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コの十三 大塚「酒蔵きたやま」 加藤ジャンプ「今夜はコの字で~全国コの字酒場漂流記~」

大塚全体が酒を愛している

 今回の行き先はJY12である。

 JR山手線の大塚おおつか駅である。駅番号で言うとJY12。どの駅も駅番号で呼ぶとK-POPアイドルっぽい感じが漂ってなかなか良い。
 大塚駅周辺には名店と呼ばれる酒場が何軒もある。そのほとんどが、「酒」と言ったら「日本酒」を意味する店だ。海賊が「酒」と言ったらラムだし、石井たかし監督のピカレスク映画ならサンミゲル(あくまでイメージ)。大塚の名店で「酒」と言ったら日本酒。ともかく、この街には日本酒がよく似合う。と言いつつワインやマデイラワインの名店なんかもある。つまり大塚全体が酒を愛しているということなのだろう。

 JR大塚駅南口の改札を出るとすぐに都電荒川線の踏切がある。急いで踏切の向こうの酒場へ行きたいのに、そういうときにかぎって、この踏切の警笛が鳴る。この踏切には遮断機が無くて、それにも驚くが、この警笛が鳴っている間に、仕事の電話を済ましたりしてはいけない。仕事に限らず、踏切の側での電話はご法度だ。一度、友人がかけてきた電話で、背後で警笛がカンカンと甲高い音で響いていたことがあった。なにかに追い詰められている雰囲気が漂っていて、とても心配になった。あの時、無心されていたら断れなかったかもしれない。

 荒川線は最近になって「東京さくらトラム」と名乗るようになった。地下アイドルみたいなネーミングだ。荒川線のままで良い気がする。車両も、なぜかキワどいピンク色のが走っていたりする。いつも行き先を間違えてばかりの人生なのに、さらにとんでもない所へ行ってしまいそうだ。そんな荒川線が過ぎていくのを見送り、信号をわたると、ぽつぽつと飲み屋がある一画がある。

山本壮人さん(左)と小林義尚さん(右)

 ここに、たまらないコの字酒場があるのだ。
 たまらないコの字だから、気が急いて、思わず開店時間より、よほど早く着いてしまうことがある。そんなときは店の近くの喫茶店で待つ。件のコの字酒場に行くときは、女性が一人でやっているサイフォンで珈琲を出す喫茶店に時々お邪魔していた。その日は年の瀬もおしせまったころだったが、店の様子がちょっと違う。壁に張り紙があって、年末で閉店する旨が書いてあった。
「年とっちゃったし、一人でやってるでしょ。サイフォンで珈琲だすから大変だしね。でもねえ、若いお客さんなんかから、ここが無くなったら、どこでタバコ吸えばいいんですか、なんて怒られちゃうんだけど」
 タバコは吸わないが、ゆったり時を過ごす場所がまた無くなる。また街が変わってしまう。

 定刻が来て、いよいよ例のコの字酒場へと向かう。「酒蔵きたやま」だ。1982年開業だから、昨年(2022年)に40周年を迎えた。

 店の角に入口があって格子戸をくぐると、すぐに大きなコの字カウンターが現れる。店全体は落とした照明で、すこし暗く、カウンターの上に吊るされた照明が手元を照らす。黒いカウンタートップに木の縁。バブルちょっと前の、昭和の良い建材が醸しだす雰囲気が愛おしい。頭上に墨痕淋漓とした筆跡で日本酒の銘柄が書かれた半紙が何枚も貼られている。そんなコの字カウンターの右奥に陣取った。店全体が見渡せる。良い。

「潰さなければいい」

「ま、40周年なんですけど、特に何もやらないんですけどね」

 コの字カウンターのなかにいるのは、二人の"番頭"さんだ。飄々とした語り口で、何もやらない、と語ったのは店長の小林義尚よしなおさんだ。創業からこの店にいて、きたやまの全てを知っている、きたやまの生き字引だ。
 傍で笑顔でうなずくのは、小林さんのもとで15年以上勤めてきた山本壮人たけひとさんである。日本酒の仕入れを担当している。きたやまに"番頭"という肩書きはないが、私は勝手にお二人をそう呼んでいる。

