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コの五 大森「蔦八」 加藤ジャンプ「今夜はコの字で~全国コの字酒場漂流記~」

器の中に作られた旨さのビオトープ

 JR京浜東北線の大森おおもり駅のホームには土器の銅像がある。東京、大田おおた区大森は日本史の授業でおなじみの大森貝塚が見つかったところだ。その当時はゴミ捨て場でも、何千年もたてば遺跡になる。発見したのは明治時代のおかかえ外国人の一人、エドワード・モースである。モースは日本から帰国した後、米マサチューセッツ州セーラム市の博物館の館長になった。そんな縁から大田区とセーラム市は姉妹都市になっている。セーラムといえば魔女狩り、魔女裁判で世界的に知られている。で、童話やアニメの魔女といったら、大鍋で魔法薬を煎じる姿がよく出てくる。なんの話だ?と思われるかもしれないが、この大鍋が大事で、ここ大森には飲兵衛にはつとに知られた大鍋があるのだ。その大鍋は、あるコの字酒場にあって、いつも、ゆたかな湯気をあげていている。

絶妙なバランスで均整がとれた美しいコの字型

 大森駅東口。線路にそって南北にのびる道を右、すなわち南にむかって4、5分。アーケード街ミルパが現れたら、それをやり過ごして路地を行く。小さな店が軒を連ね、それぞれが思い思いに秋波をおくるがそんな誘惑に負けずに歩く。ほどなくして通りの左手にひときわ目をひく赤提灯が見えてくる。提灯の前まで行けば、そこにあるのは格子戸に縄のれん。鬼に金棒みたいなものだ。
 これが、コの字酒場、蔦八つたはちである。ドラマ「今夜はコの字で Season2」の第5話と最終話の12話の二度にわたって登場したコの字酒場である。
 
 広めの間口一杯にはまった格子戸を開けて敷居をまたぐと、大きなコの字カウンターがどんと構える。両端にテーブル席が数席あるが、店のほとんどはこのコの字カウンターが占領している。15人くらい座れるだろうか。入口から向かって右手の一辺がやや短く、つづいて左の一辺、そして真ん中の一辺が一番長いが、全体には絶妙なバランスで均整がとれた美しいコの字型をしている。この眺めだけで二合は軽い。
 例の大鍋はというと、カウンターの真ん中の一辺の、そのまた、だいたい真ん中のあたりにあって、年中、湯気といい香りを漂わせている。真夏、すべての食事を冷たいものにしなかったら倒れそうな暑い日でも、ここの大鍋を見たら
「煮込、一つ」
 と注文せずにはいられない。この鍋の煮込みの前ですべての飲兵衛は無力である。野茂英雄のフォークボールみたいなものだ。

煮込の大鍋
小さいサイズの玉子入りの煮込

 煮込には、サイズも大小あり、玉子入りや豆腐入りなどいくつかのバリエーションがある。久しぶりに訪れたその日は、小さいサイズで玉子入りをお願いした。
「はーい」
 と、こたえる従業員さんの声が気持ちいい。すぐに大鍋にお玉をいれると、ザブッととんすいに煮込が盛られる。レンゲを添えると、すぐに
「はい、どうぞ」
 と煮込が目の前に現れる。まずはその香りに心を奪われる。小話の『しわい屋』ではないが、このにおいを袋詰めにしたら売れそうなくらいいいにおいである。
 香りも最高だが、その見た目もこの煮込はすごい。まずは汁。牛スジから出た小脂をふくんだそれは、表面をうっすらと輝かせる。陽光きらめく旨い湖である。その湖のなかには魚影のように、汁のなかに潜む牛スジがちらほら見える。そして湖に生息する謎の生物のごとく、ぽっかりと顔を出すのは玉子。よく煮込まれたそれは、煮込の汁の色を写しとり、薄く茶色に染まっている。そのうえに、たっぷりと盛られたネギの美しい山。蔦八の煮込。それはまるで、器の中に作られた旨さのビオトープである。具や汁が相互に作用し、一つの美味しい世界にまとまっている。
 まずは一口、その汁をふくむ。なんだ、この幸せな味は。汁のすみずみからあふれでるコク。煮込まれたスジと野菜の味が織りなす豊かな味わいと、かすかな甘さが、口にした瞬間から舌を喜ばせる。たまらず二口目にはスジをほおばる。とろけるようにほぐれていくたびに、ジュワリと汁気があふれでる。口中に旨味の大河が流れていく。旨い。
 

「この店の客でいたい、ずっと通いたい」

  アクリル板越しにお隣にいる常連さんと目が合った。
「ジャンプさんですよね」
「は、はい! すみません、ここ恵子先輩が座ってた席ですよね」
 不意に声をかけられて、よくわからないことを答えていた。しかし、こんなただの飲兵衛おじさんに気づいてくれるなんて、ありがたいことだ。ドラマのおかげである。
 
