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コの十一 神保町「兵六」 加藤ジャンプ「今夜はコの字で~全国コの字酒場漂流記~」

良き飲兵衛、良き店主、良き酒と肴

3代目亭主の柴山雅都さん

 ドラマ『今夜はコの字で』に2シーズン通じて舞台になったコの字酒場は一軒しかない。そこが今回の行き先だ。神保町じんぼうちょうのコの字酒場「兵六ひょうろく」である。劇中、この店は中村ゆりさん演じる恵子と微妙な関係にあった世界的に活躍するフォトグラファーの元交際相手・とおる竹財輝之助たけざいてるのすけさん)との思い出の店として登場した。ドラマの放送後、透の座った席にあらためて腰をおろしたら、ちょっと自分が透に似てきたような気がした。恐ろしいことである。
 このコの字酒場は小さい。コの字カウンターは農家の囲炉裏くらいのサイズでぎゅうぎゅう詰めに座っても3辺に12、3人がやっとだ。あとはテーブルが2卓あるだけ。それだけで店内のスペースはいっぱいだから、いかにこの店が狭いかがわかるだろう。されど、この店は神保町にとってある種の目印みたいな存在である。
 近頃、神保町はカレーの町だと思っている人も多いらしい。たしかに元々旨いカレーを食わす店が多かったところへ最近は新規に開店する店も増えている。だが、よく考えてみればカレーの町はいろんなところにある。インドなんて国中カレーの町だしスリランカはカレーの島である。だから、やはり神保町はなんといっても本の町、古今東西のあらゆる書物が集まる世界でも珍しい町なのである。
 そんな神保町も年々さまがわりしている。本をとりまく状況が変化しているのだからそれもしかたのないことかもしれない。そんななかで、どこ吹く風という面持ちで存在しつづけているのが兵六だ。
 はじめて行ったのはたぶん20代になりたての頃だろう。体重も今より20キロくらい少なかった私は、誰に連れてこられたのか、不意にこのコの字酒場と出会った。
 そして一目その空間を見ただけで好きになってしまった。スイート・ブラウン・パラダイス。すべて茶色なのである。カウンターの欅の肌の艶めいた茶色。古い芝居小屋の看板みたいに墨痕凛々とした文字が書かれた煤けたメニューの札。丸い材木そのままのようなベンチもほどよい飴色に染まっている。すべてが美しい茶色。私は旨いものは基本的に茶色と思っている。だから茶色とは人生を豊かにする色、なのである。それゆえ、これほどまでに、さまざまな、それも一つ一つが美しい茶色の空間に惚れ込まないわけがない。
 だが、私の通っていた大学は多摩にあって、通学路も神田のようなお江戸のど真ん中などかすりもしないルートだった。なかなか兵六には行けなかった。社会人になって兵六にときどきお邪魔するようになって思った。大学時代から通っていたら、呑んでやらかした数々の失敗が少しは減っていたのではないか。錦糸町きんしちょうを夜の8時に出て横浜の家に帰ったはずなのに12時半に東京の思いっきり東側の曳舟ひきふね駅のホームにいた、なんてこともなかったかもしれない。そんな失態とは無縁そうな、いかした飲兵衛が集まっているのが兵六だ。良き飲兵衛が集まり、良き飲み方をしているうえに、良き店主と良き酒と肴が一堂に介するコの字酒場なのである。

古い芝居小屋の看板みたいに墨痕凛々としたメニュー札
コの字カウンターは農家の囲炉裏くらいのサイズ

 この連載では、いつも書く前に一度、そのコの字酒場を再訪する。取材というほど堅苦しいものではなく、開店前に少し時間をいただいてお話を伺う。そのときはシラフだが、だいたいそのままなし崩しに飲みはじめて、結局したたか呑む。ただ、知ってる人にあらためて話を聞くのはちょっと照れる。友人の一人に美味しいものを食べると必ず
「おもしろい味だね」
 と言う人がいる。おもしろい味というと、旨くないものをオブラートに包んで言ってるように聞こえなくもないが、彼は「おもしろい味」と言いながらおかわりしたりするので、間違いなく彼の「おもしろい味」は「美味しい」なのである。長いつきあいだが、いまだになぜ彼にとって美味しいがおもしろいなのかわからないし、今更聞くとなると相当な覚悟がいる。好きなコの字酒場で、あらためてアレコレ聞く、というのは、そんな感じがしてちょっと恥ずかしいような心持ちになるのである。

