見出し画像

『インド沼』著者イチ押し!インド映画『花嫁はどこへ?』の2001年という時代設定が絶妙だった件

日本でインド映画の話題作が続々公開されています。10月4日には普通の青年がヒーローに成り上がる映画『ハヌ・マン』が公開され、ヒット中。早くも続編が期待されています。しかし『インド沼 映画でわかる超大国のリアル』(インターナショナル新書)の著者・宮崎智絵さんのイチ押しは同じく10月4日に公開された『花嫁はどこへ?』。そこで宮崎さんに『花嫁はどこへ?』の観どころをアツく語ってもらいました!

アーミル・カーンの映画にハズレなし!
 日本では2024年10月4日に公開されたインド映画『花嫁はどこへ?』(ヒンディー語)。
 インドの国宝と呼ばれるアーミル・カーンがプロデューサーを務める本作は、今年公開されたインド映画では間違いなく最もオススメの作品です。

映画『花嫁はどこへ?』公式サイトより


 「アーミル・カーンが関わる映画にハズレなし」とも言われていますが、正にこの映画もそうです。
 映画『きっと、うまくいく』(2009年)で様々な社会問題を大学生の視点で描いたアーミル・カーンが、この映画では女性の視点でジェンダー、フェミニズムや警察、家族などの問題を描いています。
 監督は、『ラガーン』(2001年)や『モンスーン・ウェディング』(2001年)に関わり、『ムンバイ・ダイアリーズ』(2011年)で監督デビューしたキラン・ラオです。
 
 さて、この映画の内容ですが、ひと言でいえば、花嫁取り違え事件です。花婿ディーパクと花嫁プールは、花嫁の実家での結婚式の後、満員電車に乗って花婿の家に向かいます。目的地のムルティ駅に着き、花婿ディーパクが花嫁を引っ張って降りようとしますが、なんと花嫁がベールを目深にかぶっていたため、ディーパクは相手を間違えてしまいます。しかしそれに気が付かないまま彼は駅からバスで家に向かいます。花嫁のベールを上げて初めてディーパクは自分と列車を降りた花嫁がプールではないことに気がつきます。
 あわてたディーパクらは駅にプールを探しに戻りますが、すでに彼女は何駅も先のパティラ駅に行ってしまっていたのです。
 プールは駅に住む少年チョトゥにチャイ屋台の女主人マンジュを紹介され、チャイ屋台を手伝うことになります。
 
 一方、間違えられた花嫁はジャヤという女性で、ディーパクの家族と過ごすことになりますが、彼女の持っていた有機農法の知識がディーパクの家族を助けることになります。実はジャヤは大学進学の夢を、結婚によって諦めていたのでした。
 偶然にも本来進むべき道とは異なる方へ歩み出した二人の花嫁。はたして彼女たちの運命は?
 
 映画が描くのは花嫁を取り違えてから4日間の出来事ですが、プールとジャヤという性格も考え方もまったく違う二人が、それぞれの境遇で人生を切り開いていきます。
 プールは伝統的な女性観を何の疑問もなく受け入れており、ジャヤは高校で学年1位を取るほど聡明で、有機農法について大学で学びたいという進歩的な女性です。
 
 
“2001年”という絶妙な時代設定
 舞台は2001年ですが、実はこの時代設定が絶妙で非常によく考えられています。当時、インドで携帯電話が普及し始めた頃で、まだ田舎では携帯電話をもっている人は少なく、固定電話がない家もありました。多くの人がスマートフォンをもつ2020年代を舞台としたら成立しないストーリーです。現在のインドはスマートフォンで映画を観るような社会で、4日間も妻と夫が連絡を取れないというシチュエーションは考えられません。
 
 また2001年という時代は、1991年の経済封鎖の終了から10年が経ち、経済発展途上で古い価値観と新しい価値観が共存した時代です。女性自身も新旧の価値観に翻弄され、家庭環境によっても考え方がかなり違う社会でした。
 2001年は、いろいろな意味で転換期であり、この映画が提起する社会問題が実は現代にも通じ、いまだ解決されていないことを訴えているのです。
 
 まず、ジェンダー、フェミニズム問題です。花婿ディーパクは、満員電車の中で隣り合ったおばさんに持参財はいくらもらったかを尋ねられます。持参財とは新婦側の家が新郎側の家に金品を贈答するというものです。1961年の持参財禁止法制定以来、禁止されていますが、なかなかなくなりません。日本でも同じような言い回しがある地域もありますが、「3人娘をもつとマハラジャでも破産する」と言われています。それだけ花嫁側の負担が大きいのです。花婿側の要求する金額や物を渡さないと、花嫁はいじめられたり殺されたりするため、花嫁側も要求を飲まざるをえません。だから、花婿側の両親は電車に居合わせた人に自慢しているのです。

(参考)2019年に筆者がインドの聖都バラナシで出合った花婿行列。花婿の後ろで赤いベールをかぶっているのが花嫁。


映画で描かれた魅力的な女性

 さて、プールとジャヤを演じた女優はとてもきれいで、演技も非常に素晴らしかったです。二人とも農家の女性を演じるということでオーラを消しつつも魅力的でした。プールは、迷子になった当初は怯えてビクビクしていましたが、チャイ屋台の女主人マンジュと過ごすうちに、彼女の強さ、進歩的な考え方の影響を受けたのか次第に自信をもつようになります。特にプールが作ったお菓子が売れ、マンジュからお金をもらったことが大きかったのです。
 初めて自分でお金を稼いだプールは、ディーパクのところに行っても何か仕事をしたいと考えるまでになります。マンジュは、暴力的な夫を追い出し、一人でチャイ屋台を切り盛りするたくましい女性です。さらに「この国の女性は大昔から詐欺にあっている」「女には男はそんなに必要ない」などとプールに言います。伝統的価値観に対して疑問をもっていなかったプールは、その意味を理解することができませんが、チャイ屋台を手伝ううちにその意味が理解できるようになっていきます。
 
