コの三 荻窪「カッパ」 加藤ジャンプ「今夜はコの字で~全国コの字酒場漂流記~」
コの字カウンター界の高峰秀子
東京は杉並区荻窪は大正から昭和の初めにかけて別荘地として栄えたところだ。やがて数多くの作家・芸術家が暮らすようになった。井伏鱒二の『荻窪風土記』を読むと、トキワ荘みたいに、すごいメンツの家がここらに集まっていたことがわかる。
いまは別荘なんてないが、かわりに、たくさんの家といい飲み屋がある。いい町である。
地名の荻窪は咲いていた荻を集めてお堂をつくったとか、窪地だったから、とか。読んで字の如くの由来である。気になるのは「荻」である。「萩」によく似ているが「荻」である。萩は秋の七草だし花も知っている。されど「荻」はというと、あれ何だっけ?となりがちで、以前調べたところススキそっくりだけど芒と呼ばれる、穂先のトゲトゲ部分が無い植物だという。それで「え?」となった。そうすると、私がそれまで見てきたススキはオギだったのではないだろうか……。
荻窪を訪れるといつも、とりあえず荻とスギと萩のことを考えてしまう。カッパに出会ったのも、そんなことを考えているときだった。
荻窪でカッパに出会った、などと言うと川口浩探検隊みたいだが(実は私は四国でカッパに出会っているのだが、その話はまた別の機会に)、カッパとは店名である。全国にカッパと名のついた店があるようだが、荻窪のカッパは私のなかでカッパ界の白眉かジェダイといっていい存在である。
荻窪のカッパは路地に住んでいる。
JR中央線の荻窪駅の北口に出る。線路沿いを右方向にすこし歩くと、左手に感じの良い路地がある。狭くてちょっと暗い。だが、何となく風通しがいい。良い路地と悪い路地の分かれ目は、この風通しの良さにある。吹き抜けない路地は文字通りの吹き溜まりだったりするから危ういこともままある。
良きにつけ悪しきにつけ、路地があれば吸い込まれるのが飲兵衛なので、流れに逆らわずに裏道に吸引されて行くと、気の利いた立て看板。手描きのそれは近隣のレコード店の方の手によるもので、地図のほかに「嬉しい店々」なんて言葉が添えてある。嬉しいじゃないか。
看板に見惚れて佇んでいると、すぐに良いにおいが漂ってくる。あとは簡単。その香りの元を辿っていくとカッパが出現する。赤提灯。紺の染め抜きの暖簾にはかわいい河童が肩越しにこちらを向いてピョンと跳ねている。この光景。これだけで2合はいける。
暖簾をくぐればすぐに目に飛び込んでくるのがコの字カウンターだ。これが美しい。コの字カウンター界の高峰秀子という感じの、美しいけれど華美じゃない、素敵なカウンターである。
形がいい。昔の駅の改札のようにコの字の真ん中部分に焼き台があって入口に正対している。焼き台のあるコの字の一辺に、ほぼ等しい長さの辺が左右に一本ずつ伸びている。正しくコの字型である。
焼き台にいるのは女将さんの中根惠美さんだ。いつもシャキッとした背筋。しなやかな身のこなし、そして客との絶妙な距離感。拝みたくなる。とはいうものの、拝むより先に
「いらっしゃい」
と、よく通る声で席へと案内してくれる。
「カッパのオッパイ」
カッパは『今夜はコの字で season2』の9話に登場した。
このエピソードは、これまでこのドラマには無かった、男が二人だけで呑むものだった。
バリアフリーなんて言葉があるのは、世の中にはバリアだらけだからである。物理的なソレもそうだが、目に見えないバリアというか壁もそこら中にあふれている。すこしマシになったかと思うと、育ちがどうとか、じわじわやってくる。
