コの十二 三軒茶屋「伊勢元」 加藤ジャンプ「今夜はコの字で~全国コの字酒場漂流記」
漫画の舞台にしたいと思っていた
東京は世田谷のだいたい真ん中に位置する三軒茶屋。町名は江戸時代に、この町で二つの街道が交わるあたりに、三軒の茶屋があったことに由来する。いまでは三軒どころではなく千軒茶屋くらいに賑やかである。
田園都市線と世田谷線という二つの東急の路線の駅がある三軒茶屋には、酒場もたくさんあって、コの字カウンターをかまえたところも何軒かある。なかでも、今回訪れた店は、界隈では一等古いコの字酒場なのではないだろうか。
店の名前は「伊勢元」という。いせもと、である。
同じ名前の店が国道246号をはさんで、南北に一軒ずつある。親戚筋の店で、北の一軒はコの字カウンターがない。今回の行き先は南側の伊勢元である。
実は、漫画版『今夜はコの字で』でもこの伊勢元を舞台にしたいと思っていた。
主人公の恵子は大学進学を機に東京で暮らすようになった。最初の一人暮らしの部屋は椎名町でバイト先は三軒茶屋にあった。その頃から恵子は、この三軒茶屋のコの字酒場に顔を出していたが、まだ、あまり「コの字」を意識しておらず……という話を考えていた。結局、漫画版では、そんなエピソードゼロを描くことはできなかったが、ひそかにドラマでは、と企んでいる。
三軒茶屋は、最近は「三角地帯」と呼ばれる、世田谷通りの南側のエリアが、メディアで、しばしばフィーチャーされる。戦後、闇市だった場所で、その名残を感じる小さな店が軒を連ねるというか、ぎゅうぎゅう詰めになったエリアだ。もちろん闇市のようなダークさはなく、きわめて明るく快活な町だ。かつては、ビンテージな店主が切り盛りする店が多かったが、近頃はお洒落成分に満ち溢れた若い人が経営する、古着の着こなしが上手いオシャレさん的な店が増えた。勢いのある町はこうして代謝していく。
伊勢元も駅や世田谷通りより南側だが、三角地帯よりもさらに南に位置する。駅の近くは、やんやと賑わっているが、徐々にではなく、不思議とストン、ストンと段階的に静かになっていく。妙に広々した国家公務員の住宅やら銭湯の煙突が見えてくると、すっかり落ち着いた雰囲気になる。そこに伊勢元はある。
暖簾をくぐって引き戸をガラリと開けると、店一杯に大きなコの字カウンターがどっしりとかまえている。この瞬間、うっとりする。出落ちといったら否定的にとらえられそうだが、この出落ちは、玄関を開けたらいきなりダイヤモンドがあるようなもので、出落ちの概念すら覆す。
空間一杯を埋め尽くす、充満するコの字に興奮をおぼえないコの字酒場好きはいまい。花道で一杯の芝居小屋みたいなものだ。たまらんではないか。
「入ろうかなって店の前を行ったり来たりする人多いんだよね」
奥に長いコの字カウンターのなかから、金髪の男性が迎えてくれた。驚くほど滑舌良く、艶のある声、二代目店主・中村義昭さんだ。
コの字カウンターの奥に腰かけまずビールを注文した。ここのコの字カウンターは真ん中の一片が玄関に面していて、両サイドが奥にぐっと延びている。白木風の化粧パネルで出来たカウンターはカウンター内側の厨房との境目が迫り上がっている。
「はーい」
と、中村さんの倍音の効いた良い声。コの字酒場は店主と客がつくる一夜限りの舞台、と、くりかえし書いてきたが、中村さんの声を聞いて、あらためて自説に納得してしまった。
お通しにしてはビッグサイズ
ビールと一緒に運ばれてきたのは、お通しである。私はお通しが大好きだ。お通しとは、お店からの挨拶状、あるいはお店カルテのようなものである。その一品のなかに、店についての情報が詰まっているのだ。
たとえばお通しがどっさりしている店は、たいがい一品一品の肴もたっぷりしている。お通しの味付けが塩っ辛い店は、店主が疲れているか、単純に濃い味付けが好きなのか、あるいは、ガンガン酒を呑ませようという意図がある。和風な佇まいな店ながら中華なお通しを出す店は、実は女将が中華料理店出身だったり、煮物の具の飾り切りが巧みな店の店主は料亭で修行経験あり……というようにお通しは、店についての情報の宝庫なのである。そして、イチゲンの客は、お通し探偵になって、まずはその店の素性を推理し、通っている客は、その日の店主のコンディションや店の状況を占うのである。
