伊賀越えチャレンジ!2日目は茶畑を抜け忍者の里伊賀へ【第4回】黒澤はゆま
不思議なことが起きた。
寝袋に入り、「ああ、疲れた。さぁ寝よう」とうんと伸びをしたその腕を下ろした時には、もう朝になっていたのだ。
疲れが極限の状態で寝るとこういうことになるのかと驚愕した。
寝た実感がまったくないのだが、体力が回復した気がしないでもない。
ただ、足は筋肉痛である。
天気は快晴。
9月なのに、行き遅れの蝉が盛んに合唱していた。
暑くなりそうである。
ああ嫌だと思ったが、出発するしかない。
兵糧丸を2個水で流し込んで朝食を済ませ、バスで昨日歩いたところまで戻った。
今日は、まず偏照院。
その後、裏白峠を越えて、甲賀信楽に入り、小川城に立ち寄る。
そして、神山を越えて、伊賀入りし、音羽経由で徳永寺まで行く予定だった。徳永寺の後は電車で伊賀上野に行きホテルで1泊である。
最初の目的地、偏照院までは約9キロ。国道307号線を西に進む。
が、暑い。
しかも無茶苦茶。
昨日、熱射病になりかけたことを思い出し、慌ててコンビニに立ち寄った。
何か熱射病予防のグッズはないかと探していたら「ウォータークールベルト」というものがあった。なんでも、水に濡らして首に巻くと、気化熱で体温を冷やしてくれるという。
これがなかなかの優れもので、以後の旅を随分助けてくれた。
頭は濡れタオルでガード。
なるべく日陰を選びながら進むようにした。
1時間ほど歩いた時だろうか。
道のわきに奇妙なものが干されているのを見つけた。
何かの毛皮のようである。
道の反対側を見ると、「野生いのしし ぼたんまつたけ」という看板がかかっていて、何やら細々と売り物を出している。
とたん造りの小さなお店だった。
とすると、毛皮はどうもイノシシのもののようである。
お店に入ってみると、おばあちゃんが一人店番をしていた。
私の姿を見て驚いたようで、
「あんた歩いてきたの?」
「はい」
と答えると、「はぁ~」と目を丸くした。
店のなかを見回すと、みかんが山盛りに売られていた。
兵糧丸を食べ出してから2日目。
ステーキとか寿司の類を食べたいという欲求は不思議とないのだが、新鮮な果物や野菜は無性に食べたくなることがあった。
「みかん」は現在一般的な温州ミカンの原型、紀州ミカンが日本に広まりだしたのが15 ~16世紀、ちょうど戦国期にあたる。
ギリギリ「戦国飯」に含んでもいいだろう。というかそういうことにしてください。
みかんを買うと、おばあちゃんがちょっと待っててと言うと、冷蔵庫から何やら取り出した。
「はい、これ飲んで頑張って」
バヤリースのオレンジジュースだった。
私のふるさとでもそうだが、何故、年寄りの冷蔵庫にはジュースがたくさん、それも果汁100パーセントではなく、化学甘味料たっぷりのものが入っているのだろうか。
戦国飯としては、アウトであるが、私はおばあちゃんの厚意に弱い。ついついご馳走になってしまった。
おばあちゃんと言えば、道中、奥山田の集落で、シルバーカーに腰かけたおばあちゃんに「ちょっとちょっと」と話しかけられた。
リスのように可愛らしい人で、これまたリスのような目をクリクリさせながら、
「どこから来たの?」
と聞かれたので、
「大阪から」
そう答えると、おばあちゃんは、
「まぁ、大変ねぇ。私も家にいたらつまんないでしょ。毎日、散歩するの。でも、年寄りだからすぐ疲れちゃう。だから、こうして休んでるの。あなたは元気でうらやましい。どこまで行くの?」
「三重まで、海を見に行こうとと思います」
何故、こんなロマンチックな答え方をしたのかが、自分でも分からない。
おばあちゃんはうれしそうに笑って、
「すごいわぁ。若いからどこまでだって行けるわね。あら、ごめんなさい。呼び止めてしまって。ありがとう。お元気で」
「はい、おばあさんもどうぞお達者で」
これまた、時代劇の旅人みたいな言葉遣いをしてしまった。
どうも旅の出会いは、人を詩人にするようである。
