コの八 松本「山女や」 加藤ジャンプ「今夜はコの字で~全国コの字酒場漂流記~」
"コの字酒場界最強のアマチュア"
最強のアマチュアと呼ばれる人が各界にいる。すぐ思い浮かぶのはゴルフのボビー・ジョーンズとか将棋の坂田三吉とか。では、居酒屋界の最強のアマチュアは誰だろうか? そう考えて、目指すは長野県は松本なのであった。前回訪れたのは群馬の高崎、そして今度は松本。にわかに内陸にコリはじめている。
新幹線が日本中あちこち走る時代になったが、長野県の場合、長野市には新幹線が通っているが、松本市へのアクセスは、いままでどおりの在来特急である。これがいい。新幹線は見てるだけでご飯が食べられるくらい好きだけれど、一つダメなことがある。疾走する新幹線のトイレに腰をおろしたとき、
「この電車浮いてる!」
と、思うくらいフワフワするあれが苦手なのである。座席では感じない、あのフワフワ感。思わず、その不安定な動きに合わせて体を揺すってダンシング・イン・ザ・トイレットになってしまい、その流れで、『ダンシング・オン・ザ・シーリング』を歌っていたライオネル・リッチーのことばかり思い浮かぶ。結局、肝心なことにいつも集中できない。だから、だいたい新幹線のトイレでは目立った成果を得られぬまま席にもどる。ビロウなお話で申し訳ない。
さて、私のうちから松本に行くには在来特急の『あずさ』がいちばん都合がいい。例の狩人の『あずさ2号』の『あずさ』である。私は、サブスクはもちろんスマホで音楽を聴くこと自体を頑なに拒んでいて、いまだに電車でもCDウォークマンを使う。持ってなければその場の音を聞いていたい。ドキュメンタリー映画につまらないBGMをつけられると不愉快である。で、旅はドキュメンタリーのライブみたいなものだから、だいたいの場合、音楽よりも、その場の音を知りたいのである。
とはいえ、車窓を眺めながら、聴きたい音楽に浸かることが楽しいのはわかる。
『あずさ』には何度も乗ったことがあるが、いまだに『あずさ2号』を車中で聴いたことがない。彼らのCDを持っていないからである。同じ頃いたジャッカルなんてグループのレアなレコードは持っているが、狩人は手付かずである。たぶんこの先も手付かずだろう。
今回の松本行きでも『あずさ』に乗ったので、ためしに脳内で『あずさ2号』の再生を試みたのだが、初めて聴いてから45年くらい経っているのに、いきなり出だしからわからない。いくら考えても8時ちょうどのサビしか思い出せず、むしろ梓みちよさんの『こんにちは赤ちゃん』ばかりカットインしてくるので、あきらめて車窓を眺めつづけた。
松本は400年もの歴史を誇る城下町である。国宝の松本城は美しく、その周りには、過度に観光化されず市民の生活と旅行客とがいいバランスで交われる素晴らしい街並みがある。実は今回のコの字酒場の旅に出る、わずか二週間ほど前にこの町を訪れていたのだが、そのとき偶然、”コの字酒場界最強のアマチュア"と思える店に出会った。そこで急遽、松本へ行くことにしたのであった。
その日、編集者のKさんとは松本駅で待ち合わせた。
夜の鯨飲馬食に備えて駅弁もビールも我慢して2時間ばかり乗っていた『あずさ』(2号ではない)を降りて、松本駅の改札で待っていると、Kさんが今まで見たことがないくらいニコニコしながら現れた。なんだろうと思ったら、早く来て松本市美術館に行ったのだという。前回の高崎で町中のアートにそっぽを向かれた哀しみを癒してきたらしい。松本市美術館の草間彌生は生半可な癒しではなくドーピングといってもいいくらいパワフルだから、常時平熱系のKさんをして微熱おじさんに変身させていた。
暖簾と看板には「素人料理」
松本駅を出て国宝の松本城がある東に向かって歩く。タワマンみたいに都市をぶった斬るようなビルは建っていないので、ただ歩いていても気分がいい。中町通りは蔵造りの家並みがつづくし、ところどころに湧水の水汲み場がある。東京近郊ではラーメン屋の看板だらけだが、ここで目につく麺類は蕎麦が圧倒的に多くて、それも嬉しい。空気が乾燥しているのも良い。私のような大仏未満チリチリ系の頭髪の人にとって湿気は最大の敵だが、ここでは、割と縮れないのだ。さらに、この町のドライバーの気質がすばらしい。信号の無い横断歩道では、すぐにわたらせてくれるし、とにかく、マナーが良い、とKさんと話していたら、ぐいぐい来るのに一台だけ遭遇した。どこにでも例外はある。