その日でてきたのは、四寸ほどの鉢。お通しにしてはビッグサイズである。中身は雁もどきや厚揚げなどを炊いたもの。それが鉢にあふれんばかりに盛られている。
お通しの話からはそれてしまうが、雁もどきが大好きな私は、目の前にそれがあると矢も盾もたまらずかぶりついてしまう。雁もどきというと、噛んだときに溢れる煮汁に言及する人が多い。それももちろん大切な雁もどきの魅力だが、ファーストバイトで重要視しているのは、雁もどきの一番外側の茶色の部分となかの白い部分の境目あたりにある、歯触りの分水嶺である。表面側はちょっとゴソゴソっとした食感ながら、中身のねっちりとフワフワがあいまった口当たりが、口中でミックスされていく心地良さは、パイを食べているとき、シャクシャクのペストリー部分とベースのクラストをバクリといったときのように、歯ざわりのハーモニーの愉快さをいつも再認識させてくれる。
さて、伊勢元のお通しの雁もどきはというと、お通しとは思えないほど大きい。お出汁は、冷めても旨いさっぱりしたコクがあって甘さもほどよい。問題の一口目の歯触りはというと、やはり密かに表面がゴソゴソっとしたかと思うとフワフワがせめてきてジュワッと汁があふれた。つまり最高なのだった。
お通しのボリュームからわかるように、伊勢元のツマミはいずれもたっぷりしている。ランチ営業もしているからか、ツマミとオカズの二足の草鞋をはいたような、絶妙なボリューム感なのである。
……と思ったら、入口に人かげがある。しばらく見ていたと思ったらすうっと入ってきた。青年だった。
「もうランチだめですよね」
もはや夕方、ランチという時間ではない。しかし中村さんは、
「だいじょうぶですよー」
と、ベルベットボイスでこたえた。お店の混雑具合などを勘案して特にOKしてくれたのだと思うが、そこに押し付けがましさなどは微塵もなく、実に粋なのであった。
青年がハンバーグ定食を注文したとき、私と同行していた編集者のKさんと目があった。
「いくか」
「いくぜ」
こういうとき私たち飲兵衛はバビル二世とヨミのようにテレパシーで会話ができるものである。すぐさまハンバーグを注文した。ちなみにこちらのハンバーグは正式には「でっかいハンバーグ」と呼ばれている。
このハンバーグ、一言で言って傑作である。でっかいと自称しているだけあって、サイズはiPhone8の倍くらい。厚みは2センチは超えていると思われる。粗挽きで、そのゴロッとした部分のところどころに焼き色がついている。その美しいメイラード反応のドット模様をあえて隠すかのように、旨いソースがたっぷりとかけられている。箸で大きめに切って一カケラを大きな口を開けて食べる。これ見よがしな肉汁の溢れ方ではなく、粒の大きなひき肉の一粒一粒がたくわえている汁気が、嫌味無くすうっと舌に広がる。ソースはあっさりしていて、ボリュームがあるけれど、スイスイいける。すでにお酒はビールから日本酒になっていたところに、このハンバーグは素晴らしい相棒となってくれた。
件の青年とは、同じハンバーグを食べた仲間、そして同じコの字の角を囲んだ仲間だから、すぐに話がはずんだ。青年は役者志望で、いま三軒茶屋にあるスクールに通っているのだという。そして伊勢元には7回やって来て初めて営業しているところに出くわしたのだという。
「不定期な休みもあるからね。あとは、うちの店は店前で躊躇う人が多いんだよねえ」
中村さんが笑った。実は中村さんがこの店を継いだのは、2019年と比較的最近のことだ。中村さんは、
「全然お店を継ごうなんて思ってなくてね。調理師学校には行ったけど、ただの不良だったんです」