■偏照院でお茶をいただく
偏照院についたのは9時50分頃であった。
国道を見下ろす小さな集落を上り詰めた先に偏照院はあった。
お堂が一つあるだけの、つつましく愛らしいお寺だ。
写真を撮っていたら、
「お参りですか。どうぞ」
と住職が出てきて、お堂のなかに案内してくれた。
意外に立派な祭壇があり、傍らには仏像がたくさん置かれていた。
「小さな寺やけど、仏様がいっぱいでしょう。廃仏毀釈の時に、廻りの寺がかくまってくれって持って来たんです。でも、今日日、山奥の寺は維持するのも大変でね。まぁ、ゆっくり拝んでいってください」
住職は一度立ち去ったが、すぐ戻ってきて、
「出るときは戸を締めていってね。猿がいたずらしよるんや」
お堂のなかは空調もないのに涼しく心地よかった。
「少し休ませてもらいます」
仏様に向かってそう拝んだあと、タオルで汗をぬぐい、カチカチになった太ももをマッサージする。
汗が引いたころに、住職がまたやって来て、
「よければお茶をどうぞ」
そう言ってくれた。
お言葉に甘え、お堂の隣にある住職の家で、一服、ご馳走になりながら、今回の旅の趣旨を説明する。
「あぁ、それで来はったんですか。伊賀越えのこと調べようと訪ねてくる方は多いんですよ。前にもね……」
住職は大河ドラマの考証を担当したこともある、超有名な研究者の名前を一、二あげられた。
「家康さんはさすがに馬に乗ってたやろうけど、ここまで来るのは大変やったでしょうな。ろくな道も地図もなかったやろうし、地元のもんの案内がなかったら無理やったんちゃいます。おたくは地図は何見て来たんです?」
「スマホです。自分の位置も地図上に表示されるんですよ」
「便利なもんやねぇ」
住職は笑った。
「そんなもんないから家康さんたちは専らカン、それから人のつながりに頼るしかなかったでしょうな。えらいもんや。せやけど、あなたもご苦労様ですね。今日はどこから歩いて来たんです?」
「宇治田原の山口城からです」
「へぇ。大体距離はどれくらい?」
スマホに、フィットビットのログを映して見せた。確か、8.8キロと表示されていたと思う。
住職はそれを見ると、
「はぁ、本当に今は便利になったもんや。こんなことも分かるんか」
また、そうおかしそうに笑った。
■裏白峠を越える
住職と別れた後、裏白峠に向かう。
偏照院から峠までの道のりは、立派な歩道がついていて歩きやすい。
トンネルにまで歩道があった。
裏白峠が京都と近江の境界で、ここを越えるともう甲賀の信楽である。
伊賀越えのルートはどういうわけか茶所が多く、ここも道沿いに茶畑が広がっていた。
盛んな日差しを元気に跳ね返して、緑色が明るい。
だが、歩いている方はたまらない。
朝方はまだ木陰があったが、この頃から影が短くなり、太陽から身を隠す場所がなくなってきた。
背中をじりじり焼かれ続け、もう限界というところで、陽炎立つアスファルトのかなたに、木が1本立っているのを見つけた。ユダヤ教の聖典、タルムードに砂漠での旅の途中、木陰を作ってくれた木に感謝する話が残っているが、その気持ちがよく分かる。
登山靴を脱ぎ、服が汚れるのも構わず、寝ころんだ。
ログを見ると偏照院からもう8キロ歩いていた。
しかし、次の目的地、小川城まではまだあと4キロ。伊賀の音羽、徳永寺に至ってはさらにはるかかなたである。
暑さのため、ペースが目立って落ちている。
昨日ははやいときは1キロ12分台で歩いているのに、今日は1キロ20分を超えるのも珍しくない。
日が沈むまでに伊賀にたどりつけないかも……。
気は焦るが、足は乳酸で破裂しそうである。
ザックも重い。今日の宿はホテルなので、寝袋とジェットボイルはもう用済みなのだ。捨てたろかとも思うが、結構高いものだし、何より自然破壊だ。
とにかく進むしかない。
兵糧丸に梅干しを腹に詰め込むようにして食べ、「はぁ、どっこいしょ」と立ち上がった。
ここから小川城までの道が旅のなかでもっとも辛かった。
