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伊賀越えチャレンジ!1日目は飯森山の麓から山城国へ【第3回】黒澤はゆま

■四條畷神社を出発

遠足の前の晩の子供のように興奮して、あまり寝られず、ようやくうとうとしたところで目覚まし時計が鳴った。
いきなりだが天気予報が外れた。
カーテンを開くと、しとしと雨の降る嫌な天気である。
だが、もう宿の手配も済ませてあるので、今更変更は出来ない。午後には雨が上がり、後2日間は晴れということなので、強行することにした。
電車で四條畷駅に着くと、レインウェアを着て、四條畷神社に向かう。
記録には、家康は飯森山の西の麓で本能寺の変を知ったとあるのみで、具体的な場所の記述はないのだが、目印がないと何となく落ち着かないので、四条畷神社をスタート地点とする。

四条畷神社は、飯盛山の山裾に鎮座し、楠木正成の嫡男、正行が主祭神である。
長い参道の先に、山の懐へと通じる、緩やかな上り坂がある。その先に、主殿があるようだが、先が長いので今回は参拝しない。
鳥居に向かって一礼し、兵糧丸を一つ口に放り込んだ。

令和元年9月13日、午前7時14分、伊賀越えスタートである。
まずは最初のマイルストーンである尊延寺に向かう。
距離は約15キロ。
生駒山地を右手に見ながら、主に国道307号線を北上していく。
風景はあんまりおもしろくない。
言っては何だが日本ならどこでもある中堅都市の景色である。
格安チェーンの食い物屋、中古車店、コンビニ、人も設備も減価償却は終わりましたという感じの中小工場。
雨もあいまって街の色は灰色だった。
そして、大体1時間ほど歩いて気が付いた。

アスファルトに登山靴はあわない。
足がもうパンパンである。
シュラフをザックの背面に括り付けていたのもまずかった。
重みが垂直ではなく、斜め45度にかかるので、姿勢が赤ちゃんを負ぶっているかのように、前かがみになる。
無駄な体力を削られるうえ、腰も痛くなってきた。
騙し騙しさらに1時間ほど歩いて、たどり着いた津田駅で、休憩がてら体勢を見なおすことにした。
登山靴は今更どうしようもないが、シュラフをザックの上面にくくりつけ直す。

また、濡れたくないので傘を差しながら歩いていたが、それもやめた。
片手がふさがるのは意外と消耗するのである。
ザックが濡れるのは気持ち悪いが、荷物は皆防水袋に入れていたので、中身自体は心配ない。両手を自由にし、トレッキングポールを突きながら歩くことにする。
修正後の恰好で、駅の構内を試しに歩いてみると大分楽になった。
そして、この時、重大なことに気づいた。

「今、お腹減ってない?」

薄々、そうじゃないかなと思っていたが、やっぱりそうだった。
1粒で何日も平気というのは嘘。
3時間も持ちません。

ジップロックから兵糧丸を一つ取り出して、ペットボトルの水と一緒に流し込む。ついでに梅干しも食べた。亡くなった祖母のレシピによった昔気質のとにかくしょっぱい梅干しである。

一口食べて分かったが、疲れに即効性があるのは、梅干しの方である。
クエン酸と塩が、節々にたまった乳酸を洗い流し、酸っぱさで目も覚める。
対して、兵糧丸の燃焼の仕方はじっくりじんわり。触れ込みのような、魔法の食べ物ではないようだが、携帯用の食べ物としては腹持ちはするし、まぁ悪くはない感じである。

津田駅からは、国道を逸れ、「山根の道」の方へ足を向けた。
山根の道は、古代以来、旅人に使われてきた山根街道の一部である。
道の入り口に、お地蔵様がたくさん並んでいたりして、国道よりはよほど景色に人懐かしさがあって、歩いていて楽しい道である。
地蔵池に差し掛かった時、甲高い鳴き声がして、何だと思っていたら、鷺が1匹、池のまんなかにある小さな島に降り立った。
そぼ降る雨にびくりともしない、大きな立派な鷺だった。
家康もこの池を見たのかなと思ったが、後で調べると、残念なことに、ため池が出来たのは明治になってからのことだった。
山根の道を過ぎ、尊延寺についたのは、大体、11時くらいだった。
といっても、家康が尊延寺に立ち寄ったという逸話は別に残っていないので、たどり着いたのは寺の尊延寺ではなく、字(あざ)の尊延寺である。
ちなみに、今更と言えば今更の話だが、今回の旅は、国道を使っていることからも分かる通り、選ぶ道については大分いい加減で、道程の史的考証よりは、歩きやすさの方を優先している。
読者諸氏には不満だろうが、私がアウトドア初心者であることと、旅の目的の主眼が兵糧丸の効果の確認にあることを鑑み、ご容赦ねがいたい。
ただ、尊延寺近辺のコンビニの駐車場には、写真のような碑があった。