と、また笑ったが、実は、元々、その道30年をこえるベテラン・フリーアナウンサーで、ラジオDJやサッカー中継で大活躍している。大活躍は今も変わらないので、アナウンサーの仕事で営業できない日がしばしばある。だから店の休みは増え、例の演劇青年のように、何度来ても店が営業していない、なんて巡りあわせになってしまうこともあるのだ。
「この店を大事にしないとな」
店が開いたのは昭和39年、前の東京五輪が開かれた年だ。両親が始めたが
「親父は営業中に3回も喫茶店に行っちゃうような人でね」
と中村さんがまたまた大笑いしたように、料理など、店の主だった仕事はほとんどお母さんである女将さんが担っていた。先に大将が亡くなると、それからは女将さんが完全に一人で切りもりするようになった。その女将さんが亡くなったとき、葬儀には常連客やこの店に思い出を持つ人が大勢訪れた。このあたりのエピソードは、中村さんのお子さんでイラストレーターの中村一般さんの漫画に詳しく描かれている。実は、私は伊勢元と中村一般さんの関係を知らずに、双方のファンだった。
「やっぱり、この店を大事にしないとな、と思ってね」
いろんな人の居場所だった、この店をまもっていきたい。女将さんを失った伊勢元を継ぐことに決めた中村さんは、アナウンサーの仕事の無い日には伊勢元を営むという独自のスタイルを確率した。フリーアナウンサーとの兼業は畑違いのようだが、
「実況にしても司会にしても、現場で人とふれあう仕事なんですよね。このコの字カウンターも、人がふれあう現場でしょ。いろんな人が居るところを、気持ちの良い空間になるように、上手く回していくのは、アナウンサーもコの字酒場の店主というのも似てるんですよね」
たしかに、と頷いていると、コの字の対岸から
「ジャンプさん」
という声が聞こえた気がして、「はい」とこたえたら同時に中村さんも「ハイ」と返事をした。実は中村さんのニックネームは「ジャンボさん」なのである。ジャンボとジャンプが同じコの字酒場に居合わせた奇跡に、気を良くした私は、調子にのって、タコさんウインナー、豚キムチ炒め、もつ煮込み、しょうが焼き、さらにキーマカレーまで注文してしまった。注文までジャンボになってしまった。
タコさんウインナーはタコさんが一皿に12匹ものっていた。赤いのと茶色のがいて、久しぶりに食べた赤いウインナーの迫力ある味にうなってしまった。もちろんビールを頼み、ぐいぐいやった。
豚キムチは、刺激はしっかりあるものの、決して辛すぎず酒の邪魔をしない優しい一皿。煮込みは、ホロホロになるまで煮込まれていて、透明感のある出汁がたまらない。しょうが焼きは、時折、大変に甘いのに遭遇して戸惑うことがあるが、ここのはやはりバランス良く、甘辛の、やや辛寄りな味付けが絶妙だった。しんなり加減も絶妙な玉ねぎと一緒に頬張るのが良くて、こちらも瞬く間に平らげてしまった。
キーマカレーは、ジャンボさんの代になって登場した完全な新作メニューだ。
「キーマカレーが好きでね、いろいろやってここに辿りついたんです」
というジャンボさん渾身の品で、ほんとうに旨い。スパイスはそれぞれが良き香りをたてているのに、全体としてマイルドで主張が強すぎないから、酒を盛り上げてくれる。それでいて、このキーマカレー単体で食べても、しっかりと存在感があって、辛みも塩味も歯触りも、ここがベスト!という地点にあって、最高に旨い。実は、ちょっと食い過ぎている気がしてミニサイズにしたが、後悔した。
気づけば、一人でやってきたお客さんがコの字の三辺に座っていて、皆心地よさそうに呑んでいる。対岸から、
「ドラマ、シーズン3も見たいです」
なんて声もかけてくれた。それを聞いていた、また別の人が
「いいよねえ、コの字はねえ」
と、ドラマの感想ともコの字酒場についての雑感ともつかない、されど、心にしみる言葉を言ってくれた。これぞコの字酒場だ。
「営業日はカレンダーに書いてるし、これはフェイスブックにものせているから確認して来てね」
お会計をすますとジャンボさんが教えてくれた。今度はキーマカレーはノーマルサイズでいきます、と伝えて店をあとにした。