ものを考えると辛いので、足元の白線だけ見ながら歩く。
「これじゃいかん。景色も見ないと」
と時々思い直すのだが、すぐ目線は下がってしまう。
信楽は窯業が盛んな町で、窯焼きの薪がそちこちに積まれ、陶器のお店もたくさんある。大抵、たぬきの置物をディスプレイしているのだが、量が半端でなく、無数の「たんたんたぬきのキ〇タマ」が風に吹かれているのは壮観であった。
通常なら歩いていて楽しい景色なのだが、この疲労と暑熱である。面白がっている余裕がない。
情けないと思いながら、私は『武功雑記』に残された家康のエピソードを思い出していた。
ある時、家康の前で家来たちが薬草の話をはじめた。すると、家康は「その草なら伊賀越えの時、信楽谷で見たぞ。たくさんあるはずだ」と言った。そこで、信楽谷まではるばる人を取りに遣わしたところ、本当に家康が言った場所にあったというのである。
家康が過酷な旅のなかにあっても、高い視野を失わず、周りの景色に対し、自然科学者のような、鋭くみずみずしい観察眼を持ち続けていたことの分かる話だ。
権現様はやっぱり偉いのである。
■小川城の麓で昼寝
小川城についたのは14時半だった。
家康はここで多羅尾光俊の歓待を受けたという。
「武功雑記」には、光俊が大桶に飯を入れてお供衆にふるまい、お供衆はそれを畠中で食べたという記述がある。家康も人の膝を枕にして眠ったというが、美童の井伊直政の膝だったのろうか。
いずれにせよ、予定より大幅に遅れているが、私にも体力の限界が来た。
小川城の麓で一休みすることにした。
幸い、可愛らしいお地蔵さんがたくさん並び、木陰の上、道より少し高台で、心地よい風が吹き通る場所があったのである。
お地蔵様に「お邪魔します」と断った後、寝袋を敷き延べしばし昼寝した。
横になったのは1時間ほどだったと思うが、やはり眠ると体力の回復の仕方が違う。
随分、楽になった。
しかし、次の目的地音羽までは後13キロ、徳永寺に至っては25キロである。
もう駄目かとも思ったが、歩けるところまでは歩くことにした。
ちなみに、家康は御斎峠を越えて伊賀に入ったという話もあるが、地図上、信楽、音羽、柘植の徳永寺は、ほぼ東西の線状に並ぶ。対して、御斎峠は大きく南に外れ遠回りである。麓に出ると伊賀の中心地、危険極まりない伊賀忍者の巷に飛び込むことにもなり、そんな馬鹿な真似を家康がしたとは思えない。
そこで、今回の旅では西に進み、神山を越えて、伊賀入りすることとした。
そうそう、小川の集落から、国道に戻る途中のことだが、ガサゴソと山の方から音がし、何だと思ったら子鹿だった。私の姿に驚いたようで崖をぴょんぴょんはねながら、藪のなかに消えていった。きれいな毛並みの、愛くるしい目をした子鹿だった。
■伊賀入り
小川城から歩くこと9キロ。
ついに写真の看板に出会った。
伊賀入りである。
が、もうアカン。日が沈み、辺りは段々、暗くなってきた。
足も限界である。
看板からしばらく進み、ようやくちらほら人家の見える場所に出たところで、ついに足がつった。
ギブアップである。
この旅を始める前は、最悪、日が沈んでも、夜に行軍すればよいと思っていたのだ、実際にやってみると疲労、そして車が恐ろしく、難しいことが分かってきた。少なくとも、蛍光材を着け、ヘッドライトもないと危険である。
泣く泣くタクシーに電話する。
するとそんなところからタクシーを拾おうとする馬鹿は普通いないのだろう。驚いたようだった。そして、今は皆車が出払っていて、2時間ほど待ってもらうことになると言われた。
こんな山中で2時間もタクシーを待つ気にはなれない。
とにかく町に近い場所に出ようと思い、地図を調べると南にまっすぐ伊賀コリオドールという道が通じていて、そこは伊賀の中心街に随分近くなる。
大体4キロの道のりだったが、どう歩いたかよく覚えていない。
日が沈みゆく中、足をひきずり、もがくように進んだのだと思う。