せめて酒場はフラットにボーダレスに上座とか下座とか、そんなものの無い空間にと思うが、そこでもそういうことに拘る人もある。好きでやってるなら勝手にやればいいが、強要されるのはかなわない。コの字酒場のいいところは、そういう厄介事をあっさりと取り払ってくれることだ。店主を囲んで上座も下座も無い、無い。オールアリーナ席である。
さて、カッパの回。浅香航大さん演じる吉岡は、憧れの恵子先輩の元彼である竹財輝之助さん演じる小林透に偶然出会う。そして二人は意気投合し透の行きつけのカッパで一杯やる。こんなことってあるのか、と言われそうだが、全然知らない人と呑んでいて友だちとの話をしていたら「それボクの兄です」なんてこともあった。案外そういうことはおこるのだ。
透は吉岡よりも年上で輝かしいキャリアの持ち主である。こういう場合、先輩だの後輩だのという関係性が酒場にも持ち込まれやすいけれど、ドラマではフラットな飲み仲間になれた。もちろん、だからといって、ハメを外し過ぎることもない。イコールな関係はそれなりの節度が担保するのである。とまれ、二人でいきなり気持ちよく気兼ねなく心地よくフラットな関係で呑めたのは、カッパというコの字酒場の「コの字」型が完璧であることも影響があったのだろうと私は思っている。それほどに、ここのコの字カウンターはバランスが良い。どこに居ても誰かの顔が見えて、女将さんとの距離もどの席からもほとんどイコール。しかも、このカウンターの素材がいい。昭和53年に改装したときに設えたという台湾ヒノキ製のそれは、40年の間、客の肘と手とタレと煙に磨かれて、どっしりと美しい艶を湛えている。
そんな美しいコの字酒場のカウンターに腰をおろした吉岡と透の二人は口を揃えて言うのだ。
「カッパのオッパイ」
ドラマでは、吉岡と透がはしゃいでいるところに、女将さんがツッコミを入れる。女将さんは、もちろんリアルな惠美さんである。そのお芝居があまりに上手くて驚いた(ちなみに女将さんの双子のお嬢さんのうちお一方は女優さんである。おそるべき才能のつながりを感じた)。
さて、オッパイとは豚の乳房である。なかなかにレアな部位である。カッパはそんなオッパイはじめ旨い希少部位が揃う店なのである。それを見事に焼いてくれる。
だが、久しぶりにカッパを訪れ、いきなり
「オッパイください」
というのは何となく気が引けるのであった。五十を過ぎてもオッパイという言葉に照れる。これが不思議で一本目の注文でなければ照れない。だから、頼む順番が重要なのである。で、結局その日のオーダーは、
レバ、ハツ、カシラ、コブクロ、チレ、オッパイ、ホウデン、ヒモ、ネギ、ハラミ……
という流れになった。最強時代の西武ライオンズ、1番辻、2番平野、3番秋山、4番清原、5番デストラーデ、6番石毛、7番安部、8番伊東、9番田辺に匹敵するオーダーだと思う。
特に私は2番の平野謙、すなわちハツにこだわりたい。ハツは塩でもタレでもそれぞれに個性を発揮する。左右どちらの打席でも巧みなスイッチヒッターだった平野と一緒だ。で、この日はタレでいただいたが、ここのタレの凄さは、継ぎ足しと焼いたモツがひっきりなしに浸かることで生まれた重層的なコクと、そのコクがひとつもクドくなく、きっちりとモツの味を引き出すことなのだ。モツの味を殺さず、しっかりとした味付けながらモツにしっかり馴染んでさっぱりとした後味を残す。そんな離れ業をさらりとやってのけるのは、女将さんの焼き加減とタレの浸し方とがもちろん肝要。
その日のハツも、なんと旨いことか。こりっとした歯触りながら一嚙みでするっと嚙み切れる。かすかに繊維を感じるとその隙間にさらりと肉汁とタレがしみわたる。タレの香ばしいにおいが噛むたび漂い、するするっとハツが舌の上から消えていく。
旨い!!!