 その日は開店の1時間前にお店にうかがった。店主の柴山雅都しばやままさとさんに会うのは半年ぶりくらいだが、シラフでいろいろ話をするのは、もしかしたら初めてかもしれない。
 まだ日が落ちない時間、私と編集者のKさんは兵六を訪れた。柴山さんはいつもどおりのすこし高い声ででむかえてくれた。腕時計が新しくなったような気がしたが、今日は店のこと、兵六のことを聞くのが目的なので今度会うときまで時計の話題はとっておくことにした。

 兵六は人気のある店だから、開店前に行列ができる。ただ皆、粋に呑んで去っていくからあんまり長居しない。だから口開けに入れなくても、ふとのぞくと席が空いていてすぐに一杯にありつけることも珍しくない。その日は、ひとしきり柴山さんと話をしてから行列にくわわり、コの字カウンターの角に案内していただいた。行列には私と編集者のKさん、ほかにあと二人加わった。
 ちょっと大所帯でお邪魔してしまったのだ。行列から合流したのは、ドラマのプロデューサーのK林さんと主人公・恵子のアシスタント、ミキ役の藤井武美ふじいたけみさんである。藤井武美さんとは、何度かコの字酒場でご一緒したことがあるが、若い飲兵衛のお手本のように綺麗な飲み方をされる人で、劇中ミキが迷える恵子を誘って一杯呑む姿のリアリティはご本人の姿とオーバーラップする。ミキは、ドラマのなかで思い切り良くグイグイ酒を呑んでいるが、あの酒はホンモノで、一杯やった後のあの喜色満面の女神のような笑顔はセミドキュメンタリーでもある。呑んでもちっとも顔色が変わらず、キュートなウワバミという感じなので、私は時々、"武美姉さん"と呼ばせてもらっている。私も呑んでも赤くはならないが、むしろ白くなるタイプだ。わかっている、青白いおじさんは怖い。

お銚子に入ったさつま無双と白湯

 その日は、まずビールが一杯目。編集者のKさんも気合が入っていて、
「メニュー全部食べたい」
 なんて呟いている。というのもKさんのご実家はかつて中華料理店を営んでいて、兵六には中華メニューがたくさんあるからなのだ。兵六は1948年に創業した店で、当時はまだ、酒場に各国のメニューが浸透することもなかった。ちなみに、1948年生まれといったら、大瀧詠一さんやジャン・レノと同い年である。そんな古い酒場なのに、中華メニューが多いのは、創業者夫婦が上海帰りだからである。餃子は創業者の知人から教えられたレシピらしいが、そのほかの、炒麺、炒豆腐、炒菜などはどれも創業者の妻、平山秀子さんが暮らしていた上海の味をもとにつくりあげたものだ。つまり本場仕込みなのである。という流れもあって、その日は、この店の代名詞のような焼酎で、創業者の故郷の酒である、さつま無双をお願いしてから肴をじゃんじゃん注文した。さつま無双は、お銚子に入った生の芋焼酎と猪口、それに白湯の入った小さなアルミの薬罐やかんの3点セットで供される。銘々好みの濃さのお湯割を作りつつ呑む。これを呑んでいる人は3割ましで格好良く見える気がする。

「名優揃いですね」

ししゃもの南蛮漬け

 中華について散々言ってきたが、その夜の肴として一等最初にお願いしたのはししゃもの南蛮漬けであった。
 飲兵衛には、ここは”肴が旨い店”かどうか判断する、基準となるメニューがあったりする。私はポテトサラダや南蛮漬けがそうだと思っている。もともと南蛮漬けだの酢の物だの、酸っぱいものが好きなので、見つけたらすぐ注文してしまう。いきおい、南蛮漬けを食べた回数は増え、だんだん肴エビデンスとして蓄積されたせいだろうか、南蛮漬けが旨い店は旨い、と判断してだいたい間違いがない気がしている。そして兵六の南蛮漬けは旨い。したがって兵六は旨い店なのである。
 ここの南蛮の汁は、酸味も甘さもほどよく酒の味を邪魔しない。それでいてきりっとした酸っぱさはある。そこへ骨までサクサクと噛めるシシャモがしっとりと浸かっている。子持ちのそれは、噛むとプリンと身が弾ける。さらに、よく下処理したタマネギとパプリカの細切りを一緒にパクリとやると、シャリシャリとしたタマネギの歯触りと甘みと微かな刺激があいまってシシャモの脂と身の控えめなコクをきゅっと引き出す。好い。