さて、そうこうしていると、大手と呼ばれる地区に入る。渋い飲み屋や蔦の絡まるフレンチレストランみたいな店が集まっている粋なエリアである。そこに、コの字酒場界最強のアマチュアの店がある。
山女や、という。暖簾と看板には堂々と「素人料理」とあるが、その看板自体に玄人感が溢れかえっている。
紺色の暖簾が、なかの電球の色を透かして、柿渋色のように見える。
それををくぐって格子戸を入る。いきなり、そこは酒場という理想郷である。
細く短い廊下の先にコの字型カウンターがある。
玄関に正対するコの字の真ん中の一辺。その向かいに小上がりがある。掘り炬燵のいかにも落ち着く雰囲気である。
いっぽうコの字型カウンターのある空間。黒っぽいタイルの床の踏み心地がいい。使い込んだカウンターの手触りは柔らかく高さもいい塩梅。腰板の艶、壁は煙で味が出ている。灯りの色。メニューを書いた札の凛々しいながら優しい文字。煮込みの鍋。この店、造りのぜんぶが暖かくて言うところがない。
「厳密に言うとコの字じゃないかと思うんですが……」
と、出迎えてくれた二代目の金子大樹さんが、おそろしいことを口にした。冗談だと思ったら真面目な顔をしている。
いや、そんなはずはない。以前、ちゃんと見たし、その時も、コの字型にお客さんの顔が並んでいた。行ったのはお盆でもないし、まさか、あの時のお客さんは私にしか見えないお客さんだった、なんてことはあるまい。私の背中を脂汗が流れたが、実はこういうことなのであった。
山女やでは、カウンターをL字型に据え付けたところ、最後の一辺に、カウンターと同じ素材と高さのテーブルをくっつけて設置していて、ちゃんとコの字になっているのである。大樹さん、構造物としてコの形に板が接合していないからと心配したらしい。
安心してまずは生ビールと肴何品かをお願いした。お通しはカボチャの煮物で、これをつまんで待つ。栗が謝罪しそうなくらいホクホクで甘さはカボチャ自体のそれを大事にしつつ、醤油でキリッと仕上げてある。ジョッキがすぐに空になる。信州の酒を頼んで、あらためて店の雰囲気を味わっていると、コの字がどんどん埋まってきた。口開けからほどなくして続々お客さんがやってきたが、あっという間に小上がりまで満席になってしまったのだ。松本は人口に対して飲食店の数が多いという話を地元のタクシーの運転手さんから聞いたが、激戦区でこの人気。旨い店の証左である。
お待たせしました、と焼き場でじっくり焼き鳥と対峙していた大樹さんが、一瞬焼き場を離れて煮込みを出してくれた。
「ネギはのせていいですか」
ここの店はちゃんとそういうところを客の好みに合わせてくれる。うちはこのスタイル!というお仕着せはないのである。もちろん、ネギは大好きなので
「ネギだけで生きてる動物だと思ってたっぷりください」
と、答えたら優しい笑顔で流してくれた。ありがたかった。
さて、件の煮込みである。信州は馬肉の産地だから、ここのモツもウマのそれである。赤味噌の香りがふうわりと立ち上るなか、ネギのちょっと刺激的な香りがまざる。鼻からヨダレがでそうである。やおら、すくいとってガブリ。柔らかく煮込まれたウマモツは出汁をすっかりと吸い込み、噛むたびにじゅわっと音が聞こえてきそうなくらい汁気にあふれて旨い。赤味噌のコクにまけない野趣はあるが、クサミなんて皆無で、こんな言い方はどうかと思うが、世界で一番旨い麩のように、口溶けよく柔らかくそして汁気たっぷりなのである。お味噌は地元のものなのかと尋ねると、大樹さん、にやりとして
「北海道のなんです。それも普通の小売店で買えるもの。うちは、素人料理なんですよ、ほんと」
と、笑うのである。そう言われて、いやあ、とこちらも笑い、また煮込みをほおばると、これが、やっぱり、こんな素人がいてたまるか、という味なのであった。
鼻息荒くならないアマチュアリズム
ここからは怒涛のように注文した。ミニトマト肉巻き。鳥のチーズ巻き。牛串焼き。つくね。メニンニク肉巻き。皮串。山賊焼。丸茄子みそ焼。シメサバ。
ものすごい食いっぷりである。いろいろ気にしないといけないお年頃だが、ぜんぶ旨いのだ、頼まずにはいられないのである。
焼き物は、大樹さんがカウンターの内側で常に気を配りながら焼く。その様子が実にいい。一人客の女性が時々、じっと眺めていて、また格好いい。それを見てるだけで二合はいける。