50本のオーダーをあっさりこなす
希少部位のハラミなんて、一瞬、全身固まってしまうくらいに旨い。小脂がするっと溶け出すと同時に肉の旨みというやつが、汁ごと舌をくるんでしまう。ほのかな甘みと、エッジのしゃりっとした焼き加減と歯触り。傑作である。5本でも6本でも一度に食べたくなるが、そういう野暮なことはしない。
例のオッパイも旨い。
もちろん、久方ぶりに再訪したその日、私と編集者のKさんは、「せーの」でこのセリフを口にした。だが、やっぱり中年はシャイ、蚊の鳴くような声だった。吉岡と透の大胆さが、いまの私たちには欲しい。
ーー漫画を描いてくれていた土山さんは、いわゆる「銀座」のお店が大好きだったけれど、ご一緒するととても紳士的でほんとうに漫画を描くために取材をしているという感じがした。だから、もしも、土山さんとこのコの字で一緒に呑んだら、土山さんも「オッパイ」と注文する声が小さくなったんじゃないかと思う。そして
「土山さん、声が小さいですよ」
というと、
「そうなんですよぉ」
といつもの調子で大声でこたえた気がするーー。
そのオッパイ、脂はたっぷりだが、これを女将さんが焼き台でさくさくとした歯触りになるまで丁寧に焼いてくれる。一口食べると、じゅわっとさくっとそしてまろやかなコク深い旨みが舌の上に広がる。オッパイ大好き、というと変態のようだが、何と言われようと大好きである。
そして、このコの字のモツはうま過ぎていつも以上に食い過ぎるが、ちっともモタれない。やっぱりモツと腕がいいからだろう。
繁盛店だから口あけとともに、席が埋まる。いつも混んでいる。だが、驚いたことに女将さんは、オーダーをとってもメモをとらない。それでいて全然間違えないのである。焼き台に並んだモツは部位ごとに並べられていて、常にその焼き加減に目を光らせている。だからといって、時々お目にかかる「話しかけるなよ!」という雰囲気を纏った頑固親父系の雰囲気は一切ない。そして、どれが誰のモツなのか絶対に間違えない。間違えないどころか、この間なんて、店が満席でてんてこまいのハズなのに、いきなり50本の持ち帰りオーダーが入った。
「えええ」
なんて楽しそうに声をあげたと思ったら、その50本のオーダーをあっさりこなしつつ、途中から入った注文も全く間違えることがなかった。
女将さんはこの店の創業者の娘だが、焼き台に立つつもりはさらさらなかった。
店は創業60年以上になるが、当初、二代目を継いだのは女将さんの兄だった。店は順風満帆。女将さんは結婚して荻窪を離れていた。ところが、その二代目が突然亡くなってしまった。急遽、女将さんは地元に戻り店を継ぐことになった。2000年のことである。
「最初はね、やっぱりいろんなことを言う人がいるんです」
女性が焼き台に立つだけでくだらないことを言う人もいたようだ。肌も見せないと決めて、今もいつも洋服は長袖を貫いている。ただ、
「ここで育ったからね。で、何もかわってないから、どこに何があるかとか、そういうことは最初から馴染んではいたんですよ」
そんなことを語るときも、女将さんの手はひっきりなしに動いている。
カウンターの奥には小さな厨房があってそこで小鉢などをつくっている。そこを主に担当するのは女将さんの娘さんとスタッフ。彼女たちのサポートがまた、見ていて小気味よく格好いい。ちなみに小鉢も全部旨い。海外から来て働いている人もいて、その人たちの故郷の料理もツマミに出している。コの字酒場の真髄はボーダレス。カッパは、そういうところも完璧だ。で、そんなことを思っているうちに、串の数は膨大になっている。カッパは相撲が得意だが、荻窪のカッパには、いつもあっさり寄り切られるのである。