第4回【鹿島アントラーズ新監督】コソボから来たセルビア人 、ランコ・ポポヴィッチ
●ポポヴィッチの出身地・ペーチへ
翌日、ポポヴィッチのくれたアドレスを握りしめてペーチを目指す。プリシュティナから西へ車でおよそ2時間半の距離だ。セルビア正教の総主教座が置かれたこの地は、セルビア人にとってはいわばアイデンティティの源とも言える。
モンテネグロが住民投票によって独立を決めると、セルビアの民衆たちがあっさりとそれを承認したのに対し、コソボに対してはどんなに痛い目に遭わされても独立を認めないのは、このペーチがあるからと言っても過言ではない。
私は昨日のジボインの言葉が気になっていた。ランコ・ポポヴィッチが魂の拠り所とするデチャニの修道院を見に行くことにした。果たして14世紀の世界遺産に対する不穏な動きはないだろうか。
高い塀に囲まれて建つその修道院に入る。内部は、清廉な光に満ち溢れていた。電灯のない14世紀の昔から、天窓より差し込む陽光に照らされた宗教画は、それ自体から荘厳な空気を発している。しばし天井を見上げていると、兵士にガードされたものものしい一団が入ってきた。要人らしい人物が何人もの記者を引き連れている。
〈何だ、この集団は?〉。せわしなくシャッターを切っていたカメラマンに聞くと、セルビア本国から来たコソボ担当大臣のサマルジッチだという。
「なんでまた大臣が?」「知らなかったのか? 昨日の深夜、ここの裏手に手りゅう弾が投げ込まれたんだ」。ジボインの心配が当たってしまった。それで、大臣がベオグラードから警備を引き連れて現場に来たというわけだ。
「犯人は?」「まだ捕まっていない」。国連の危機遺産に指定されていたのは、伊達ではなかった。
サマルジッチ・コソボ担当相を追いかけて、ぶらさがりのインタビューを敢行した。この事件をどう受け止めているのか? 大臣は憤慨していた。
「中世より続くデチャニ修道院をテロリストが攻撃してくる理由はひとつだけ。680年前からコソボにセルビア人が住んでいたという痕跡を抹消しようとするのが狙いなのだろう。独立をしたい連中からすれば、先住の民族がいるという事実は都合が悪いのだ。これは歴史に対する冒涜であり、人類の文化に対する侮辱だ」
ひとつの矛盾が存在する。石炭以外、これといった資源がないコソボは、自立した経済基盤がなく、ユーゴ時代はスロベニアやクロアチア、セルビアといった北部の豊かな共和国からの経済支援で成り立っていた。ユーゴ連邦崩壊後は、それがなくなり、外貨を稼げるものが、唯一観光資源だけとなった。
しかし、その観光資源とは、セルビア正教の建物であり、それらを対外的に宣伝すれば、歴史的にこの地がセルビアの聖地であったことをアナウンスすることになる。アルバニアの極右政治家にとっては、これほど都合が悪いものはない。
以下は、2008年のコソボ独立後に日本のユーラシア旅行社が出した西バルカン観光ツアーのパンフレットの中でコソボの魅力を記した一文である。
「14世紀、中世セルビア王国国主により建立された数々の修道院と教会の内部を埋め尽くすフレスコ画はまるで中世壁画の美術館のようです。また“セルビア正教のエルサレム”といわれるペーチ総主教修道院は総主教座が置かれたセルビア正教徒の方々にとって大切な場所でもあります。現在、修道女さんたちが敷地内にお住まいになり、KFOR(コソボ治安維持部隊)が修道院を守っています」
このツアーの旅行説明会でこんな質問がとんだ。「何でそんな美しい宗教施設を軍隊が守らなあかんのですか?」「いったい誰が壊しに来るとですか?」「私らも観に行きたい大事な世界遺産が何で壊されなあかんのですか?」。真っ当な問いだが、要はそういうことである。大アルバニア主義者からすれば抹消したい歴史遺産なのだ。
イライラしているサマルジッチに続けて訊いた。
「コソボの独立については、国連安保理協議により、独立を認める内容の修正決議案も提示された。あなたは担当大臣としてアルバニア人側に何を要求しているのか?」。
