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本能寺の変のスピンオフだった「家康の伊賀越え」【第2回】黒澤はゆま

「伊賀越え」これを知るためには、まずは「織田信長」と「本能寺の変」を紹介せねばなりません。
なぜ、家康は険しい山道を通って本拠地・三河岡崎に逃げ帰ったのか?
*画像は『絵本太閤記』の本能寺の変の場面(国立国会図書館蔵)。

■家康最大の危機、伊賀越えとは?

長年、戦国の革新児と崇め奉られてきた織田信長だが、どうもこれは大陸的な、強烈な個性を持った英雄を欲しいという、日本人のないものねだりだったようだ。
近年の研究では、むしろその保守的な性格の方が浮き彫りになっている。

私的には彼はどうも「ちゃんとしようよ」という気持ちの強すぎる人だったように思う。それは、家臣や同盟仲間に対してもそうだし、幕府や朝廷、寺院といった組織に対してもそうだった。ひょっとしたら、天下や世界といった、抽象概念に対してもそういう気持ちを抱いていたのかもしれない。

「ちゃんと」を、そのありあまる才能にあかして、世間に押し付け回ったのが、彼の一生だった。比叡山の焼き討ちにせよ、足利義昭に出した「十七箇条意見書」にせよ、佐久間信盛に突き付けた「十九ヶ条の折檻状」にせよ、皆、彼の「ちゃんと」が暴走した結果である。

ただ、彼が、自分の「ちゃんと」について、誰か第三者に事細かく説明した形跡はない。
不思議なことに、知ってて当然と考えていたようなのである。
信長からしたら、「ちゃんと」にはそれなりの思想と理屈がある。だが、押し付けられた側からしたら、気ままで無原則なものに見え、ついには無神経さに、我慢ならなくなる。
足利義昭、浅井長政、荒木村重、松永久秀。
皆、同じ理由で信長を見限ったもののように思う。

明智光秀は、家臣団のなかで信長の「ちゃんと」に最も上手に適応できた武将だったはずだが、長年の歪みか、何かのはずみか、魔が差したのか、あるいはそのすべてか、ついに爆発する時が来た。

天正10年6月2日(1582年6月21日)の本能寺の変である。

この事変で、信長だけでなく、その嫡男の信忠も死亡した。天下統一直前だった織田政権は完全に崩壊。近畿はあっという間に、戦乱の巷に逆戻りした。
割りを食ったのは、信長から長年の骨折りの慰労ということで上方に招待され、のんびり堺見物していた徳川家康である。

さぁ、もう数手で詰みだと思っていたのが、いきなり盤面ごとひっくり返された。周りすべてが一瞬で敵地に変わったのだ。
諸説あるが、家康が本能寺の変を知ったのは、かつての天下人、三好長慶が居城にしていた飯盛山(いいもりやま)西麓であったという。本多忠勝あるいは茶屋四郎次郎から、信長の横死を聞いた家康は、一時は絶望し、京の知恩院に入り、切腹するとまで口走った。

しかし、忠勝必死の説得で翻意すると、河内、山城、近江、伊賀、伊勢、4か国の山中を突破して、三河に帰国することを決意する。

世に名高い「神君伊賀越え」の始まりである。

■伊賀越え出来るかな?

伊賀越えは未だ不明なことが多く、本や記事によって、経路もかかった日数についてもバラバラだが、家康の通ったといわれる主要な地点はほぼ共通している。

map_家康の伊賀越え

1) 飯盛山西麓(河内)
2) 尊延寺(河内)
3) 普賢寺谷(山城)
4) 草内渡(山城)
5) 山口城(山城)
6) 遍照院(山城)
7) 裏白峠(山城~近江)
8) 小川城(近江)
9) 音羽(伊賀)
10) 徳永寺(伊賀)
11) 加太峠(伊賀~伊勢)
12) 瑞光寺(伊勢)
13) 白子(伊勢)

白子の後は海路になるので割愛するが、家康はこのルートを最短の説で2日、最長で5日で駆け抜けている。
最も代表的な説は2泊3日である。
私もそれにあやかり、このルートを3日かけて、踏破してみようと思う。公共機関はなるべく使わず、歩きでである。

そして、食料は兵糧丸を主に、干し飯芋がら縄、梅干しなど、戦国時代に食べられたもののみで行く。
アウトドアの経験は全くないが、きっと出来る。出来ると思う。出来るんじゃないかな。出来たらいいなぁ。

旅行はそれそのものより、準備の方が楽しかったりするが、あれこれ持っていくものを考えた結果、以下の装備で行くことにした。
兵糧丸、干し飯、梅干しを収めたジップロック、寝袋、3日分の下着、バッテリー2個、携帯コンロのジェットボイル、絆創膏に消毒薬、携帯蚊取り線香、キンドル、スマホ、筆記用具、手帳、レインウェア、トレッキングポール。
歩行距離や消費カロリーの記録を取る必要があるため、腕時計はフィットビットのスマートウォッチ。
靴はコロンビアの登山靴。
残暑が厳しいので本当は半そで半ズボンで行きたいのだが、どんな道を歩くことになるか分からないので、上はモンベルのロングTシャツ、下は同じくモンベルのタイツに、半ズボンを重ね履き。

後は天気だけだが、大阪、京都、滋賀、三重が3日連続で晴天が続く日を待っていると、ついにその日がやって来たのだった。

(第2回:本能寺の変のスピンオフだった「家康の伊賀越え」了)

【著者プロフィール】
黒澤はゆま(くろさわ・はゆま)
歴史小説家。1979年、宮崎県生まれ。著者に『戦国、まずい飯!』(集英社インターナショナル)、『劉邦の宦官』(双葉社)、『九度山秘録』(河出書房新社))、『なぜ闘う男は少年が好きなのか』(KKベストセラーズ)がある。好きなものは酒と猫。

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「資料をとことん漁り、再現して、実食する、その執念がスゴイ!」と話題の書『戦国、まずい飯!』(弊社刊)。 そのスピンオフとして、 著者の歴史小説家・黒澤はゆまさんが、“家康の伊賀越え”に挑みます。 2泊3日、およそ200キロの道程に持っていくのは、もちろん「戦国のまずい飯」。 1粒食べれば3日元気な(はずの)兵糧丸(ひょうろうがん)に干飯(ほしいい)、芋がら縄、梅干しなどを携えての珍紀行です。 果たしてこの試みは成功するのでしょうか? ぜひ、フォローをお願いします。 毎週金曜日更新予定です。

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