コの九 熱海「ちゅうしんの蔵」 加藤ジャンプ「今夜はコの字で~全国コの字酒場漂流記~」
飲食店に逆風が吹き荒れるなか船出したコの字酒場
高崎、松本と内陸がつづいた。だからというわけではないが、次のコの字酒場は海ぞいの静岡県は熱海なのである。私が住む横浜の郊外からだと新幹線こだま号で30分もかからない。自宅から北千住のコの字酒場に行くより早い。ちなみにひかり号は熱海駅に停まらない列車もあるので注意しないといけない。
最後に熱海に行ったのは、友人の結婚式だった。会場で20歳くらい年上のイカした友人と再会し、したたか呑んで結婚式の記憶全体に、ぼんやり霧がかかったようになってしまった。その前は、あの水上にそびえるホテルニューアカオ(現在はHOTEL AKAO)に泊まって"湯けむりゴルファー"みたいなルポを書いたときだった。その時は街のスナックをハシゴした。何軒目かの半地下の店でOasisのWhateverを熱唱したら、私より三十くらい年上のご婦人が
「この歌、ずっと英語なのねえ」
とコメントしてくれた。それから先の記憶は無い。気づいたらホテルのベッドの上にいた。同行したフォトグラファーも編集者も皆、行き倒れスタイルで寝ていた。私は、どこで買ったのか柿の種を撒き散らして寝てしまったらしく、腕やら顔にびっしりと柿の種が付着していて、フジツボが寄生したクジラのようになっていた。その前に熱海を訪れたときも泥酔した。その前も。たぶん熱海は安心して泥酔させてくれる街なのである。つまり良い街なのだ。
熱海にコの字酒場ができた、と聞いたのはどこだったのか記憶していない。たぶんどこかの店で酔っ払って、お客さんから聞いたのだと思う。いつものことである。何度も熱海には行ったことがあるし、そのたびに鯨飲してきたのにコの字酒場に出会うことがなかった。それが、このコロナ禍に一軒開いたというのである。飲食店に逆風が吹き荒れるなか船出したコの字酒場。行かないわけにはいかない。
訪問当日、新幹線こだま号に乗り込む前、新横浜駅の売店で缶ビールたちが一斉に秋波を送るのでまごついてしまった。ちょっと暑い日だった。乗車してすぐに350ml缶の麦スカッシュで喉を潤したら、どれだけ心地いいだろうか。
ニコニコしながら売店の冷蔵庫の缶から旅のお供を選んでいると、携帯が震えた。「原稿をそろそろ」という非常に真っ当な内容のLINEが一通届いたのだ。私はにわかに正気を取り戻した。350ml缶を諦めた私は、ジャスミン茶の500mlのペットボトルを買い売店を後にし、ホームに滑り込んできた新幹線にすごすごと乗り込んだ。久しぶりに東海道新幹線の下りの二人がけの窓側シート、富士山が見える席だったが、熱海下車なので新幹線の大パノラマを見る前に降りる。車内でiPadをいじって件の原稿を送ったらもうすぐに熱海だった。
ホームに降り立って同じ新幹線に乗っているはずの編集者のKさんを探したが見当たらなかった。売店があったのでいろいろのぞいていると、Kさんが現れた。
一人で買い物をしているときに誰かに会うとあたふたしてしまう。欲望を覗かれるような気がするからかもしれない。Kさんと会ったとき、私の頭の中はワサビ漬けのことで一杯だった。そういえば最近の若い人はワサビを食べないと仄聞した。ポテトチップスのわさビーフはどうなのだろうか? 私は両方大好きである。
熱海駅の改札を出て表へ出ると、いつも目に飛び込んでくるのが「五月みどりの店」の看板である。あれを見ると、ああ熱海に来たなあと思うものだ。お名前のとおり、看板も緑色で、それもカマキリ色っぽいところが良い。
目的のコの字酒場が開くまで、だいぶ時間があったので、Kさんと熱海駅からゆっくり散歩しながら店に向かうことにした。
熱海駅を出てアーケードを抜ける。初めて熱海に来たのはたぶん6つくらいの頃だ。だから40数年、この町には時々やってきているが、ずいぶん様子が変わった気がする。今回も発見がいろいろあった。途中でやけに洒落た焼き菓子の店があって足がとまった。それからプリンか何かの店の行列の脇をぬけ、長い坂道をくだる途中、柴犬がいる立ち飲みスタンドがあった。干物屋さんの立ち飲みだという。その店の飼い犬なのだろう。かわいいのが路上に寝そべっていて、近づいたら一瞥をくれた。ハートが奪われた。
犬が人をちらっと見上げるときに見せる目に心を揺さぶられない飲兵衛がいるだろうか。ここで、しばらく君と一緒にいたい。頭は柴犬をツマミに呑む光景でいっぱいだった。されど、必死でふりきって店を目指した。熱海だから金色夜叉の貫一とお宮のように犬に縋りつかれるかと期待したが、犬はしごくあっさりと私を見送った。それで良い。
