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第2回【鹿島アントラーズ新監督】コソボから来たセルビア人 、ランコ・ポポヴィッチ 

J1リーグ17節を終え、首位町田ゼルビアと勝ち点が並んだ鹿島アントラーズ(2024年6月2日)。好調の鹿島アントラーズを指揮するのが、コソボ出身のセルビア人、ランコ・ポポヴィッチだ。
2024年シーズンからチームの監督に就任したポポヴィッチの出身地コソボとは、どのような国なのか。ポポヴィッチの半生とともに、コソボという国家の歴史に迫る。
※本記事は、ノンフィクション作家の木村元彦氏の著書『コソボ 苦闘する親米国家』(集英社インターナショナル)を一部抜粋したものです。

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●2007年6月15日ベオグラード

 フクダ電子アリーナでのポポヴィッチとの出会いからほぼ1カ月後、セルビアの首都ベオグラードに飛んだ。

 私はコソボから来たこのセルビア人との約束を果たさなくてはならない。この日、6月15日12時からアメリカ大使館前でコソボの拉致被害者家族による抗議集会が行われるということを聞きつけ、私は星条旗の翻る公邸前に、午前中からスタンバイしていた。

 なぜ、コソボで拉致された被害者の抗議行動を米国大使館前で行うのか?

 5日前の6月11日、ジョージ・ブッシュ米国大統領がアメリカの指導者として初めてアルバニア本国への訪問を果たしていた。そこでブッシュは「アメリカはコソボの独立を支援する。近い将来、独立は実現する」と公式に発言し、大歓迎を受けていたのである。8年前の1999年に空爆を指揮したのが、民主党のビル・クリントン大統領であるから、これはもう共和党も民主党も関係なく、米国の一貫した外交姿勢と言えた。ここまで米国がコソボに固執するのは、州都プリシュティナの南に位置するボンドスティールの地に、米軍基地を建設するのが目的だったからとも言われている。

 中東と欧州の狭間にあるこの地域は軍事拠点としても重要であり、米国はKLA出身者をトップに据えたコソボ政府との蜜月関係を築くことで、コソボ国内での自由な軍事行動を空爆後の99年6月から手に入れている。考えてみれば矛盾がある。コソボのアルバニア人たちは、民族自決を叫んでセルビアからの独立を熱望したのだが、外国(=米国)の軍隊を駐留させていることには、いささかの違和感も呈さずにこれを歓迎し続けている。アルバニア人の信奉する宗教はイスラム教であるが、2001年に9・11のニューヨークで同時多発テロが起こり、米国がイラクやアフガニスタンに戦争を仕掛け、イスラム社会との関係が険悪になっても、コソボは世界で一番の親米国である。それもまた、この「世界の警察」を自認する大国が基地と引き換えに独立の後ろ盾になってくれることが大きな理由だ。

●拉致問題を放棄したセルビア政府

 良く晴れた初夏のこの日、米国大使館前は、正午が近づくと騒然たる雰囲気に包まれていった。参加した拉致被害者家族たちはその数、約50人。ほとんどが、コソボから逃れて来たセルビア人避難民である。手に手に英語で書かれたプラカードを持つ。「父を、母を返して欲しい」「死ぬまであなたを探し続ける」「忘れない、忘れさせない」。スローガンの横には行方不明となった肉親の写真が貼りつけられている。家族写真からの抜き出しであろう、笑顔のものが多い。フィルムの撮影であり、すでに何度も焼き増しをしたためか、劣化も激しいものであったが、その落差が悲劇性をさらに際立たせている。

 つるつるに剃り上げたスキンヘッドに黒いTシャツを着た見覚えのあるリーダーがシュプレヒコールを上げる。「コソボ・ネダモ!」「コソボ・ネダモ!」コソボは渡さない。彼の名前はシーモ・スパシッチという。実兄をプリシュティナで拉致されている。拉致被害者の家族がその真相究明を求めて作った団体「コソボ行方不明者家族会議」、通称「1300人協会」の会長である。なぜ1300人なのか? 2001年に結成された段階での行方不明者の数からとったものである。しかし、結成後も拉致被害者の数は増え続け、2007年のこの時点ではすでに3000人を超えていた。