 ドラマの第二話では、中村ゆりさん演じる恵子がアシスタントのミキを連れてくる。そして吉岡役の浅香航大さんと後輩・山田役の小園凌央こぞのりょおさんが合流し、これぞコの字酒場という和気藹々のひとときを過ごす。このシーン、藤井武美ふじいたけみさん演じるミキの呑みっぷりと山田へのツッコミは、まさにコの字酒場だからこそ生まれる絶妙な距離感で、たまらない。
 実は、漫画版の『今夜はコの字で』には蔦八は登場していない。今年になって集英社文庫から完全版が発売されたが、元々この漫画が連載されていたのは2015年の3月から9月までの間である。ほんとうは、漫画を描いてくれた土山しげるさんをお連れして、ここの煮込を味わってほしかった。そして、漫画を連載していた当時、蔦八を舞台にした回ではドラマとは違ったエピソードも考えていた。だが、その頃蔦八は、この世界から姿を消していた。大鍋の湯気も消え、暖簾もかかることがなかった。一度、蔦八は閉店したのである。奇しくも閉業していた期間は、ぴったりそのまま漫画の連載期間とかさなっていた。
 
 蔦八が開業したのは1970年、万博の年だ(コスモ星丸ほしまるの筑波科学万博や笹川良一ささがわりょういちの宇宙博などではなく、本物の大阪万博)。私よりも一つ年上だ。私が初めて行ったのは、いつだっただろうか。その頃は、夫婦が営む、いろいろ削ぎ落とされた非常にストイックな店だった。
 大鍋の煮込はあったが、その前にいつも鎮座していたのは先代の大将だった。先代大将は、常連以外とはほぼ一言も口をきかなかったが、常連とはよくゴルフの話をしていた。一方、女将さんはというと厨房とコの字カウンターを行ったり来たりして、私のようなぽっと出的な客にも優しく相手をしてくれた。
 つまみは、煮込とぬたとアジ南蛮と漬物とあとは何があっただろうか。ガンダーラ美術の仏像みたいに、研ぎ澄まされたメニュー構成だった。もちろんその頃から煮込は外せない一品だったから行けば必ずいただいた。ある日、勇気をだして大将に
「おいしいです」
 と伝えたとき、大将がかすかに口角を上げてくれたことは今でも鮮明におぼえている。これに乗じてもっと話そうかとも思ったが、おそらく相手にされないどころか、むしろ鬱陶しがられそうな気がしてやめた。そのあたりの駆け引きの面白さが、かつての蔦八の醍醐味の一つでもあった気がする。ただ、老夫婦のお店だったから、今度来たときもあるだろうか、といつも少しだけ心配になった。
 
「メニューもそうですけど、お客さんも少なくて、静かな店で。でも、この店の客でいたい、ずっと通いたいって思ったんですよね」
 
 いま、この店を営んでいる土屋一史つちやかずしさんは懐かしそうにふりかえる。土屋さんは、生まれも育ちも大森だが、蔦八に通ったのは、先代夫婦の時代の最後の7、8年だった。土屋さんは都内でいくつかの飲食店を経営している。
「自分の店を終えて、帰り道に蔦八に寄りたくても、もう店が閉じちゃってるんです」
 たしかに、以前の蔦八は、閉める時間が繁華街の店にしては比較的早くて、二軒目に寄ろうとするとすっかり暖簾をおろしてしまっていることが、たびたびあった。そんな店だったから、地元っ子の土屋さんでも、蔦八には月に2、3度行ければ良いほうだったという。だから、ここは、どちらかというと知る人ぞ知るコの字酒場だった。
 
 2015年、先代の大将が亡くなった。片翼を失った蔦八は飛びつづけることはできず閉業した。
 
 そして土屋さんは決意した。蔦八を継いだのである。
 
「あんまり商売としてなりたっている感じもしなかったし、引き継いだらきっと赤字になるだろうと思ったんです。でも、たまに、ここに来て呑めたら、それで良いと思ったんですよね」
 今だからなのか、土屋さんは明るく語るが、これ、相当に覚悟がいることである。こんなことができる人、なかなかいないし、こんな人がもう少しいたら、この2年で消えていったいくつかの店のあかりは今も灯っていたはずだ。
 