熱海は坂道の街である。目的の店は、その丘陵地の麓あたりに位置する。初川という全長3キロほどの川にそって飲食店が軒を連ねている。川沿いは植栽がたっぷりと緑を湛えていて見た目に心地良い。なかには薔薇なんかも植えてある。春先に来たら見事だろう、などとKさんと二人で老夫婦みたいな会話をしていたら、いきなり店が現れた。
「ちゅうしんの蔵」という店である。店自体は熱海市の別の場所で2005年に開業したが、その後2017年にこの場所に移転した。そのときはコの字酒場ではなかったが、2021年10月にコの字型カウンターだけの店として新装開店した。つい、こないだコの字になったばかいだ。もしも、ドラマ『今夜はコの字で season3』を製作することになってこの店を舞台にするなら、登場したコの字酒場のなかで歴代最も若い店ということになる。以前、恵子役の中村ゆりさんとseason2のロケ現場でお話ししたとき、
「温泉地のコの字酒場いいですよねえ。湯けむりコの字、ロケ楽しみ」
みたいなことを言っておられた。よし、がんばろう。
「ちゅうしんの蔵」つまり「忠臣蔵」なのか
間口はさほど広くない。引き戸をガラリと開けると、店内一杯のサイズのコの字型カウンターがどんと構えている。店内一杯といっても、コの字の三辺全部に客が入っても12人。小ぢんまりとしていて、飲み食いをはじめる前から心地良い雰囲気が漂っている。それにしてもなぜ熱海で「ちゅうしんの蔵」つまり「忠臣蔵」なのか。熱海と縁のある四十七士なんていただろうか。
店主の三宅大介さんは、首をひねりながら言った。
「もうだいぶ昔なんでよくおぼえていないんですけど、最初に店を出したのは、熱海のもう少し中心部だったんです。それで、その頃『世界の中心で、愛をさけぶ』が流行っていて、そのあたりにもちょっとのっかろうかと……」
忠臣蔵との関係を聞いたら
「全然関係ないです。そこは深い意味はないです」
と明言してくれた。最高ではないか。呑まずまずにいられなくなって、さっそく生ビールをいただいた。やけに旨い。そして気づいたら店のなかは一杯になっている。平日のまだ明るいうちから客がどんどんくる。しかも老若男女。しかも話の内容から察するに、観光客も地元の人もまざっている。誰からも愛されている。すごいコの字だ。
店には"五大おすすめ"がある。順番にこれをやることにした。
「黒大根」は店の自慢の魚の煮付けの煮汁をつかって真っ黒に煮た大根である。黒といっても褐色にわずかに飴色がかかったような、「旨い茶色」を煮詰めた黒である。太く立派な大根の芯まで染み込んだそれは、大根の甘みを一層ひきだすうえに、何度も継ぎ足してきた重曹的な煮汁の魚の出汁だからこその、クドくないコクにあふれている。キロ単位でいける。
「特製漬け刺し」はカンパチの漬け。もともとのカンパチのしゃきっとしながらいい具合に脂ののった身にうまく漬け汁が浸透し、濃厚なのに爽快な後味。漬けのうえにふられたゴマもいいアクセントをあたえてくれる。
五大おすすめのうち3つ目は炙りサバ。炙りサバ自体はよく見かけるメニューだけれど、ここのそれは、サバ自体もパンパンに身の張った質のいいサバを、焦げ目がしっかりつくくらいに炙ってある。このパリッとした皮と、品の良い脂一杯の身のじゅわっと口を喜ばす身質のコンビネーションが絶妙。ここまでにすでに日本酒にうつっていて、何合呑んだかよくわからなくなっていた。
忙しく働く三宅さんとスタッフさんの姿はカウンター越し、店の奥の厨房にある。すこし首をのばすと、その無駄のない動きがよく見える。コの字型カウンターに改装したのは
「コミュニケーションをとりつつ、基本的に店全体に一人の目が届くから、とても利便性も高いし、いいんですよねえ」
と三宅さんは言っていて、それは、その仕事の様子からもよくわかる。コの字酒場探検家として、同じようなことを言ってきたので、それが実証されているみたいでやけにうれしくなり、興奮してしまい五大おすすめ制覇の途中でマカロニサラダを注文してしまった。
ここのマカロニサラダはアルデンテを謳っているが、たしかにグイッと歯応えがあって旨い。世にあふれるフニャフニャ型マカロニサラダもあれはあれで旨いが、ここのそれは、熱海市がイタリアのサンレモと姉妹都市だけあって、本当にパスタのサラダという感じで、ものすごくイケる。これはビールと合わせたくなって日本酒の手を休めて、またビールをお願いしてしまった。もう、なにをどれだけ呑んだのかさっぱりわからない。鯨飲矢の如し。