 つづいてお願いしたのは餃子で、これぞ餃子のスタンダードという逸品である。焼き方から皮の質感にアンのバランスの良さは至妙で、一つの餃子の、その一体感がとんでもなく高い。羽も無いし汁気もじゅるじゅると溢れるようなものではない。されど、これこそ餃子であって、焼いた皮の香ばしさと餡の主張しすぎないコクに誰もが病みつきになるし、これを旨いと思わない人は餃子を誤認していると言ってもいいくらい旨い。

兵六の餃子
炒豆腐
炒麺

 炒豆腐は豆腐を葱と炒めた一皿だ。葱のねっとりした汁気が豆腐にからみ、ほんのりと甘みを感じたときに、えいや、と焼酎で流し込む。この取り合わせが絶妙なのだ。レンゲ一口で一口の焼酎、というペースでやっているとたちまち酒が足りなくなる。炒麺はというと、あんかけの焼きそばで派手な具は一切はいっていないが、揚げた麺との相性が抜群で、豚肉と葱と椎茸の火の通りかたも、これ以上でもこれ以下でも絶対ダメな、絶妙な加減でしあがっている。しかも、〆としてはもちろん、塩味がちょうどよく酒のアテとしても具合がいい。

 これだけ呑んで食っていれば当たり前かもしれないが少々陶然としてくる。ほろ酔い加減よりは、もう少し酔っているかどうかの、この時間帯がたまらなく良い。ふとあたりを見回す。兵六は狭くて、そのぶんコの字カウンターを囲むお客さんの顔がよく見える。天使と恵比寿さんと女神しかいない。
「名優揃いですね」
 傍の武美姉さんがぼつりとこぼすと、やおら席を立ち上がりグラスを持って、向いに座った味わい深い紳士たちの間へとそろりと歩いていって腰をおろした。やっぱり姉さんなのである。藤井さんは、たちまち二人の紳士たちとうちとけた様子でなにやら話し込んでいる。もちろん感染には気を遣いながら、距離とマスクを大事にしつつ。そうして、藤井さんが人生のかなりの先輩たちと、生の焼酎のグラスを片手に語らう光景はさながら映画のシーンのようだった。同時にそれはコロナなんてものが蔓延する前の、コの字酒場の姿そのものに見えた。そんな姿を見てプロデューサーのK林さんが
「すてきですねえ、コの字だなあ」
 と、言いながら眺めている。傍では編集者のKさんが炒麺を旨そうにたぐっている。目を伏せて呑んでいる人。一人でニコニコしている人。二人連れで話し込んでいる人。銘々が銘々の楽しみかたで呑んでいる。ちょっとシュールなようでいて、これほど愛おしい時間があるだろうか。

藤井武美さんとご常連の紳士たち

 そんなときも店主の柴山さんはコの字の3辺とテーブルの様子を片時も目を離さずに見守っている。柴山さんは3代目。初代は伯父にあたり、2代目は従兄弟という関係だ。大学生の頃、2代目が亡くなり、2代目の母で創業者の妻である平山秀子ひらやまひでこさんから声をかけられ、
「全然継ぐつもりなんてなかったんです。向こうも今日手伝ってくれれば良いという感じだったと思うんですよ」
 という状況から、いつの間にか、兵六にとってなくてはならない、いや、今の兵六の顔になった。