――脱サラして、大樹さんの父、秀實さんがこの店を始めたのは昭和51年のことだった。親戚の家だったという今の店舗は、もともとはガレージだった空間。それを改装してコの字カウンターと小上がりをつくった。とてもリフォーム物件とは思えないのは、よほど設計思想がいいからなのだろう。実際、竣工以来ほぼ手つかずのままだという。
秀實さんは、いくつかの飲食店でアルバイトはしたものの、これといって料理人としての修行はしておらず、だから、店には「素人料理」と銘打ってある。とはいうものの、開店からいきなり焼き鳥は30種類くらいあったらしいし、とんでもない素人なのであった。アインシュタインは素人学者からいきなり世界デビューしたし、そういう人がどの業界にもいるのだ。
店は評判を呼び、瞬く間に繁盛店になった。
一方、店の二階で暮らしていた息子の大樹さんは、時々店を手伝ったりしていたものの、継ぐ気はまったくなかった。だから高校を出て外に勤めに出たが、ある飲料メーカーで派遣社員として働いていたとき、母が倒れた。ちょうど、正社員にならないかと決断を迫られていたところだったが、大樹さん、じゃあ手伝うか、と店に入ったのだそうだ。聞くだに、かなりのターニングポイント、相当の気合いだったのだろうと思ったら、
「性格的に気負うとダメなんだよね」
と、いう。この、鼻息荒くならないアマチュアリズムがいいのだろう。たしかに、二代目も外で修行をすることなく言うなれば素人のまま店に入ったわけだが、当初厨房にいた大樹さんは、自然と流れにしたがうように、焼き場の担当になってコの字の中に立つようになり、今ではすっかり店の顔になっている――。
ミニトマトの肉巻きは、表面の豚は、まるでベーコンのように香ばしくカリッとしあがり、中のミニトマトは皮がいい具合に張って、齧ると果汁が飛び出す。トマトの酸味と豚肉の脂の甘みは最高のコンビである。
牛串は、しっかり焼きあげてあって、それでいて、柔らかくコクのある肉汁とてらいのない塩っけがたまらない。
鳥のチーズ巻きは、どこか懐かしさのある味わい。チーズの焦しかたがニクイ。
さらにメニンニク肉巻きときたら、メニンニクの野菜らしさ、瑞々しさとそこに潜む甘みと香りをこれほど引き出す料理があるかという出来。誰にも会う予定がなければ20本くらい平気でいける。
ご当地名物の山賊焼は大きな鳥の唐揚げだけれど、ここのは、クドさがなくて、サクサク。火の通し方も、しっかりしていて、さりながら肉の柔らかさと汁気はしっかり保たれている絶妙な出来なのだった。
驚いたのはシメサバで、美しい身質は、サバの万華鏡のような輝きで、これが、酸っぱすぎず、かといって生っぽくなく、塩加減もよくシメてある。あまりに旨くて、無粋は承知でどこのサバをどこの市場から仕入れるのだと訪ねたら
「うちはね、魚屋さんですよ、ふつうの。ほかの素材もスーパーとか小売店。だって素人料理だもの」
と、大樹さんフフフと笑った。昔、高校時代の小野伸二の動画を見たがそれは完全に超一流のプロサッカー選手の動きだった。ここの料理はそういうものなのかもしれない。経歴は物差しとして便利だが、経歴ありきではない、ということをしみじみと思った。
Kさんのお隣に、一人で来ている女性がいて、この人が実に明るく旨そうにお酒を呑む。思わず目があってしまい会釈したら、中部地方から来たのだそうだ。遠目にグラスを上げ合って乾杯した。これが、コの字酒場だ。すると、やっぱり、恵子と吉岡が思い浮かぶ……吉岡には、ここには出張で来させよう。そのとき、恵子との関係は、きっとああなっていて、二人は合流して、一人旅の女性とばったり出会うことになる。その女性はミキと知り合いで……そんなこと思いながら、シメに蕎麦を注文した。ここは大樹さんの手打ちの蕎麦を出してくれる。一度来てあまりに旨くて驚き、その夜はざるを二枚お願いしたら、スタッフのかたに
「え?二枚」
と聞き返された。蕎麦っ食いだから大丈夫です、息張ってこたえたが、たしかに大量だった。だが、やはり、この信州そばは素晴らしい。完全な玄人の味わいで、最後の一筋までツルツルとおいしく平らげた。
帰り際に大樹さんに「やっぱり玄人ですよ」 と、言ったら、大樹さんは首をふってニコニコしていた。最強の素人、松本にあり。