 初めてお二人に会ったとき、私はてっきり叔父と甥だと思い込んでいた。歳の差は24歳。親子ほど年齢が離れている。だが、一見して父子ではないとわかるのは、二人の間に、父子の間の独特の湿度が無いからだ。かといって、いわゆる師弟の厳粛さや堅苦しさも、師弟だからこその(急にタメ口をきくような)親し過ぎるきらいもない。で、この二人、ともに戌年生まれで生まれた月、星座、おまけに血液型まで同じなのだが、全然、血のつながりはない。にもかかわらず、通うにつれ、似てきた感じがする。立ち居振る舞いから、私が冗談を言ったとき、私が思っているより半拍遅く笑う感じまで実によく似ている。なにより、この店の"顔"であること、それも全然押し付けがましくないところがそっくりなのである。

「潰さなければいい、っていうのが、先代からのスタイルなので」

 と小林さんが、いつものように気楽な口調で言うが、たしかに、こんなに商売っ気というのを感じさせない酒場はそうそう無いだろう。あれこれ強く薦めることはないし、その店のルールみたいなものを強要することもない(従前から、私は、やたらにルールが多い店について、あれはルールを強いることで、ある種の倒錯した「プレイ」を楽しませる商売なのではないかと疑っている)。
 かといって、仕事ぶりは、圧倒的にプロフェッショナルだ。その時の心持ちを伝え、こちらが選んだ肴を見たら、名医のごとく、その時にいちばんの酒を選んでくれる。これが完璧なのである。

三千盛の冬にごり

 さて、その日の一杯目は、美しい真っ白なにごり酒を小さなグラスでいただいた。軽い感じで口火を切りたいと伝えたら、冬の日に、妙に暖房がきつい列車から降りたら思いがけない微風に吹かれたみたいな爽やかな一杯だった。こういうことをするのである、きたやまのお二人は。

 コロナの間、すっかりご無沙汰してしまったので、タガが外れたように肴を注文した。断続的にお願いしたが、ふりかえると大名行列みたいになっていた。

 お好み三品(イワシマリネ、にしん三升漬け、ホタテうにあえ)
 えびとアボカドかご盛りサラダ
 めばる煮付け
 穴子白焼
 あん肝ポンズ
 生カキ
 鮮魚三点盛り(めじまぐろ、ぶり、まだい)
 おにぎり
 あさり汁
 つけもの

 これだけ食べているのだから、当然酒量も比例して大量になった。ナントカの大吟醸、ナントカの特別純米、ナントカのナントカ。だんだん、記憶は曖昧になり、"旨い酒"という、望洋としたイメージが残るだけになっていく。なんてことだ。

コの字酒場の大事なものがつまっている

 しかし旨いコの字である。
 最初のお好み三品だけで二合はイケた。こういう、酒のアテとして作られた肴は時として、やけに塩辛いことがあるが、ここはそういうことはしない。板前さんは、コロナの間に先代が定年を迎えて新しい人に代わり、以前と違う個性を纏いつつ、出される一品一品は間違いなく「きたやま」の肴の血脈を感じさせる。たとえば、えびとアボカドのサラダは、冷菜界のブルースブラザースくらいの名コンビである、えびとアボカドを、きちっと日本酒のアテになるように、舌に優しいねっとりとした食感を和のベクトルに持っていく妙技。濃厚な風味をきかせたサラダでありながら、えびとアボカドが一体になって完全に和の"珍味"化している。旨い。

お好み三品
えびとアボカドのサラダ

 めばるも、魚が良いのはもちろん、煮汁のコクはギリギリのところで抑えてあって、めばるの、洒落た上品な脂とふうわりとした身の質にするするっと馴染み、魚の細やかでしみじみとした旨さをさらりと引き出している。しかも、添えられた牛蒡がまた良い。煮汁とめばるの出汁を吸って、ほんとうは、この牛蒡をつくるためにめばるを煮たんではないか、と思うほどだ。
 ここで、この一皿に合うのを、とお願いすると、山本さんがすいっと一升瓶を出してきてくれて、するするっと盃に注いだ。
 そのきらめく美しさにうっとりし、ぐっとあおった。たまらなかった。
 もちろん、そのときは
「これは確かに絶妙です」
 と、大きく頷いていたのに、すっかり酔いが回って銘柄は脳細胞からするりと消え去っていった。なにもかもが完璧だからいけないのだ。きたやま、罪である。