つづいて五大のうち4つ目、「素揚げの手羽先」を注文。こいつは、また、いい色に揚がっていて、手羽先の皮のパリパリ感が食べる前からビンビンと伝わる仕上がり。一口目でパリっとジュワッとが二人三脚で舌の上を駆け回る。一噛みしたら、むらむらとレモンサワーが呑みたくてたまらなくなり、欲望に忠実に注文したら、これも店の名物の一つだった。ソルティードッグのように塩がコップのふちに散りばめられ、一緒にグイッとやる。爽快無比。
五大名物の5つ目の「牛トロトロ」は煮込みとポン酢の2種類あって、やっぱり両方いくことにした。すでにそれなりに呑んで満腹中枢なんてとっくに機能していない。馬食もいいところだ。
煮込みは、専門の煮込み屋なんじゃないかという完成度。出汁の良さ、トロトロといいつつ、ちゃんと歯応えもあって、プルプルとツルンとフワッとかが大家族のごとく同居する食感の万華鏡のような一品。これを酸味しっかりめのポン酢で食べるのがポン酢版で、こちらは、さっぱりしている分、さらに大量に食べたくなった。もうなにからなにまで旨い。
経験豊かな一年生
一息ついた三宅さんに、旨い旨いと伝えると、三宅さんは
「ぜんぶこだわってるんですけど、ぜんぶって言っちゃうとアレですもんねえ」
と、ユーモラスにこたえる。そして、カウンターを見回して言った。
「なんか、その、まだ店が小綺麗な状態なんですよねえ。味が欲しいんですけど、時間かけないと出ないですもんねえ」
困ったような、その実、全然困っていないような、良い意味においてのみ、掴みどころのない口ぶりで話す。ほんとに、たまらない。
たしかに、昔のコの字酒場みたいな、有無を言わせぬツヤツヤの檜のカウンターと年季の入ったメニュー札みたいな迫力とは無縁の店内だけれど、行く末が恐ろしいくらいに、これからの熟成っぷりを期待させるディテールにあふれている。コの字に並ぶ顔も、ちょうど顔の上半分が自然に見えるくらいの高さ。口元を気にせずバリバリ食べられるけれど、目元がちゃんと見える。これが良いのだ。首をのばせば顔がしっかり見えて、カウンター越しの乾杯もちゃんとできる。
カウンターのせりあがった部分には、小綺麗な青いタイル風の装飾がある。熱海市はイタリアのサンレモと姉妹都市なんだから、このくらい洒落てても当然なのである。焼き場がコの字の真ん中の辺にあったらいいと三宅さんは言うが、たしかに、そうだ。そこはおいおいやっていくのだろう。
三宅さんは、この店を、まだ若過ぎるコの字酒場のように紹介するが、店自体の歴史はすでに17年ある。たとえれば、40代になって大学に社会人入学した元サラリーマンみたいな、経験豊かな一年生なのである。新しいのに、隠しきれない味があふれている。
三宅さんは父親が料理人で、熱海の料理屋で長く板前を勤めていた。そういう環境に育ったから、自然にこの商売を始めたのかと思ったら、大学を出て大きな病院の事務職についていたという。それが3年ほど経って、やっぱり店を始めたいと思いたち、東京の飲食店で修行。28歳の若さで、熱海の、今とは別の場所で「ちゅうしんの蔵」を開いた。開業にあたって同業の父親にはいろいろ相談したのかというと、
「事後報告です。あ、店やるから、みたいな」
と、そこもまたオフビートなノリなのであった。実は同じ熱海に「おやじの蔵」という店がある。名前が似ているが、三宅さんの両親の店だ。「おやじの蔵」というので、てっきりそちらが先に開業したのかと思ったら
「そっちが出来たのは、わりと最近なんです」
という。三宅さんの店の系列店にあたるという。お父さんは
「シャチョー、とかって、なんか、いじってくるんですよねえ」
と、困惑したような嬉しいような顔を見せる。
このコの字が家の近くだったら確実に日参している。されど新幹線で30分くらいとはいえ、それでも熱海にはそうそうホイホイは来ないので、ここを先途とさらに、砂肝の素揚げや馬刺しに餃子と、どうかしているのではないかという勢いで平らげた。素揚げも馬刺しもおそろしいほどに酒が進む罪な品だったが、餃子がまた白眉。不思議なくらい日本酒にあう、あっさりして軽いのに、全体の印象は間違いなく刺激的な餃子なのである。そして、なにより驚きだったのは、ここまで散々飲み食いしながら、ちっともモタレていないことだった。三宅さん、魔法使いかもしれない。すっとぼけた魔法使いなんて、いちばんコワイが、いちばん頼りになる。
帰り際にこの先のことを聞いたら
「維持していくのが大事ですからねえ。一品一品丁寧につくって、美味しいって言ってもらうためにがんばって」
と、それまでのユーモラスな受け答えとは違って、直球で大切な事を教えてくれた。この緩急、このギャップ。それをコの字型カウンターで眺める。最高の舞台ではないか。熱海には、このコの字酒場にいくためだけに行ってもいい。