 一方ジャヤは、どうみても結婚詐欺師といった雰囲気で、やること全部が怪しい、絶対に何か企んでいると感じさせるものがありました。警官にまで「何か悪いことをしている」と疑われます。しかしジャヤはディーパクの家族が困っていると知恵を貸し、夜に家から抜け出そうとした際に帰ってきた酔っぱらいのディーパクをベッドまで看病して逃げそこなうなど、単に悪い人とは思えません。
 
 
悪徳警官のセリフから読み取る価値観の転換期
 また、ジェンダー、フェミニズム問題を描きつつも、女性だけではなく男性の意識の変化を描いているのもこの映画の特徴です。
ディーパクの友人の印刷業を営む男性は、ジャヤと接するうちに意識が変化してきます。男尊女卑的な古い考えから最初はジャヤを受け入れないものの、終盤ではディーパクを通じて彼女の意思を尊重する描写があります。とてもシャイな男性ですね。

 そして警官も影響を受けます。インドの警官は、賄賂などを要求したり、女性が不審死しても事故や自殺として処理し、きちんと捜査をしないなど、あまり良い印象がありません。映画に出てくる警官も、正義のヒーローもいますが、悪く描かれることも多いのです。
 
 この映画では、賄賂を受け取り、貧乏人は雑に扱ういかにも悪徳警官という感じですが、実はとてもよい警官だったのです。最初はジャヤの悪事の証拠をつかみ、素顔を暴こうと彼女の後をつけ回します。しかし、ジャヤは、本当は結婚から逃れるつもりはなく、取り違えがなければ嫁ぐつもりだったこと、でも間近にせまった大学の授業開始を諦めきれず、この機会に大学へ行こうとしていたと告白します。
 
 一方でジャヤの夫となる男は前妻を焼き殺した疑いもある乱暴で居丈高で、非常に感じの悪い人です。嫁いだらジャヤは確実に不幸になる、と思わせる男です。彼は、ジャヤを迎えに現れ、警官の前で彼女を殴ります。妻は夫の所有物で殴って何が悪いというのです。そんな夫に警官はジャヤを引き渡しますが、いろいろな罪状を夫に言い渡し、最終的には彼女を助けます。警官はジャヤに「しっかり学べよ」と言います。
 保守的な価値観をもち、男の味方と思われがちな警官のこの言葉は、男中心の価値観から女性の教育を受ける権利という新しい価値観の転換を意味しています。
 

2001年は子どもの権利も保障されていなかった
 ところで、女性の教育問題が注目されがちですが、この映画は児童労働問題もさりげなく取り上げています。プールにマンジュを紹介した少年チョトゥは、7歳から働き始め、両親たちに仕送りをしています。インドの駅にはこのような子どもたちが多く住み、物乞いなどをしている光景をよく見かけます。
 チョトゥは働いていますが、7歳はまだ義務教育を受けている年齢です。2002年に憲法改正が行われ、6~14歳のすべての子どもは教育を受ける権利を有することが明記されるとともに、教育を受けることが国民の基本権と位置付けられました。しかし、この映画は2001年が舞台のため、憲法はまだ改正されていません。
 また物乞いについては耳を疑う話もあります。両足の膝下がない男性がスケボーに乗ってプールを追いかけ回すシーンがあります。この映画のスケボーの男性はインチキでしたが、インドには実際に両足膝下がなくスケボーに乗ったこのような人は時々います。足を失う原因は事故だけではなく、なんと物乞いするために親がわざと子どもの足を切断する事例もあります。
 
 暗い問題ばかりを取り上げましたが、この映画はコメディ要素を多く含んだ感動作です。
 インド映画といえば〝踊り〟というイメージが強いかと思いますが、この映画は劇中歌こそいくつかあるものの、踊りはエンディングロールも含めて一切ありませんでした。ストーリーをじっくり描き、派手なシーンはなく、ジェンダー問題など重く暗くなりがちなテーマを、ユーモアを交え、前向きに取り上げているのは、アーミル・カーンらしい映画といえるでしょう。
 インドの社会問題に関心がある人も、泣きたい人も、アーミル・カーン好きにもぜひオススメの映画です。
 

宮崎智絵(みやざきちえ)
宗教社会学者。熊本県生まれ。立正大学文学部史学科卒業。同大学大学院文学研究科社会学専攻博士後期課程単位取得満期退学。インドの宗教と社会を中心に研究。二松学舎大学・日本大学理工学部・立正大学非常勤講師、立正大学人文科学研究所研究員。論文に「インドにおける宗教的マイノリティと日本人女性の結婚」(二松学舎大学論集59号)、著書に『インド沼』(インターナショナル新書)、共著に『支配の政治理論』『平等の哲学入門』(共に社会評論社)などがある。


更新のお知らせや弊社書籍に関する情報など、公式Twitterで発信しています✨️ よかったらフォローしてください(^^)