コの四 小岩「一力」 加藤ジャンプ「今夜はコの字で~全国コの字酒場漂流記~」
リトルロック・イズ・ライク・ア・パラダイス
そのコの字酒場はリトルロックこと東京都江戸川区小岩にある。ドラマ『今夜はコの字で Season2』の第5話に登場するコの字酒場・一力である。
一力の最寄駅はJR総武線の小岩駅である。この駅は改札を出るとすぐにお相撲さんの小さな銅像が迎えてくれる。小岩出身の昭和の名横綱・栃錦(第44代)の銅像である。お相撲さんの銅像だが、大きさは柴犬くらいでコンパクトだ。髷や化粧まわしのディテールも細かい立派な銅像で、夜中、誰もいなくなった構内で土俵入りしていそうなくらいリアルだ。
で、小岩っ子の初デートはやっぱり
「日曜の11時に栃錦前でね」
なんて待ち合わせの約束をかわすのだろうか。化粧まわし側で待ち合わせると恋が成就するけど、お尻側ではダメみたいな話は聞いたことはないが、こんな銅像前で待ち合わせができて小岩っ子が羨ましい。
今回目指す一力は、JR小岩駅南口からのびる、昭和通り商店街を歩いた先にある。
この駅のまわりには昭和通りのほかにも、フラワーロード、サンロード、地蔵通りといった商店街がたくさんある。どの商店街も魅力的な店だらけだ。金物屋さん、八百屋さん、肉屋さん、魚屋さんといった小売店。昭和の名残り色濃い喫茶店。本場の人だらけの中華料理店。もちろん、酒場もたくさんある。焼き鳥やモツ焼きの店は選びたい放題だ。リトルロック・イズ・ライク・ア・パラダイス。小岩は総武線で行ける楽園なのである。
そうした魅惑的な商店にまぎれて時々古い立派な家がある。太平洋戦争で江戸川区は焦土と化したのだが、小岩駅前近辺はあまり被害がなかったらしい。ところが、空襲は免れたのに、戦後の昭和31年、隣のJR新小岩駅のすぐ近くに米軍機が墜落する事故があった。編集者のKさんと、一力までの道すがら、そんな話をした。酒場は平和あってこそ。
駅を出てからおおよそ5分。突然目の前に、脳内の複雑な血管みたいな形をした五叉路が現れる。同時にすぐ目の前に、太い筆文字の看板が目に飛び込んでくる。そこが一力である。その日はあいにく雨模様だった。そぼふる雨のなか、看板の真下にある焼き台からあがる煙。これ以上の風情があるだろうか。湯煙や鍋からたちのぼる湯気も素敵だが、炭火の焼き台の煙は、ターナーの風景画よりも心に染み入る。そしてBGMはELOのRain is Fallingがよく似合う。
「逆コの字」型のカウンター
一力のコの字カウンターは、ふつうのカウンターとはちょっと違った位置に設置されている。コの字の両端が店の一番外側にあり、中央の一辺は奥にある。いわば「逆コの字」型だ。「今夜はコの字で Season2」でも、浅香航大さん演じる吉岡が「珍しいな」と驚く。
店の壁には、ブタの部位の図解があって、伺うたびに眺めては憶えた気になるのだが、すぐ忘れる。この図解を見て、吉岡の後輩・池ハルカはモツを選ぶ。演じた優希美青さんがパクッといったコブクロ、実に旨そうだった。
その日は入口を入ってすぐのところにある席に案内されて座った。焼き台は目の前。相撲なら砂被りの特等席である(駅にある銅像のせいで頭が相撲一色、ごめんなさい)。
「今日は雨だからヒマだろうなあ」
焼き台に立っている店主の鈴木順二さんことジュンさんが言った。
ちょっとジョン・レノンっぽい丸メガネが、たぶん小岩エリアでいちばん似合う。ジュン・レノンである。きりっとしていたり、華麗だったり、カウンターの内側での佇まいはいろんなスタイルがあるけれど、ジュンさんの所作には、ハンサムという言葉が似合う。炭をいじったり、串を裏返したり、タレをつけたり。そういう仕草が、どれもハンサム。ドラマでもご本人役を演じたが、いつものあっさりした雰囲気そのままで最高だった。こういうことを面と向かって言ったら、ジュンさんはきっと笑うだけだろう。そして
「つぎ、なんにしようか」
と歯切れのいい口調で聞いてくるはずだ。そういうところが、またハンサムなのだ。そんなジュンさんは、いつも、焼き台の前を往来する顔なじみに声をかけている。そしてジュンさんに声をかける人がいる。挨拶はひっきりなしだから、そのうち小岩中が知り合いなんじゃないかと思えてくる。
これだけ町のなかで愛される店になったのは、なによりここのモツが旨いからだろう。
たとえばカシラは国宝だ。
パクッとやると、ジュワッと肉汁と旨い脂があふれだす。飲兵衛はたいがい甘いのが苦手だけれど、ここのカシラの脂の甘味は、地上の全飲兵衛が降参する絶妙な甘さとコクがある。くさみはゼロ、焼き台でジュンさんが至妙の焼き加減に仕上げてくれて、余計な脂は落ちて旨いところだけになっている。そこに伝来のタレがかかれば、無敵だ。とろけて串から落ちそうな雰囲気だが、それでいてしっかりとした塊感も維持している。口にいれたらとける。パクジュワである。食べたら食べただけ50代のカサカサお肌が潤う。旨い。
モツも旨いが、ほかの肴も良い。ポテトサラダなんて他では見たことがないスタイルだ。厨房担当でジュンさんの実兄である鈴木武明さんが作る。