ベオグラードの米国大使館前でデモを行うコソボのセルビア人拉致被害者の家族たち。
最後列の高い位置に立つのがリーダーのシーモ・スパシッチ。    写真=木村元彦

 こちらの姿を認めた旧知のスパシッチは、駆け寄ってくると、拉致被害に対して消極的なセルビア政府への不満を爆発させた。「お前も知っているだろ? 政府は、うちの組織の名前も替えさせたのだ」。それは重要な変更だった。「行方不明者家族会議」から「コソボ誘拐および殺害セルビア人遺族会議」に看板を変えられたのだ。スパシッチたちが頼ってきたお上は、実質的に拉致問題を放棄したとも言える。「行方不明の家族を捜索してくれと言い続けている俺たちは遺族だとよ! 兄貴が消息を閉ざしてから、9年経つが、もう殺されているからあきらめろ、という政府からの宣告だ。俺たちコソボのセルビア難民は、国から棄てられたんだ」

 セルビア政府はコソボからの難民に関して、極めて冷淡である。文化的、宗教的なバックボーンから聖地であるコソボの領土は絶対に渡したくはないが、大量の難民を受け入れる余裕は本国にもない。ボリス・タディッチ大統領の民主党政権は国際協調を念頭におくためにUNMIKに拉致問題を強硬に主張することはしないのだ。スパシッチが作ったTシャツにはこう書かれている。「ZASTO CUTIS SRBIO」(セルビアよ、なぜ黙っている)

 この沈黙の理由についてスキンヘッドのリーダーはこう断じる。「たかが、EU加盟のためにコソボのセルビア人を棄てようとしているのが、タディッチの本音だ。そんなことは許してたまるものか」。怒鳴り上げると、星条旗の下でせわしなく挑発的なポーズを繰り返す。

●デモの参加者の声

 取材をし続けてきて明らかになったが、「コソボ誘拐および殺害セルビア人遺族会議」には運動方針を巡って強硬と穏健、2つの派が存在した。外国人メディアに対して米国とKLA出身者が支配するコソボの不公正統治の非道を訴え、自身のアピールを繰り返すエキセントリックなスパシッチは、民族色の強い強硬派である。彼はさかんに私に向かって、「俺を広島、長崎に連れて行ってスピーチをさせろ」と売り込んできた。日本で反米の同志を募りたいというのだ。「なぜ日本人は原爆を落とされ、米軍基地まで作られて黙っている。故郷を植民地にされてたまるか。俺に連帯の意志を伝えさせてくれ」

 対して、「セルビア兵に殺されたアルバニア人の遺族とも痛みを分かち合いたい、そのためにも拉致の真実を知らせて欲しい、愛する家族が殺害されているのであれば、どこでどう殺害されたのかを知りたい」と、UNMIKと米軍を敵視せずに、真相究明の申し入れを行っている穏健派の人々がいる。

 大使館の門扉に正対する位置で、両親の写真を捧げ持って立っていた女性、グラディッツァ・オイラニッチはこの穏健派だ。彼女は99年に両親を拉致された。まだ何の消息もない。

米国大使館前で抗議活動を行う、拉致被害者家族のグラディッツァ・オイラニッチ。
写真=木村元彦

「両親は家にいるところを、何の罪もないのに連れ去られました。国連軍(KFOR)が入ってくると聞いて、安全だと思っていたのです。しかし、実態は違っていました。KFORは何もしてくれませんでした。これはまさに『民族浄化』です。両親に関する情報はまだ何ひとつありません。だからこそ、真相を知りたいのです」

「コソボ誘拐および殺害セルビア人遺族会議」のオフィスには、定期的にUNMIKから、行方不明者の消息についてのリストが届けられる。そこには死亡が確認された者の名前がならんでいるが、どこで遺体が発見されたのか、死因は何であるのかの記述がない。行方不明者家族会議時代、同会議の事務局長をしていた女性オリベラ・ブラディミールは、夫の名前がそこにあることを職務上、真っ先に見た。偶然その場にいた私にショックを隠しながら、こう呟いた。

