コの六 門前仲町「だるま」 加藤ジャンプ「今夜はコの字で~全国コの字酒場漂流記」
ナカチョウの良いコの字酒場
以前、錦糸町の名コの字酒場でこんなことを教えてもらった。
私が「モンナカに良いコの字酒場がある」みたいなことを言ったら、向かいの席の粋な感じの人がこたえたのである。
「モンナカじゃなくてナカチョウっていうのよ、モンナカって言っちゃうのは他所の人、俺は両国」
モンナカあるいはナカチョウとは、門前仲町の略称である。門前仲町は、富岡八幡宮などの門前町というよりは、東京メトロ東西線の門前仲町駅近辺というほうがわかりやすいだろうか。
この錦糸町でのやりとりをベースにしたのが漫画『今夜はコの字で』の第二話。それが、ドラマの1st season 第一話の下敷きになっている。
前置きが長くなったが、件のナカチョウの良いコの字酒場とは、だるま、のことである。ドラマ『今夜はコの字で Season2』では第四話に登場する。
だるまは、地下鉄のナカチョウの駅から地上に出て清澄通りをすこし歩いて深川公園に向かう細い道を歩いた門前仲町二丁目にある。この番地には、あの怪異なことで建築史に名を残している二笑亭も建っていた。二笑亭は、昇れない階段やら壁を黒砂糖と除虫菊の粉末(要するに蚊取り線香の粉)で塗ったりと何もかもが珍奇な住宅だった。
この不可思議な建物には飲兵衛にはどうにも抗えない魅力があるようで、昭和6年に一応竣工しその7年後に取り壊されてしまったが、戦後、その名前を拝借した居酒屋が新橋に登場した。だからなのか、門前仲町に来ると必ずこの建物の話を思い出してぼんやりする瞬間がある。今回、だるまへ行く道すがらも、ご多聞にもれずいつの間にか二笑亭のことを考えてしまい(もちろんマスクはしたままだが)口を開けて歩いていたら、突然傍から現れた女性に
「りんごのジャムとお菓子いりませんか?」
と、声をかけられた。道路に停めたワゴン車から何やら瓶詰めなどを持って、そこそこのスピードでこちらに向かってこられたが丁重にお断りした。こういうとき、人は若干早足になる。スタスタ。そして、見えてきたのは赤提灯と青地に白く「だるま」と染め抜かれた暖簾。ほっ。到着した。
ガラスの嵌められた格子戸を入ると奥に向かって長く伸びたコの字カウンターが現れる。カウンターは茶色の化粧板が張られ木の縁が囲んでいて、大きさの割に威圧感が無いさっぱりしたものだ。
カウンターの内側から二人の女性が笑顔で迎えてくれる。姉妹である。だるまは、姉の理さんと妹の真さんの二人姉妹が切り盛りする。理さんは、仕入れや帳簿など経営面や接客を担い、妹の真さんは料理を一手に引き受ける。
名の知れた姉妹は古今東西に大勢いる。ブロンテ姉妹、ウィリアムズ姉妹、かしまし娘、こまどり姉妹。叶姉妹と阿佐ヶ谷姉妹は"気持ち姉妹"だから除外するとして、著名な姉妹は枚挙にいとまが無い。斯界で名を馳せる酒場姉妹も何組もいるが、ここナカチョウのコの字酒場、だるまの姉妹を知らない飲兵衛なんているのだろうか。
ギリギリまでコク深いのにしつこさは無縁
理さんに促されて、コの字カウンターの奥へと通される。編集のKさんと並んで座ると、姉妹の動きが手にとるように見える。劇場なら特等席である。
理さんと真さんの動きは美しい。無駄がない。だからといって機械仕掛けというのではなく、むしろその極北で、全部の動きに情がある。優しいのだ。
カウンターの内側は調理場になっていて、理さんが幅の広いカウンターをひっきりなしに往復しながら並んだ客達の注文をさばくが、そのたびに笑顔があって、なにかのきっかけに会話をする。一方、黙々と飲みたい客には、忍者のように気配を消すくらいに静かに接する。
真さんはというと、たくさんの料理をこなしつつやっぱり微笑みが絶えない。時々、料理の手を休めた真さんもさっとカウンターのほうにやって来ておしゃべりをする。そういう時、理さんはビールをジョッキに注いだり作業をしている。そうやって何気なくポジションを入れ替えたりしつつ、二人は店全体を見据えている。かつてのサッカー・フランス代表のヴィエラとマケレレくらい完璧なリレーションである。
その日は、まず生ビールをもらって、ツマミに牛モツ煮込みをいただいた。
