第12回「人の見た目」よりも「社会の見た目」(前編)
なぜ人は教科書の偉人の顔に落書きするのか
写真や映像として切り取られた顔に対して、人はどうも無頓着になりがちです。
子ども時代、教科書に出ている著名人の顔写真にいたずら書きをした人は少なくないでしょう。街角に貼られた選挙のポスターの顔に対して、まるで「品評会」のように無責任な批評を言ったりするのも、子ども時代の「あるある」です。
現代の私たちは「印刷された顔」と幼い頃からそんな調子で付き合ってきているのですから、テレビや新聞や雑誌に出ている顔も、当然軽く扱われてしまいがちです。
本来、人間にとって顔は容姿の中でも重要な部分。中でも自分の顔について無頓着な人はほとんどいないのではないでしょうか。鏡を見ては「もうちょっと鼻が高ければ」とか「目じりの部分が垂れているのは気になる」などと、あれこれ悩んでしまうのは珍しくないことです。
自分の顔写真に、ふざけたいたずら書きをして遊ぶ人はそんなにいないでしょう。それだけ、本人にとって「自分の顔」は重要なもの、慎重に扱うべきものだとされているのです。
また、家族やきょうだい友達といった、その人にとって大切な人の顔写真も丁寧に、慎重に扱われます。
ちゃんとした統計があるわけではないですが、親や家族の顔写真に落書きをして、面白がるという人はそんなにないはずです(テレビや映画などで、そういうシーンを見かけたことはあるでしょうか)。
なのに、他人の顔はまるでオモチャのように扱って平気です。これは不思議な現象だと思いませんか? ことにその傾向は印刷された顔写真や、PCやスマホに表示された顔写真で顕著です。
「顔」だけが切り取られ、流通するSNS時代
その理由の一つとしては、顔写真の普及が人類の長い歴史の中で、つい最近、つまり20世紀に入ったころのことで、歴史が短いということが関係あると思われます。
写真が普及しはじめた19世紀の後半あたりから20世紀初頭にかけて、「写真に姿を撮られると魂まで抜き取られてしまう」という迷信が日本でも流行ったそうです。その発想自体は非科学的ですが、写真という媒体に自分の姿が投影され、しかも自分の知らないところで拡散され独り歩きすることが、どことなく空恐ろしくて薄気味悪いという、そんな直感的印象を良くとらえている、「正しい考え」のような気もします。
20世紀初頭とは違って、今や写真はもっと簡単に、しかも安く複製して拡散できるものです。デジタル写真に至っては、いくらでもコピーを作って知り合いにメールなどで配れるものです。だから、多少、ふざけた扱いをしてもかまわないという「常識」が生まれたのでしょう。
さらにその写真を顔だけ切り取ってしまうと、その人の姿全体を撮影した肖像写真とは違って、それは一種の記号のようなものになってしまうのではないでしょうか。つまり、顔写真(SNSのアイコンなどもそうですね)は目印のようなものだから、加工したり、オモチャにしてもいいという感じになるのではないでしょうか。
でも、これは考えてみたら困った傾向でもあります。
写真という形で身体から切り離された「顔」が、単なる記号や目印になってしまい、そこに人格、人間性といった「内面性」を感じなくなっているとすれば、そこで注目されるのは単純にハンサムかそうでないか、美人かそうでないかという外面的なことだけになってしまいます。
顔の話題は取扱注意
アイドルはまさにその典型で、私たちはまず顔に注目して、そのルック(見た目)でファンになるかどうかを決めたりします。アイドルの内面性に惹かれたからファンになったという人は、ごく少数ではないでしょうか。
思春期のころ、自分の見た目が気になって気になってしょうがないのも、周囲の人たちが(いや自分自身も)顔の美醜にしか着目していないと感じているからでしょう。
もちろん、顔の役割はそれだけではありません。美醜だけで人生が決まるのであれば、整形をしてしまえばいいわけだから、むしろ話は単純です。しかし、自分の顔というのはもっとその人にとって重要なもの、愛着のあるもの。気に入らないから「交換」してしまえばいいというものではありません。
でも、その一方でやっぱり、自分の顔が美しいか、整っているかというのも気になる。そこが厄介です。
他人の顔については「鼻が低いわよね」とか「目元がちょっと残念よねぇ」みたいに無責任な批評が言えても、それが自分の顔の話になると、自意識がむらむらとわきあがって、鏡を眺めながら「もうちょっと目が……」「鼻がもう少し高ければなぁ」などと、あれこれと悩みを抱えるわけですから現金なものです。
それだけ、顔の話題は「取扱注意」ということです。別に悪意があって言っているわけではないことであっても、言われた本人はものすごく気になる──顔の話は身長の高低や、スタイルのことを言われるよりも、心をかき乱します。
「無意識の偏見」の怖さ
私自身、顔をテーマにした文章を書くときはいつも心の片隅で、見た目に比重を置きすぎていないか、単純化して話をしていないか、気にしています。
しかし、いくら気を遣っても、こうした話題はひじょうに扱いにくいものです。
なぜなら「アンコンシャス・バイアス(無意識の偏見)」から自由な人はいないからです。
「アンコンシャス・バイアス(無意識の偏見)」とは、「ステレオタイプ」の派生版です。
「ステレオタイプ」という言葉は、ご存じの方も多いでしょう。たとえば「女性は方向音痴」「関西人はお笑い好きでおしゃべり」、あるいは「A型は生真面目で、B型はいいかげん」といった、一種の決めつけですね。