気づけば麓に居て、農協の支所の前で大きく息をついていた。
またタクシー会社に電話すると、今度は20分ほどでそちらへ着くとのことだった。なんだか話が違うようだが、タクシーを待つ間、伊賀の田園の景色に、ぽっかり月が浮かんでいるのを見つめていた。十六夜の明かりは負け犬に優しい。ザックを枕に大の字になりながら、私は今日最後の兵糧丸を食べた。
ログを見ると、歩数58585歩、距離36キロ、消費カロリー5548カロリー。
兵糧丸は、今日1日で9個も食べていた。
■ホテルで反省会
ホテルで風呂につかり、敗残の身をいたわりながら、伊賀越えの頃、家康たちは何歳だったろうかということを考えていた。伊賀越えに従った家康の供廻りは、名の残るものだけでも34名いたといわれる。なかでも著名なものを当時の数えの年齢と共にあげてみる。
徳川家康(39歳)
酒井忠次(55歳)
石川数正(49歳)
本多忠勝(34歳)
井伊直政(21歳)
榊原康政(34歳)
服部正成(40歳)
大久保忠隣(29歳)
高力清長(52歳)
大久保忠佐(45歳)
渡辺守綱(40歳)
永井直勝(19歳)
ギリギリ30台の家康はともかく、50台の酒井忠次は大変だったんじゃないだろうか?
一方、まだ10代、20代の井伊直政、永井直勝は元気一杯。
時に年寄りの足の遅さに迷惑することもあっただろう。
ここでふと思ったことがある。
草内の渡しの項でも触れたことだが、伊賀越えはその者の体力を鑑み、隊を分けて行動したのではないだろうか?
2泊3日説、3泊4日説の場合、一行は、甲賀信楽から伊勢白子までの約70キロを1日で駆け抜けている。
無論、歴史に名を残しただけに、供廻りの面々は智恵・フィジカルともに優れた人々だったであろうが、それだけの体力を年齢がバラバラの集団が皆、備えていたと考えるのは不自然である。
それに、本多忠勝が家康の料理人を自身の馬に乗せて川を渡してやったという話もある。伊賀越えのメンバーには非戦闘員も多く含まれていたのだ。
敏捷な若者と多羅尾光俊の子息など土地勘のある者を斥候(敵情を偵察するため派遣する少数の兵士)を兼ねて先発隊にし、中隊は30~40前半の壮年でかためる。しんがりの後発隊は体力では劣るが、慎重かつ老練なベテランという編成である。
伊賀越えに何日かかったかは、2泊3日、3泊4日、5泊6日の3つの説があるが、先発隊、中隊、後発隊、それぞれの要した期間だったと考えると、皆正しいことになり、辻褄があう。
それに隊を分ければリスク分散にもなる。
家康は恐らく中隊にいただろうが、いずれの隊でも家康はいると称すれば、敵が狙いを絞り切れなくなるのである。
家康からすれば、わが身はもとより、重臣たちも出来るだけ温存して、三河に帰りたかっただろう。
信長が是非そうしろと言ってきたせいだが、家康は徳川家の首脳すべてを連れて上洛してしまった。家康自身、家来をねぎらってやりたかったのだろうが、信長の横死で裏目に出た。
紛争地で、自身の全財産をさらしながら、歩いているようなものである。
息子の秀康、秀忠は生まれていたが、まだ子供である。
家康含め、この35名が全滅したらそれで詰みである。だが、たとえ3分の1でも三河に帰ることが出来たら再興の目がある。
家康はそう考えたんではなかろうか。
というか、私もアラフォー、後発組ということで、5泊6日説でスケジュールを立てておけばよかった。
(2日目 茶畑を抜けて忍者の里・伊賀へ【第4回】了)
【著者プロフィール】
黒澤はゆま(くろさわ・はゆま)
歴史小説家。1979年、宮崎県生まれ。著者に『戦国、まずい飯!』(集英社インターナショナル)、『劉邦の宦官』(双葉社)、『九度山秘録』(河出書房新社))、『なぜ闘う男は少年が好きなのか』(KKベストセラーズ)がある。好きなものは酒と猫。
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