店ではいつも大鍋の中でこれが煮えている。その香り、缶詰にして売れると思う。モツ煮込みというが、材料は大腸と小腸だけ。綺麗に下ごしらえしたモツだからこそ、香りに雑なものが混じらない。無駄を削ぎ落としたモツ香りには、グイッと人の食欲をウィンチで引っ張り上げるような、良き野趣がある。そこに味噌の香ばしさ、さらにザラメの微かに甘い香りがしっかりと交わって、太く旨い香りの川が店内を滔々と流れている。その流れに身を委ねているうちに、目の前に一人前の煮込みが出される。こんもり盛られたモツ。あふれるようなネギの冠をいただいたそれは、コクという名の峻峰。こんな場所にも美しい山がある。ちょっと意味は違うが、なんとなく「人間到る処青山あり」と思いだす。そしてレンゲで一すくい、バクリ。大腸の歯応えと小腸のフワフワ。そのリズムが舌を踊らせる。味噌の塩味と重層的な甘味にくわえザラメのストレートな甘味のバランスが至妙。そこに、ひっそりとタマネギの柔らかな甘味と出汁がくわわり、ギリギリまでコク深いのにしつこさは無縁。だから、すいすいイケるし、それでいて満足感がある。たまらない。店内のBGMの大瀧詠一のA LONG VACATIONのウォール・オブ・サウンドな感じの、あの分厚くきらめく質感が、この煮込みとかさなる。つまり、傑作なのである。
ここでたまらずレモンハイを注文した。濃厚な煮込みと酸っぱくて爽やかなレモンハイを交互に呑もうというのだ。
だるまのレモンハイは、ソーダと焼酎だけが供され、あとはカウンターのレモンコンクを自分でいれるスタイル。酸っぱいのが好きな私は、気持ち多めにレモンコンクをグラスに注ぐ。丁度良い。
レモンハイで勢いづいてしまったのか、もう一皿酸味のきいた、アジの南蛮漬けを頼んだ。
これが、また出色なのである。
大ぶりのアジはパンパンに身が張っている。これをしっかりと揚げて、南蛮酢でマリネしてある。きっちり酸味がありつつ、仕上がりはマイルドで喉に立つようなことはない。身はほろほろになり過ぎず、しっかり歯応えもありながら、骨までガブリといける。揚げてザクリとした表面としっとり脂ののった身。そこへ南蛮酢のすっきりした味わい。
これはキロで食べられる南蛮漬けである……と思うが、だるまの一皿は大きい。マッシブ。ゆえに自分のキャパシティと相談しながら注文をしないと後々困ることになる。編集者のKさんとしばし相談する。で、やっぱりアレと、ある一品に落ち着いた……。
「つくね、いっぱつ!」
ところで、だるまでは、注文のとき一風変わった符丁が使われている。さきほどのレモンハイのオーダーのとき、
「レモンハイください」
「はい、レモンハイ、一発」
と、こたえてくれるのである。一丁でも一杯でもなく一発が、だるまのやり方なのである。
「この言い方はね、昔、近くに商船大学があってそこの生徒さんたちが始めたみたい」
と、理さんが教えてくれた。店の歴史は40年を越えるが、姉妹が店に出るようになったのは15、6年ほど前からのことだ。創業はもっと古くて昭和51年。先代で、二人の父、江家 脩さんが脱サラして開業した。
客の雰囲気も店の装いもずいぶん違っていたらしい。カウンターもかつては、コの字の真ん中が長くて背が高かった。それを今の形に変えて、店の奥にテーブル席も設けた。その改装の理由は姉妹にもわからないが、今のコの字カウンターは、肘のあたる位置や奥行きもふくめ、素晴らしく心地良い。これがもう少し背が高いと配膳もし難いだろうし、改装して大正解である。
「父は商売なんて考えたことのなかった人だから、母も随分苦労したんですよお」
と理さんが、くすくすと笑いながら教えてくれた。その、母、つまり先代の女将さん直伝の一品を、その日の最後の肴にした。
「つくね、いっぱつ!」
と返事があってからほどなくして現れたのは、大ぶりな、つくねというより、ほとんど小ぶりなハンバーグという出立ちの一皿。これを見てすぐに、日本酒を注文。結局、ここから何発か空にした。
さて、件のつくね。鶏を歯触りを残す程度にミンチ。生姜とネギが効いていて、噛んで身が崩れると、するすると喉を通っていく。串に刺さった焼き鳥屋のつくねよりも、ほろほろ感があって、匙を使わずに食べられる大人のそぼろ、という趣がある。最高だ。まだまだ食べたいが、腹は一杯。メニューは40くらいは常時ある。あとは、真さんがリクエストにこたえてアドリブで作る料理が無数。何回来ても飽きるわけがない。
帰り際、混雑していないと、姉妹が見送ってくれる。
「ドラマの撮影があって、母も喜んでいて。でも放送の少し前になくなってしまって、見せてあげたかった」
理さんが教えてくれて、傍に真さんが頷いていた。また、来ますと約束した。
なぜだか、もう一言、言葉をかわしたくなって「だるま」という店名の由来を聞いたが、二人とも知らなかった。
帰り道、命名の由来をもう一度想像してみた。たぶん、気分が良過ぎて手も足も出なくなって「だるま」になってしまうからなのだろう、と思ったが、Kさんには言わなかった。同じようなことを思っていそうな気がしたからだ。