ポテサラと言ったら滑らかマッシュポテト型か荒潰しゴロゴロ型かで論争になりがちだ。間隙を縫って丸ごとの茹でジャガイモを客に潰させるというのもあるが、一力はまた一味違う。薄切りの茹でジャガイモにマヨネーズが添えられている(漫画を描いてくれていた土山しげるさんだったら、きっとヒクソン・グレイシーと戦ったときの船木誠勝みたいな着流し姿の男が、刀でポテトを斬るシーンを描いたんじゃないかと妄想してニヤニヤしてしまった)。あとはトマトに大根にレタスに半分に切ったゆで卵。これだけ。ギリギリまで削ぎ落としたサムライのポテサラである。私はこれを思い切って潰して食べる。躊躇いを捨ててジャガイモとゆで卵を潰すとき、一瞬あたりの音が聞こえなくなる。そのまま食べても旨いが、こっそりモツ焼きのタレをつけながら食べるとまた素晴らしい。勝手なことをしてごめんなさいジュンさん。
件のタレは当然長年継ぎ足してきたものだ。パン屋を経営していた父と、北口にあるモツ焼きの名店出身の母が結婚して開いたこの店は創業63年。かつてはもう少し駅の近くにあったが、40年ほど前にここに移転した。
ジュンさんが、一力で働くようになったのは高校を卒業してすぐのことだった。
「継ごうなんて思ってなかったんだけど、家を出てコレ(もちろん小指が立っていた)と結婚したくて、店も継ぐよ、と言ったんだよね」
と笑う。お連れ合いと一緒になり、最初は焼き台には立たず厨房にいた。そのころは、モツ焼きを焼くなんて思ってもなかったらしい。
「接客なんて大嫌いだったんだよ」
なんて、今のジュンさんからは想像もつかないようなことを言う。なにしろ、客にやさしい。
「今日はジャンプさんが座ってる席ね、初めて来た人にも、なるべくこの席に座ってもらうの」
といって、我々の座っている席と向かい側の席をちらっと見やった。
「こういう店だと注文しずらいところもあるでしょ。それにおしゃべりしたくても、なかなかできないじゃない。ここなら俺が話しかけられるし、そうすっとだんだん調子が出てきて楽しめるからさ」
気遣いの天使。みんな惚れるぞ、こりゃ。ちなみに昔を知るご常連によれば、実際、ずいぶんモテたらしい。
「もう熱いの我慢できませーん」
「お、ひさしぶり。元気になった?」
ジュンさんがまた街行く人に声をかけた。見ると浴衣にロン毛の若者。力士である。小岩にある相撲部屋、田子ノ浦部屋の力士・応時山さんだった。ジュンさんが「元気になった?」と声をかけたのには理由があった。田子ノ浦部屋はコロナ感染で所属する全力士がその時開催されていた名古屋場所を休場していたのだ。なんて時代なのだろうか。
応時山さんは持ち帰りのモツを注文しに来たのだった。待っている間、何本か食べている。大きくて立派な一力の串が、力士の手の中だと、グリーンピースの串刺しくらいに見える。外はまだ雨。ジュンさんは雨だから今日はお客さんなんていない、と言っていたが、気づいたら店はいっぱいになっている。一力に行かないと一日が終わらない人が大勢いるのだろう。それはジュンさんに会いに来ているのとほとんど同義だ。
「おおお、いらっしゃい」
ジュンさんの声がひときわ大きくなった。誰が来たのだろうと思ったら、「今夜はコの字で Season2」の一力でのエピソードを監督した若林将平さんだった。こんなミラクルあるだろうか。それにしても、まだ明るい時間だというのに、若林監督、小岩で油を売ってる場合か……と思ったら、突然お仕事が早くあがってしまったらしい。飲兵衛はそれ以上詮索しない。実は若林さん、店で撮影して以来、すっかり一力に惚れこんでしまい時々来ているのだそうだ。また一人、コの字酒場の虜になってしまった。しめしめ。
けっこう呑んでいたので、もう帰ろうかと思っていたのだが、若林さんが来たのでまたモツを注文した。こんどはシロ。
これも傑作なのである。そのフワフワ加減、飲兵衛の綿菓子である。そのフワフワが舌のうえでジュワッととけると小脂と旨みの美味しい川になる。シロは液体、飲兵衛のカルピスである。
持ち帰りと店内の注文をさばくために、ジュンさんはずっと焼き台の前にいる。焼き台の前のジュンさんは、手袋をはめている。焼き台での作業、殊に手元は猛烈に熱い。だが以前はそんな過酷な作業を素手でぜんぶこなしていた。
5年前、ジュンさんは大病をわずらい、一力は半年以上休業した。
「みんな俺が死んだと思ってたんだよ」
と笑う。手袋をはめるようになったのも、病気をしてからだ。
「休む前は手の皮膚がすっかり固くなって慣れてたんだけど、休んでたらみんなもどっちゃった。もう熱いの我慢できませーん」
と笑ってみせる。
手袋をはめるようになったジュンさんだが、味は変わらない。むしろさらに旨くなっている気すらする。
けっきょく若林さんと編集者のKさんと一緒に、何合呑んだのだろうか。帰るまで雨はやまなかったけれど、コの字カウンターを囲む我々は、すっかりカラッとした気分になった。でも、やっぱり飲み過ぎて翌日はなかなかの二日酔いだった。