「ある日、突然、あなたの夫は死んでいましたと一方的に告げられて納得ができますか? 遺体と対面すらできない。当協会にとって重要なのは誘拐や拉致の内実を知ることなのですが、ずっと闇の中。そもそも名前まで明確な死亡者の情報を、UNMIKはいったいどこから入手しているのか? 私たちが何度追及しても教えてくれません。真相を知っているはずなのに……」

 私は何人かのデモの参加者にインタビューを求めて、その背景を探った。出身地はそれぞれに異なる。プリシュティナ、プリズレン、そしてポポヴィッチの生まれ育ったペーチの人間がいた。被害者はすべて民間人である。証言を書き留める。

「息子はアルバニア人の友人から良い仕事があるという言葉に誘われて家を出て、そのまま帰って来なかった。あとから分かったのですが、人身売買されていたのです。あんなに仲の良かった息子をどうして売ったのか、今でも分かりません。その子をUNMIK警察に訴えたのですが、証拠がないと、取り合ってくれなかった」「昼間でした。夫は私たち家族の見ている目の前で強引に連れ去られました。目撃者もたくさんいます。でもそれきりです。警察は何もしてくれません」「父の家を訪ねたら、そこを隣に住んでいたアルバニア人の家族に占拠されていました。父はどこへ行ったのか聞いても教えてくれません。彼らとは家族ぐるみのつきあいだったのでショックでした」

●KLAからの容赦ない圧力

 拉致は至るところで起こっていた。威風堂々と翻る星条旗の下で、かつて、「行方不明者家族会議」を取材していた頃の記憶が生々しく蘇ってきた。プリシュティナで熱心に医療行為に従事していた外科医がいた。プリシュティナ大学の医学部学部長で、名前をアンドリヤ・トマノビッチといった。「患者に差別なし」が口癖だった。それは、ミロシェビッチによってアルバニア人の自治権が剥奪され、セルビアとの対立構造が明確になっていた時代だった。コソボでは、二つの民族による行政がバラバラに運営を始めるという分断構造になっていたが、トマノビッチにとっては、セルビアもアルバニアもロマもその属性は意味を持たず、診る基準は重篤か否かだった。99年3月にNATO軍の空爆が始まると、病院に約80日間泊まり込んで、運ばれて来るけが人に不眠不休で治療行為にあたった。同年5月には、KLAの名のある幹部が足を大怪我してやって来た。トマノビッチの属性からすれば、テロリストの親玉であるが、顔色ひとつ変えずに手術を施した。

 空爆が終了すると、投獄されていたアルバニア系政治犯の釈放を求める書類に、セルビア側の要人としてサインをした。すべての民族から慕われたこのトマノビッチが、空爆終結から2週間が経過した6月24日に忽然と姿を消したのである。教職にいた妻のベリツエは「この人を探しています」とセルビア語とアルバニア語で書いたビラを作ってKFORに預けた。周辺で暮らすアルバニア人たちも献身的に捜索に協力してくれ、やがて、一人の目撃者が現れた。消息が途絶えた日、トマノビッチが病院から出て来たところに、二人の男が襲いかかるのを見たという。「彼は足を使って必死に抵抗していたが、やがて強引にルノーの車に押し込まれていきました。私はKLAが怖くて猛スピードで去っていく車を見送るしかできませんでした」

 ルノーという車種まで記憶している。まさに白昼、公衆の前での出来事だった。ベリツエは真実を求めるために行方不明者家族会議の職員になり、こんな言葉を残している。

「夫は自分の人生の36年間を、コソボの医療に捧げてきた人です。兵士でもない64 歳の初老の医師を、いったい誰が何の理由で拉致するのです? 届けられた被害者の状況を集計してみると、さらわれた現場は工場や幹線道路、人目のつきやすいところばかりです。KFORが駐留した理由は、民族に関係なくコソボに残った人間の安全を保障することだったはずです。しかし、悲劇は起こった。私はセルビア軍に追われて離れ離れになっていたアルバニア人の家族の方々が再び一緒になれたと聞くと、素直に良かったと感じます。でも、我々にとっての問題は何ひとつとして解決していない。それでも私は信じています。夫の最後を見届けたことを勇気をもって証言してくれたアルバニア人の方がいた。そんな人がいるから、いつかは真実が明らかになってともに生きていけると信じられるのです」