 実は兵六は2代目の代にかなり荒れたことがあった。斯界でもつとに知られ、居酒屋店主だった初代と比較されるのはなにかと辛かったのかもしれない。荒れた2代目の生活は兵六の有り様にもそのまま影響し、いつでも開いている店のはずが、いつやってるかわからない店にまでなってしまった。そんな時代の後、引き継いだ柴山さんは
「電柱の影でおそわれるかもしれないけど、お店で他のお客さんに威張る人とかからむような人にはきちんとダメと言って、この店をちゃんとしようと思ったんです」
 覚悟を決めたのである。とはいえ実際の柴山さんはほのぼのとした雰囲気でいつも穏やかな口調で話す紳士である(サッカー好きでスタジアムでは熱狂的な声援をおくっているようだが未確認である。誰でもいろんな顔があるものだ)。たぶん、そこに甘えすぎると叱られるのだろうが、今のところ怒られたことはないのでOKなようである。

兵六の70年以上の歴史のなかで最も変わったこと

 昨年、柴山さんは一冊の本を書かれた。『「兵六」 風を感じるこだわりの居酒屋』というエッセーで、これを読むと兵六の歴史から柴山さんの兵六にかける思いがわかる。そのうえ柴山さんが筋肉少女帯とX JAPANが好きということまで明かされている。今度会ったら、私の母はYOSHIKIさんと高校が一緒らしいと言おうと思っているのだが、いまだ言えていない。

 柴山さんの本の副題にあるように、兵六は風がいい。実は、兵六の70年以上の歴史のなかで最も変わったこととは
「エアコンですかね」
 と柴山さんが認めているが、この店は長らくエアコンがなく、自然の風だけでしのいでいた。エアコンを取り付けたのも客のためではなく、奥の、暑過ぎた厨房で働く従業員の環境を良くするのが目的だった。だから、今でも店では窓も戸も開け放している。都会で、これほど季節を感じられるコの字酒場はめずらしい。

 そうだ、兵六で季節といったら、さつま汁も忘れてはいけない。具沢山のそれは冬場だけこの店で供される、最高に旨い汁物だ。あいにく、四人でお邪魔したその日は、まださつま汁の「解禁日」前だったので、ありつけなかった。
「いつ解禁日という電話もよくありますし解禁日には、ほとんど全部のお客さんが召し上がるんですよね」
 コの字カウンターに座った全員がさつま汁を食べている光景が思い浮かぶ。いつか、そこに混ざってみたい。

兵六あげ

 藤井武美さんがコの字の向かいからもどってきて「いい話をしました」 と満足そうな顔をしてみせた。何を話したのかちょっと気になったが、そういうことは聞かないのが、良い酒場の流儀だろうから、がまんして、ちらりと向こう側を見やると、髭の紳士二人がにこりと微笑んだ。で、盃をもちあげて乾杯した。あんまり楽しくて、そろそろお暇をと思っていたくせに、結局さつま無双と兵六あげを追加で注文した。さつま無双は変わらないが、兵六あげが違う。なかに納豆が入っているではないか。これは油揚げのなかにいろんな具をはさみこんだものだが、皿に盛られた三つの兵六あげのうち一つにしか納豆は詰まっていないという事実を私はその日初めて知った。これまで何度も兵六あげを食べてきて、納豆の詰まっている日とそうでない日がランダムに存在するのだとばかり信じこんでいて、ここのところ、納豆無しの日にばかり当たっていると思ったらそうではなかったのだ。
「たぶん、兵六のことは知ったつもりで知らないことが、この先もずっとあるんでしょうね」
 と、柴山さんに言うと彼はただ微笑んでいた。こういうのをサイコーと言うんだろう。

神保町「兵六」
住所:東京都千代田区神田神保町1-3-2
*店情報は掲載時のものです。

加藤ジャンプ(かとう・じゃんぷ)
文筆家。1971年生まれ、東京都出身。東南アジアと横浜育ち。一橋大学大学院法学研究科修士課程修了。出版社勤務を経てフリーに。著書に『コの字酒場はワンダーランド』(六耀社)、『小辞譚~辞書をめぐる10の掌編小説~』(猿江商會)、『今夜はコの字で 完全版』(集英社文庫)などがある。コの字酒場探検家、ポテトサラダ探求家。これまでに訪れたコの字酒場は数百軒。
Twitter @katojump
【HP】katojump.wixsite.com/katojump

イラスト/タカヤス
1977年生まれ、東京都品川区出身。2014年、小学館「第1回ビッグコミックオリジナル新作賞」で佳作。16年に土山プロダクションに入社し、現在はさいとうプロダクションに所属。
Twitter @takayasu0804

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