が燃やされ、約4500人が避難民になっている。平和とは、対峙するマジョリティの民族に対してのみ適用される概念なのだろうか。

 当時の彼らコソボのセルビア人は、拉致に怯えながらも、飛び地のようなエンクレイブ(民族集住地域)に暮らすか、あるいは自発的に逃げ出して難民となるしかなかった。私は、エンクレイブであるチャグラビッツァに逃れて来た人々から「あの3月暴動で警察があてにならないことが分かった。もうこの土地には共存できる場所がない」としばしば絶望的な表情で訴えられた。

「コソボ出身のセルビア人」。それは国際社会に翻弄され、セルビア本国からも見捨てられ、現在、先祖代々生まれ育った地には戻れぬ宿命を押し付けられたディアスポラとも言えようか。

 しかも調べてみたら、ポポヴィッチは古都ペーチ(アルバニア名ペーヤ)の出身であった。この都市は13世紀に作られたセルビア総主教修道院のあるいわばセルビアの聖地である。かつてボルドーでプレーしていたモンテネグロ人のニーシャ・サベリッチは、「パリのノートルダム寺院はカソリック教徒の文化の中心地だろう。同じようにペーチの修道院はセルビア人の魂の故郷だ」と熱く語っていた。裏を返せば、すなわちそこは、KLAにとって最も憎悪の的となる地域だった。事実、この世界遺産(2006年6月登録)の周辺はKFORの警備をあざ笑うかのように、迫撃砲や手榴弾が頻繁に撃ち込まれるという事態が勃発していた。先述した3月暴動では大きな被害を出し、聖イオアン堂と聖ニコライ堂が破壊されている。セルビア総主教修道院はKFOR所属のイタリア軍が守っていたので無事であったが、標的にされる可能性は高く、現在はユネスコの世界危機遺産リストに指定されている。
「あのペーチから来た男……」

 泰興名物の紫蘇しそ入り餃子を紹興酒で流し込みながら、ランコ・ポポヴィッチの名前を心に留めた。


●ミックスゾーンで交わした会話

 07年のJリーグが開幕した後、6月にコソボ取材を敢行することにした私は、ひとつのアイデアを思いついて、セルビア大使館にコンタクトを取った。現場に赴くにあたり、ポポヴィッチの生家に行ってみようと考えたので、彼に会えないかと問い合わせたのである。コソボにおいて憎悪の対象とされたセルビア人は、今は彼の地を自由に往来することすらできない。私は北品川の大使館で旧知のスネジャナ・ヤンコヴィッチ領事に会った。スネジャナは外務省が主催した各国大使館の日本語スピーチコンテストで優勝した才媛で、夏目漱石を世界で初めてセルビア語に翻訳した人物だ。

「自分は日本人なので、セルビア人と違って何の危険もなくペーチにも行くことができる。だから、故郷に帰ることのできない彼の生まれ育った家が現在、どうなっているのか、見てくることも撮影してくることもできる。そんなことでルーツを追われた人物の心のサポートができればと思うのだが、どうだろうか?」

 ここまで言って大使館員と語る上では、距離もおかねばと思った。
「ただスネジャナも知っているように、自分は日本人の記者として『コソボがセルビアのもの』とは言うつもりはない。セルビア政府の主張がそうであっても、自分の立場は『コソボはコソボに暮らすすべての民族のもの』だ」。私はNATOが空爆する前に行われたミロシェヴィッチ政権によるアルバニア人への人権侵害についてもレポートを出してきたし、ラチャク村の民間人に対する虐殺事件も現場を見て一報を出した。「その虐殺写真を、この大使館でセルビア大使に見せて伝えたのは覚えているね?」。大使館を通しての取材であってもそれで忖度はしない。思えば日本のホロコースト否定論者(=歴史修正主義者)は大使にゴマをすり、反米の視点からミロシェヴィッチによる弾圧さえ否定していた。これこそセルビアに対する敬意を欠いた行為だった。

 聡明なスネジャナはすぐに理解した。
「もちろん。私だって、セルビアの治安部隊がかつてコソボでアルバニア人を殺害していたという事実があるのなら、それを知らなければいけないと思うし、セルビア市民に知らせないといけないと思っています」
 彼女は外交官ではあるが、盲目的なセルビア民族主義者ではない。漱石や安部公房、吉本ばななに惹かれるというこの文学者は、何が自民族にとって重要かを知っている。「木村さんがペーチでポポヴィッチさんの家に行って彼に現状を知らせるというのは、別にセルビア政府のプロパガンダにはなりませんよ(笑)。それは良いアイデアですけれどね。でも気をつけて行って下さい」

 文化担当官でもあるスネジャナが早速、連絡を取ってくれたところ、ポポヴィッチはこの申し出をとても喜んでいるという。日程を確認すると、サンフレッチェ広島は5月19日にジェフ千葉との対戦予定があった。まずは5月19日のフクアリスタジアム(フクダ電子アリーナ)での試合後にミックスゾーンで会おうとなった。

 この試合はボスニア人監督(=千葉 アマル・オシム)とセルビア人監督(=広島 ミシャ・ペトロヴィッチ)による対戦でもあった。結果はウェズレイのハットトリックで、3対1でサンフレッチェ広島が勝った。
 ペトロヴィッチの監督会見を終えて、ミックスゾーンで待っていると、ポポが姿を見せた。視線が合った。名乗る間もなく、握手の右手が差し出されてきた。

 初対面での印象は、何とポジティブな人物かというものだった。少なくとも私が過去取材したコソボを追われたセルビア人には、どこか影を持った目とシニカルな口調が付いて回っていた。サッカー選手で言えば、州都プリシュティナ出身でユーロ2000をユーゴスラビア代表として戦ったゴラン・ジョロヴィッチ(当時セルタ・デ・ヴィーゴ)がそうだった。ジョロヴィッチの両親もまた、99年にトランク一つでベオグラードに難民として逃れて来た過去を持つ。多分に思慮深い性格もあるのだろうが、「忌まわしい思い出」としか言わず、多くを語らなかった。


©KASHIMA ANTLERS


 ところが、ペーチからやって来た男は、我が身に降りかかったそんな運命さえも呪わず、高いテンションでブラボー! と叫んだ。
「そうかい、故郷に行ってくれるのかい? こんな嬉しいことはないよ。自分のことを覚えている人がいたら、ぜひよろしく伝えてくれ」

 生まれ育った家の住所をさらさらとマッチデープログラムに書くと私に手渡してきた。そこには「Djurdjine Jovicevic 53A Pec」と記されてあった。「かたときも忘れたことがない。今でも思い出す」
と言って小さく首を振った。(第2回に続く

木村元彦(きむらゆきひこ) 
ノンフィクション作家、ジャーナリスト。1962年、愛知県生まれ。中央大学文学部卒業。アジア・東欧などの民族問題を中心に取材・執筆。『悪者見参』『オシムの言葉』(共に集英社文庫)、『コソボ 苦闘する親米国家』(集英社インターナショナル)など著書多数。


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