きちんと調べて見るとそんな傾向は証明できないのに、私たちは個人的な経験を元にして、世の中を単純に区分けして見がちです。私自身、血液型がB型なので、それを言って「ははあ、なるほど!」とにやにや顔で言われたりすると、何を勝手に人の性格を解釈しているのだと、腹立たしくなることも多々ありました。
言う側は、半ば冗談であったとしても、ステレオタイプで決めつけられると、言われた側は迷惑に感じるし、傷ついたりもします。
こうしたステレオタイプなモノの見方は、私たちの暮らしのあちこちに根を下ろしているのですが、あまりにも昔から定着しているがゆえに、それがステレオタイプであるということさえ意識されず、人の生き方や態度まで決めつけること(私が血液型判断に腹をたてたのも、ここでした)を「アンコンシャス・バイアス」(無意識の偏見)と心理学では呼びます。
その最たるものが男性・女性の「役割分担」という偏見です。
今でもはびこる「料理を作る人=女性」という偏見
1975年、あるコマーシャルのキャッチコピー「私作る人、僕食べる人」が社会問題となりました。
これは「アンコンシャス・バイアス」をめぐる議論の中でも、かなり早い時期のものだと言えるでしょう。
そのコマーシャルは〈ラーメンの置かれたテーブルの前で、女性が「私作る人」と言い、続いて男性が「僕食べる人」と言うもの〉(Wikipediaより)という演出がなされていて、男性と女性の役割が固定的に描かれていたので、今風に言うならば「炎上」したのです。
結局、このCMは放映から約2ヶ月でオンエアされなくなりましたが、しかし、それから半世紀近く経った今日でも、この種のアンコンシャス・バイアスはよく見かけられます。
ことに芸能人やセレブの結婚記者会見などで、「新婦の得意料理は何ですか」などといった質問が今でも当然のようになされます。そして、その映像に対して「この質問は『女性イコール料理をする人』という偏見に基づいていますね」と批判するコメンテーターを見かけたことは、少なくとも私はありません。
そんなことを言うのは、「おめでたい話」に水を差すようなもので、お祝いの気持ちを台無しにするものだという意見も分かりますが、しかし、プライベートな場であればともかく、公共の放送などでそのやりとりをわざわざ切り取って報じるのは、時代錯誤に感じてしまいます。
日本の洗剤CMに外国人が違和感を覚えるわけ
アンコンシャス・バイアスは何も言葉によって表現されるものばかりではありません。視覚的な表現の中にも、こうした無意識の偏見が忍び込んでいる例は少なくありません。しかも、言葉による表現であれば、受け手の側も「これは変だぞ」と気がつきやすいのですが、言語化されていないものだと、意識しないうちにそうした偏見が入り込んでしまうので、しっかりと注意をする必要があるのです。
たとえば、日本の雑誌やCMで使われるモデルさん、タレントさんたちの大多数は、私たちと同じアジア人か、白人に限られていますが、欧米ではさまざまな肌の色、文化的背景を持ったモデルさんが起用されるのがスタンダードになりつつあります。
ことに日本の場合、問題と思うのは洗剤のコマーシャルの、かなり多くで白人モデルが使われている点です。洗剤の効果を強調したいために、肌の白いモデルを使っているのでしょうが、実は日本人以外の人の目から見ると、ひじょうに違和感を感じるものなのです(日本人が多様な肌の色に無頓着なのは、色鉛筆などで「肌色」が使われ続けてきたことにもあらわれるでしょう)。また、洗濯物を干すのがいつも女性というのも、いかにも無神経な感じです(この点は徐々に変わりつつあって、男性を起用するコマーシャルが増えているようですが)。
自分の見た目は気にしても、「社会の見た目」には気を遣わない日本人
ちなみに、海外展開している大手化粧品会社では、「美白」や「白い肌」という表現を避け、「ブライト」あるいは「明るい肌」という表現に変えています。「白い肌」イコール「美しい肌」の図式が問題なのは今さら説明するまでもないでしょう。
それはさておき、男性と女性の役割を暗黙のうちに決めつけてしまうジェンダー(性)・バイアスについて、さまざまな分野で修正の試みが行なわれているのはいいことですが、しかし残念なことに2020年代の今日でも、日本の大企業の経営陣はオジサンばかりですし、公正・平等な理念を掲げるべき大学でも、たいていの大学の学部長は男性が占めています。
そうした企業や大学のHPを見ると、オジサンたちの顔写真がずらり並んでいて、いささかげんなりする気持ちに駆られます。それはまるで「アンコンシャス・バイアス」の展示場のようです。
こういう様子を見てつくづく思うのは、「人間は『自分の見た目』をあんなに気にするのに、自分の属する社会の『見た目』には無頓着なのだなぁ」ということです。
山口真美(やまぐち・まさみ)
お茶の水女子大学大学院人間文化研究科人間発達学専攻修了後、ATR人間情報通信研究所・福島大学生涯学習教育研究センターを経て、中央大学文学部心理学研究室教授。博士(人文科学)。
日本赤ちゃん学会副理事長、日本顔学会、日本心理学会理事。新学術領域「トランスカルチャー状況下における顔身体学の構築―多文化をつなぐ顔と身体表現」のリーダーとして、縄文土器、古代ギリシャやローマの絵画や彫像、日本の中世の絵巻物などに描かれた顔や身体、しぐさについて、当時の人々の身体に対する考えを想像しながら学んでいる。近著に『自分の顔が好きですか? 「顔」の心理学』(岩波ジュニア新書)がある。
★山口真美研究室HP
★ベネッセ「たまひよ」HP(関連記事一覧)