 自民族に不利な証言をしようとする者には、KLAから容赦ない圧力がかかる。それに屈しなかったアルバニア人に対して、ベリツエは勇気という言葉で讃えた。

●ポポヴィッチが生まれ故郷に帰れない原因

 罪深いのは、無辜(ルビ:むこ)なる市民が犠牲になっているというのに、これを冷静に伝えるメディアがほとんどいないことだ。空爆後、コソボから約20万人のセルビア人が難民となって故郷を捨てることになった。サンフレッチェ広島コーチ(当時)のランコ・ポポヴィッチの家族もそのうちのひとつである。この大量難民の流出の映像を流しながら、「報復を恐れて逃げ出したセルビア人たち」と報道した日本のテレビ局があった。報復? いったい彼らが何をしたというのか。セルビア治安部隊や右翼マフィアのアルカンが率いるセルビア民兵部隊による迫害は確かにあった。しかし、先祖代々続く土地に暮らしていたセルビアの民間人たちは、この地を侵略して植民地にしたわけでもなく、直接的な加害行為に関わったわけでもない。そもそもKLAが空爆前に行った武力で支配地域を広げる行為は、国家内国家を作る重罪であり、米国で言えば、南北戦争で南軍が独立を叫んで駆逐されたことに相当する。また歴史を紐解けば、ミロシェビッチがコソボの自治権を剥奪する直前、89年7月には、この地の少数民族であるセルビア人とモンテネグロ人がアルバニア人からの迫害に対する抗議集会を開いている。自らに求心力を得るために民族主義を利用したミロシェビッチは罪深い。しかしそれ以前はセルビア人が被差別の側に立たされていたこともまた事実である。拉致被害に遭ったほとんどの人々は、この苦難の歴史を生きてきた人たちであり、アルバニア人との融和を望んでいた。少なくとも「報復」をされるようなことは行っていない。そこに分断を持ち込んだのは、ミロシェビッチであり、KLAであり、米軍である。

 目の前のプラカード群を見やりながら、参加者の数を数えた。拉致被害者のデモ集会は、約50人ほど。この日のアクションを取材に来ているメディアも数えるほどであった。コソボの拉致被害者家族に対するセルビア本国の関心は低下している。

 被害者家族たちも、記者たちの質問に熱心に答えてはいるが、明らかに疲れていた。真相究明を求めてもう8年、解決に向けて一向に事を前に進めようとしない政府と国際社会を前に、無力感に打ちひしがれているようにも見えた。米国大使館の門扉は堅く閉ざされたまま、一度も開くことはなかった。ブッシュが言うように、近く米国がコソボの独立を承認してしまえば、そこに暮らすセルビア人たちが、さらなる苦境に陥ることは目に見えている。のみならず、一時避難のつもりで逃れた難民たちのコソボへの帰還もほぼ不可能になるだろう。示威行動の予定の時間が過ぎてデモ参加者の集団は三々五々、解散となった。住まいを追われた彼ら、彼女たちはこれよりレスニックの難民キャンプに戻るのだ。家畜小屋を改造されたそれは、夏ともなれば異臭が漂い、昼間はとても室内にはいられない。

 同じコソボのセルビア人であるランコ・ポポヴィッチには、サッカーという生き残る術があった。プレーをしたシュトゥルム・グラーツの選手時代にオシムの薫陶を受けて成長し、オーストリア国籍を取得し、今も日本のJリーグで指導者の仕事に恵まれている。

©KASHIMA ANTLERS

 しかし、彼もまた生まれ育った故郷に帰ることができないという点においては、ディアスポラであることには変わりなく、「親父の墓に祈りにいくこともできない」と漏らしていたことを思いだす。ポポとの約束を果たすために翌日、ベオグラードからプリシュティナに向かった。(第3回に続く

木村元彦(きむらゆきひこ) 
ノンフィクション作家、ジャーナリスト。1962年、愛知県生まれ。中央大学文学部卒業。アジア・東欧などの民族問題を中心に取材・執筆。『悪者見参』『オシムの言葉』(共に集英社文庫)、『コソボ 苦闘する親米国家』(集英社インターナショナル)など著書多数。


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