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「本能寺の変 天正十年六月二日 風雲急を告げる 徳川家康伊賀越えの道」
誰が立てたのかは分からないが、この碑を見た時は、恐怖と緊張に目を血走らせながら道を急ぐ家康一行の足音を聞くようであった。

■尊延寺から普賢寺谷へ

尊延寺を過ぎ、県道71号線を使って、普賢寺谷に差し掛かると、道が急に険しくなる。
梢が道の両側から迫って、深い影を落とし、いかにも「伊賀越え」という景色である。
だが、この谷からはよい砂利が取れるのか、コンクリート工場が集中しているようで、狭い道をミキサー車が猛スピードで通り過ぎてゆき、何度も寿命が縮む思いをした。
ここから京田辺市になることを示す看板を過ぎてしばらくすると、千草原を通って、宇頭城に出る間道があらわれるので、そちらへ曲がる。
こちらは車どころか、人っ子一人いない、静かな山道である。
この辺りから、雨も上がってきた。
時折、写真のようなのどかな田園風景も見え、私は上機嫌になってきた。

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宮崎のど田舎出身の私はとにかく田舎の風景が大好きなのである。
だが、やっぱり、登山靴は失敗だった。重いし、着地の際の衝撃も大きいように思われる。重しをつけて歩いているようである。このミスは、後々までたたることになる。
尊延寺から歩くこと大体1時間で、普賢寺谷の麓に出た。
この辺りは「普賢寺谷ふれあいの駅」という道の駅があることを下調べずみで、ここで休憩と昼食を取ろうと思っていたのだ。近隣の農作物も売っているので、戦国時代にあったものなら調達も可能なのである。
だが、扉にかかっていたのは、無情なことに「定休日」の3文字だった。
ショックでへたりこんでいると、小川の向こうに、「舞妓の茶」という幟が立っているのが見えた。
お茶なり飲ませてくれないかと、訪ねてみたところ、上品な中年の女性が一人で店番していた。
片隅に囲炉裏が切ってあり、自在鉤には古拙な茶釜がかかっている。
「冷たいお茶を一つください」
と言うと、
「喫茶店とはちゃうんですが、試飲でよければどうぞ」
店員さんは茶釜の蓋を開けると、ひしゃくでお湯を掬い、氷入りのグラスにお茶を入れてくれた。
「この辺りは茶所なんですよ。茶釜の湯も井戸水です」
なるほど鮮やかに綺麗な緑色である。
一口飲むと、さわやかな香りがパッと広がる。味も苦味のなかに華やかさがある。
 美味しい。
生き返るようである。
ぐびぐびと一気に飲み干した後、ずうずうしくもおかわりを頼んだ。
店員さんは注ぎながら、
「歩いて来たんですか?」
驚いたように聞かれたので、
「実は伊賀越えのルートを歩いてたどろうと思ってるんです」
すると、店員さんは「あら」と驚いた顔をして
「あいにく古文書は焼けてしまったけど、うちにも伊賀越えの時、家康さんを助けたという伝承が残ってるんですよ」
やはり旅はするものである。こういう出会いがある。
聞くと、自分のところだけでなく、この辺りには伊賀越えの言い伝えが残る家がゴロゴロあるという。
「私は歴史にはうといんですが、年寄りには詳しいもんが多いですよ。京田辺の図書館にもそん時の史料がたくさんあるみたいです。今は急いでるやろうけど、次来た時にゆっくり調べてみてください」
他にも店員さんは、お代わりのお茶を飲んでいる間に、この土地に残る伝承を様々に教えてくれた。
京田辺は辺鄙なようでいて、京都と奈良の交通の要衝にあたり、歴々の天皇さんが公家を引き連れて、何度もこの辺りを往来してきた。その名残が御所谷、公家谷といった地名に残っている。 
また、晩年、一休さんは普賢寺谷に住まっており、ここから、住職をつとめる大徳寺まで通っていたという。
洛中まではかなりの距離があると思うのだが、家康含め昔の人はとにかく健脚である。何十キロあってもものともせず歩いていく。
すっかりご馳走になってしまったし、お茶も美味しかったので、茶葉をお土産に買うことにした。
荷物になるのは嫌なので、家に送るよう頼んだ後、礼を言って「舞妓の茶」を後にした。
歩き始めながら、私は宮崎の故郷のことを思い出していた。
私の田舎は普賢寺谷などよりもっと田舎で、天皇さんが公家を引き連れて往来したなどという話もまったくない。先の大戦の時も、隣街には空襲があったのに、わが村にはなかった。B29も爆弾の方がもったいないと思ったのだろう。
ただ、西南戦争の激戦地になったことがある。
人手も財物も徴発された上、戦場になったわけで、いい迷惑という他ないが、村の古老は「西郷さんが来た、西郷さんが来た」と猪木にビンタされた予備校生のように有難がり、今でも懐かし気に語っている。
夏休みに、祖父に川遊びに連れてきてもらった時、祖父は向こう岸を指さして、
「西郷さんは船で来て、あっこから岸にのぼったとじゃ」
と言った。
なんだか昨日起きたことのように真に迫った言い方で、子供心にも、西郷さんがその巨体をのっそりと岸にせり上げる姿が目に浮かぶようだった。
店員さんが、伊賀越えについて語る口調も、祖父のそれに似ていた。
鄙に稀人がやって来たというのは、何百年たっても忘れえぬ記憶になるのだろう。
わが村にとっての西郷さんと同じく、普賢寺谷にも伊賀越えの歴史が、確かに息づいているのを感じた。