間を空けずに大臣は答えた。
「セルビア人地域、エンクレイブにおいての自治を認めさせたいのだ。このままでは、セルビア人に限らず、コソボのマイノリティはどんどん生活ができなくなる」
KFORがいるにもかかわらず、テロが続いている。この分では、果たしてポポヴィッチの生家に辿り着けるかどうか。
●ヨビセビッチ53A ペーチ
とにかく住所だけが頼りである。聞き込みながら歩いた。やっかいなのは、地名がすべてアルバニア語に変わってしまっていることだった。固有名詞であるペーチ(Pec)もアルバニア語では、ペーヤ(Peja)になる。コソボの道路標識もかつてはセルビア語とアルバニア語の二つで表記されていたが、現在はご丁寧にセルビア語の方はペンキを塗られて潰されている。
要はメモに書いたセルビア語の住所を見せた人間が、この言葉に対してどんな感情を持っているかで、対応が変わってくるのだ。自分たちを同化しようとしたものとして拒絶するのか、あるいは寛容に道案内をしてくれるのか。
白壁と茶色い屋根の民家が続き、小さな畑を持つ家が連なる。門扉が堅く閉ざされていて、迷宮に入り込んだような錯覚に陥る。粘り強く外から声をかけて家探しの要件を伝えても、セルビア語の住所を見せるだけで嫌な顔をされる。
陽が傾き始めたころ、ようやく「それはあの一画よ」と、一人の女性が指を指して教えてくれた。恐縮して礼を言うと、「私も昔、友だちがいたのよ」。
指定されたブロックの家を一軒、一軒ノックして回った。この辺りに昔、ポポヴィッチという一家が住んでいなかったですか。やはり、歓迎には程遠かった。
「知らない」。
かような民族名については、触れたくもないという拒絶を何度も受けた。それでもついに53Aという番地から、目的の家が絞り込まれた。廃屋にはなっていない。人が住んでいる。庭のついた小ぎれいな二階建ての家であった。
意を決して、インターホンを押した。「日本から来ました」と言うと、中から40代くらいの男性が出て来た。「おおっ! そんな遠い国から、なぜ、うちに来たのか?」
いぶかしがられても仕方がない。実は、と来意を告げた。ランコ・ポポヴィッチの家を探しているのです。
にこやかだった表情が、とたんに曇った。当然である。彼にしてみれば、迷惑極まりない訪問者である。すでに居住してかなりの年月が経つであろう。当地に根を張った生活感は、玄関の調度品や手入れされた家庭菜園からもうかがい知ることができた。そこに突然、何の前触れもなく、一方的に外国人が訪ねてきて、以前住んでいたセルビア人のことを話し始めたのだ。
バルカン半島の人々は、元来、アポイントがあろうがなかろうが、どの民族もそろって、来客があればこれをもてなす強いホスピタリティの持ち主である。しかし、今回ばかりは居心地の悪い対応を受けた。
「家主がいなくなり、空き家になっていた場所に自分は入った。新しくなった行政にすでに登記を済ませている。ここは私の家だ」。
新しい家主にすれば、何ら咎められる筋のものではない。
追われて難民となったセルビア人たちが捨てた家は、言い換えれば、改修せずともすぐにでも生活ができるスペースである。米国の後押しによってアルバニア系の新政府になれば、行政機関も一新されて登記もへったくれもない。帰還してきたアルバニア人難民からすれば、誰もいなくなったのであれば、これを使わない手はない。
それでも、ポポヴィッチにとっては、やはりショックなことではあろう。現在の家主はしかし、最後に配慮も忘れなかった。
「以前、どんな人がこの家に住んでいたのかは、私は知らない。ただ、とても丁寧に住んでいるということは伝えて欲しい。あなたの家族の思い出が詰まっているこの家は大切にしていますと」。
壁や柱に付いていた傷や庭に植えられていた草花から、かつて住んでいた家族の息吹を感じ取っていたのだろう。突然の訪問を詫びて辞した。とりあえずポポとの約束は果たした。しかし、帰国後にこれを彼にどう伝えようか。(続く)