めばる煮付け

 つづけてどんどん良いアテが出てくる。刺身は海でサメになって食った気分だし、生カキはラッコになったような気持ちになった。なんとまあフレッシュで旨いのか。あん肝ポンズは、生臭さなんてこれっぽっちもなく、口どけよくて、そのとき呑んでいた酒と合わせたら、なにやら濃厚で上品なヒレ酒のような口あたりになり、これがマリアージュか、などとあらためて思った次第。

鮮魚三点盛り
生カキ
あん肝ポンズ

 コロナの間、酒が出せなかった間は店は休み。そのときは、番頭さん二人も、板前さんも、ふだんできないことをしていたという。
「店に新しい棚を作ったり、板さんなんか壁塗りしたり」
 と、小林さんが言えば
「ぼくも家事やったりで主夫したり」
 と、山本さんも笑う。やっぱり、この二人の忙しくないペースがいいのだ。小林さんが
「再開したとき、お客さんが喜んでくれたのは、やっぱり嬉しかったですね」
 と目を細めると、山本さんが、こう言った。
「ずっと再開するのを心待ちにしていた常連さんがいたんですが、休業中に亡くなって。もう一度来たかった、と言っていたと聞いたときは」
 二人は黙って頷いた。私も頷いた。

 ほんとうに、ここにはコの字酒場の大事なものがつまっている。見回すと、一人で粛々と盃を重ねる女性。その傍には、二人組の男性が、久しぶりに会ったのか、話が盛り上がっている。私の左手には、まるで勉強するかのように、番頭さんお二人に酒の相談をしつつグイグイと呑む男女。右手には、編集者のKさんが、心地良さそうに呑んでいる。そして、扉を開けて、入ってきたお客さんが、小声で
「あ、ジャンプさんだ」
 と言って、恥ずかしそうにテーブル席のある二階席へと階段を昇っていったとき、私はカウンターの奥から会釈をした(こんな酩酊おじさんに気づいてくれて有難い)。いろんな視線が、静かに行き交い、時々それが声になってかわされる。二人の番頭さんは、狂言みたいに、軽やかに愉快に、それでいてうるさく無く振る舞う。ただ狂言と違うのは、二人ともシテ(主役)なところだ。同時に客もシテで、その夜の"きたやま"という舞台が心地よくできあがっている。グレート・シアトリカル酒場、きたやま。最高だ。

 ふだん飲みに行くとシメをほとんど食べない私だが(ウソだという声が聞こえそうだが、一人で飲むときはそうなんです)、この日はどうしてもやりたくなった。おにぎりを
「二ついっちゃおうかな」
 と言うと、山本さんが
「でかいですよ」
 と、喚起してくれた。素直に聞いて一つにしたら、ちょっとした夏蜜柑かデコポンくらいの大きさのおにぎりが出てきた。両手で持って持ち重りする。残っていた酒で口を潤しつつ、このデカいのにかぶりついたら、なんだかおめでたい気分になってきた。

シメのおにぎり

 帰りに
「今度は、日をあけずにまた来ます、良いお年を」
 と言うと、カウンターのなかから、小林さんは小刻みに頷き、山本さんはニコニコと笑って、
「良いお年を」
 と言った。たぶん、今年は良い年になるだろう。


大塚「酒蔵きたやま」
住所:東京都豊島区南大塚2-44-3
*店情報は掲載時のものです。

加藤ジャンプ(かとう・じゃんぷ)
文筆家。1971年生まれ、東京都出身。東南アジアと横浜育ち。一橋大学大学院法学研究科修士課程修了。出版社勤務を経てフリーに。著書に『コの字酒場はワンダーランド』(六耀社)、『小辞譚~辞書をめぐる10の掌編小説~』(猿江商會)、『今夜はコの字で 完全版』(集英社文庫)などがある。コの字酒場探検家、ポテトサラダ探求家。これまでに訪れたコの字酒場は数百軒。
Twitter @katojump
【HP】katojump.wixsite.com/katojump

イラスト/タカヤス
1977年生まれ、東京都品川区出身。2014年、小学館「第1回ビッグコミックオリジナル新作賞」で佳作。16年に土山プロダクションに入社し、現在はさいとうプロダクションに所属。
Twitter @takayasu0804

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