■草内の渡しで一息

次のマイルストーン、草内の渡しまでの道は、随分開けた感じだった。
近くに同志社大もあるので、学生さんの姿もちらほら見える。
別に学生さんに罪はないが、徒歩旅でしんどいなか、若くて元気な者がきゃぴきゃぴしているのを見るのは、それだけで腹立つものである。
ぷんぷん怒りながら、5キロほど歩き、14時半、山城大橋についた。
かつてはこの辺りに、草内の渡しがあり、河内・大和と宇治田原をつなぐ重要拠点だった。

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雨上がりの涼しい風が、木津川の上を吹き通り、なかなか気持ちいい。
橋の西詰で、しばし休憩することにした。
段々、分かってきたが、徒歩旅では休むのも真剣にやらなくてはならない。
面倒臭がってザックを下ろさなかったりすると疲れが取れないのだ。
10分くらいの小休憩でも、必ず荷物は下ろし、靴を脱ぐ。これだけで大分違う。

兵糧丸と梅干しを取り出してかじりながら、木津川を眺める。
なかなか大きな川だが、これでも長年の治水工事で、つつましやかになった姿なのだろう。
戦国時代はさらに滔々とした大河だったに違いなく、たどり着いたのはよいものの船もなく、家康一行は茫然とする思いだったに違いない。
ここで活躍するのが、家康に過ぎたるもの、本多平八郎忠勝である。

たまたま、柴を積んだ船が2艘来たのを幸い、「船をこちらへ漕ぎよせて来い」と怒鳴った。
舟子も相手せずそのまま通り過ぎたらよいようなものだが気が小さい人間だったのだろう。
「この船は柴を運ぶもので、人を渡すものではありません」
と答えた。
忠勝は腹を立て、火縄銃で船に狙いをつけ発砲した。
慌てて、船子は舟をこぎよせて来たので、忠勝はさらに「柴を捨てろ」と詰めてきた。
可哀想な船子はあれこれ抗弁したようだが、忠勝は槍を突きつけ、
「お前、命が惜しくないのか。何で柴を捨てない」
と押被せる。
それで、船子は泣く泣く柴を捨て、一行を向こう岸に渡してやった。
渡り終わると、忠勝は、船の底を槍の石突きで叩き割り、2艘とも沈めてしまった。

船子こそ好い面の皮だが、忠勝は明智からの追っ手を恐れたのだろう。
実際、家康一行と別ルートで行動していた、穴山梅雪がこの辺りで土民の襲撃によって命を落としている。

■山口城への道

今日、予定している目的地は、山口城を残すのみである。


信長の命によって、宇治田原に山口城、別名、郷の口城を築いた武将、山口秀康は、草内の渡しまでわざわざ迎えを寄越し、己が居城に家康を招き入れたという。

先の忠勝のエピソードと矛盾しているようだが、ひょっとしたら、家康一行は一つにまとまって動いていたわけではなく、隊を分けて行動をしていたのかもしれない。
忠勝は先遣隊で先行して木津川を渡り、山口城の秀康に迎えと護衛を頼んだとしたら、話の筋は通ることになる。
あるいは、逆に忠勝は後詰で、追撃してくる一揆をたたきのめしたり、反抗的な村を恫喝したりしている間に、家康はさっさと秀康の迎えとともに川を渡ってしまったか。その場合、随分、薄情な話ではある。

いずれにせよ、領主の護衛を得て、家康はほっと一息する思いだったろうが、草内の渡しから山口城までは、約7.5キロ。おまけに標高差が100メートル以上ある。
ルートは大体、国道307号線だが、普段、こんな山道を、わざわざ歩く馬鹿は少ないようで、歩道が無いところが多い。その場合、白線の内側、ほんのちょっとのスペースを進むしかない。

山賊の心配はないが、代わりに交通事故の心配がある道のりである。
はねられないようゆっくり用心しながら進むが、ここまでですでに総歩行距離は24キロ。旧日本軍の1日当たりの行軍距離と同じだけ歩いている。過酷で有名な旧軍が「人間1日歩ける距離は大体このくらいだよね」と決めた距離をもう超えているのである。