凡百の“リニューアル”とは違う、新生蔦八

 閉店から半年。土屋さんは、蔦八のくすんでいた部分を磨き、新生蔦八に生まれ変わらせた。といっても、決して凡百の"リニューアル"などとは違って、やたらに変えて元の良さを台無しにするようなことはしなかった。それはほとんど"修復"と呼ぶにふさわしいプロセスだった。たとえば、カウンターを囲むテーブル。油汚れで真っ黒になり、ただの物置のようになっていたそれを磨き、生き返らせた。壊れたお燗機やテレビは片付けた。もちろんメニューも引き継いだ。アジ南蛮にぬた。そして、肝心の煮込はというと、女将さんに作り方をつきっきりで教えてもらった。基本、何も変えず。変えたのはメニュー。元あった肴に加え大幅にメニューを拡充した。

刺身五点盛り。左から赤身、脳天、ハマチ、ヒラメ、イカ
先代から引き継いだねぎぬた
酸味が良い具合のポテトサラダ

 その日は、煮込のほかに、見事な刺し盛りを注文し、思い切り迷い箸をしてしまった。こんもりと丸く盛られたポテトサラダは、ねっちりとコクがあるのに、酸味が良い具合で飽きさせない。煮込の汁とこっそり和えたら、これまた絶妙だった。そして春巻は、食べてからのお楽しみのアン。カレーコロッケはというと、なんだか懐かしくて、かといってノスタルジーが包含する哀しみはなくサッパリしていて、二口食べたら小学校時代の友人に電話したくなった。

春巻き
ドラマで山田がぱくぱく食べたカレーコロッケ
地酒のメニューも豊富。もっきりに注いでくれる

 酒も品揃えが劇的に増えたから、いろいろと選べる。かつてはお酒と、焼酎もお湯割とウーロンハイ、レモンサワー、梅サワーにビールくらいしかなかったが、今はどっさりと各地の地酒を用意している。これを見事にもっきりに注いでくれる。その日は、たしか三合か四合いって、あとはビールを何杯か。ほかにはレモンサワーに、あとは珍しく甘いザクロなんとかという割りモノなどもやってしまって、もう覚えていない。軽く記憶を失うのは、良い酒を呑んだ証拠だ。ですよね?
 
 そして、今、蔦八は口開けから間も無くして席がいっぱいになる繁盛店になった。でも、店の纏っていた、あの渋くてしみじみとさせる心地良さは全然変わっていない。変わったのは、そんな渋みとしみじみとを邪魔しないくらいの熱気、活気、精気。かつての蔦八はコの字酒場ながら、ほとんどカウンター越しの会話なんて成立しなかったけれど、いまは違う。お馴染みの顔同士があいさつをかわしたり、若いカップルが斜め前の常連から旨い肴の指南を受けたり。その日、私の向こう岸にいたお客さんは、会計をすませてガラスの格子戸越しに手を振ってくれた(店にいる間はそんな素振りまったくなかった。粋だねえ)。良き距離感が、そこかしこにあふれている。

魔の一膳、とうめし

 さんざん呑んで食ったその日、最後の最後に迷った。
 この店には「とうめし」という名物がある。煮込の汁かけ飯に、豆腐をどーんとのせた、それはおそろしく旨くて、たとえ満腹でもおかわりしたくなる魔の一膳である。煮汁が米粒にしみたところに、これまた煮込の旨味を目一杯吸い込んだ豆腐を崩しながら頬張ると、たいがいの嫌なことを忘れてしまう。そんな一杯だから、一度これを知ってしまうと本来〆の一品のはずが最初から食べたくなるし、ほんとうは、その日も食べたかったが、すでにかなりお腹はいっぱいだったし、最近は愛される健やかな飲兵衛を目指しているので、かなり逡巡した挙句、我慢した。かつては、次に来たときにやっているかどうか心配だった蔦八だが、いまは違う。安心して、また来ますと、告げて店をあとにした。

安心して、また来ます
大森「蔦八」
住所:東京都大田区大森北1-35-8
*店情報は掲載時のものです。

加藤ジャンプ(かとう・じゃんぷ)
文筆家。1971年生まれ、東京都出身。東南アジアと横浜育ち。一橋大学大学院法学研究科修士課程修了。出版社勤務を経てフリーに。著書に『コの字酒場はワンダーランド』(六耀社)、『小辞譚~辞書をめぐる10の掌編小説~』(猿江商會)、『今夜はコの字で 完全版』(集英社文庫)などがある。コの字酒場探検家、ポテトサラダ探求家。これまでに訪れたコの字酒場は数百軒。
Twitter @katojump
【HP】katojump.wixsite.com/katojump

イラスト/タカヤス
1977年生まれ、東京都品川区出身。2014年、小学館「第1回ビッグコミックオリジナル新作賞」で佳作。16年に土山プロダクションに入社し、現在はさいとうプロダクションに所属。
Twitter @takayasu0804

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