ザックはどんどん肩に食い込むし、あわない登山靴のせいで足にはもうマメがいくつも出来てしまった。
暑さも激しさを増してきて、とめどなく汗が流れていく。
正直、泣きそうなほど辛い。
宇治田原町に入ってすぐの峠茶屋(本当にこういう名前のお店があるんです)についた時は、夏の道端によく見る、干からびた蛙かミミズのように自分の体を感じた。

ここで一つ謝っておきたい。
ペットボトルのスポーツドリンクを250cc飲んでしまった。
視界の端が明滅する上、視野が狭まってくるという、脱水症状の前駆的な症状があったので、緊急避難的な措置である。
ご容赦願いたい。
スポーツドリンクを飲み、兵糧丸と梅干を食べると、大分、落ち着いてきた。
出発前に、日射病の予防のため、タオルを濡らし頭に巻く。
ここから目的地の山口城まで、1.4キロ。
あと、もう少しだ。

■山口城

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ようやくたどり着いた山口城は、茶畑を背景に事跡を示す看板があるだけだった。
地勢に際立った特徴はなく、看板がなかったら、ここが城跡だということには気づかないだろう。

その看板も写真のように塗装がはげ、ところどころ読めなくなっている。
この看板のように、山口秀康は、甲賀五十三家の実力者・多羅尾光俊の6男で、山口氏の養子となったということ以外、おぼろげでよく分からない人物である。
秀康より、その父親と言われる、多羅尾光俊の方に注目した方がよいかもしれない。
光俊は、彼の5男・山口光広が、長谷川秀一と親しかった縁で、家康の逃避行を援助したというが、その肩入れは一族あげての懇切なものだった。
家康を嫡男・光太とともに信楽に招いただけでなく、光広の他、3男・光雅まで道中警護につけてやっている。
光広、光雅は、甲賀衆とともに、はるばる伊勢白子までついていき、家康が船上の人になったことを確認してから戻ってきたという。
秀康の援助も、この父親の意向に従ってのものなのは間違いない。
光俊は信楽から宇治田原に掛けて勢力を持つだけでなく、随分誠実な人柄の持ち主だったようだ。
もちろん、こうした田舎の国人に特有の煮ても焼いても食えないしたたかさも兼ね備えていたのに相違なく、彼の子孫たちは、紆余曲折はあったものの家康の旗本となり栄えた。

山口城につくと安心したせいか、腰が抜けたようになって、一歩も動けなくなった。
泊まる予定のキャンプ場は、受付が17時までということだったが、とてもそれまでにつけそうにない。
管理人さんに連絡すると、親切なことに、「それなら迎えに行きましょう」と言ってくれた。

鎌やら鍬やら、細々した道具が一杯載った軽トラで迎えに来てくれた管理人さんは、「歩いてきた」というと大笑いし、さらに伊賀越えのルートをたどっていると言うと、「そいつはいい」と面白がってくれた。
皺深い、実直そうな顔立ちのおじいさんで、年に似合わず動きはキビキビして、小気味よかった。

多羅尾光俊というあまり目立たないが、日本の歴史の分岐点にあって、確かに転轍機(分岐器)を握った人は、こういう容貌だったのかもしれないとふと思った。

自分のほかは客が一人しかいないというキャンプ場は怖いくらいに静まり返っていた。
山間のせいか昼の暑さが嘘のように涼しくなる。
ジェットボイルで湯をわかし、干飯と梅干でおかゆを作った。持ってきた芋がら縄で味噌汁も作った。
おかゆは少し芯が残っていたが、やっぱり温かい食べ物はほっとする。
味噌汁も薄味ながら美味しかった。
夕食の最後に、兵糧丸を一つ口に放り込んだ。

そして、フィットビットのログで、今日1日どれだけ歩いたか確認する。
結果、歩数は56,502歩、距離は36.3キロだった。
消費カロリーは5,203キロカロリー。
ちなみにマラソンで使うカロリーが2000から3000キロカロリーと言われているので、結構なエネルギーを使ったことになる。
兵糧丸は今日1日で、結局、6個食べた。味気ないのには困ったものだが、別に足が痛いこと以外で、体に支障はない。まだ、1日目だが、過酷な旅を支えるだけの力は、持っているようである。

(【第3回】「伊賀越えチャレンジ!1日目は飯森山の麓から山城国へ」了)

【著者プロフィール】
黒澤はゆま(くろさわ・はゆま)
歴史小説家。1979年、宮崎県生まれ。著者に『戦国、まずい飯!』(集英社インターナショナル)、『劉邦の宦官』(双葉社)、『九度山秘録』(河出書房新社))、『なぜ闘う男は少年が好きなのか』(KKベストセラーズ)がある。好きなものは酒と猫。

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