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伊賀越えチャレンジ!最終日は、最大の難所、峠越えへ【最終回】黒澤はゆま

■徳永寺から加太峠

伊賀越えのルートをすべて徒歩で歩くということは失敗したが旅はまだ続く。戦国飯だけで3日過ごし、兵糧丸の効果を試すという、実験は続行中なのである。

ホテルのふかふかの布団で、ぐっすり眠ったことで、結構、疲れは取れた。
寝袋やジェットボイルなど、用済みのものは家へ送ったので、ザックも軽くなる。あとは靴を変えることが出来れば最高なのだが、近隣に靴屋がないのでこちらはあきらめる他ない。

まず、伊賀上野駅から柘植(つげ)まで電車で行き、8時22分、徳永寺にたどりついた。

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柘植は伊勢と伊賀を分かつ加太(かぶと)峠の麓にあり交通の要衝である。
音羽郷での一揆の襲撃を辛くも切り抜けた家康は、徳永寺にたどりつくと、峠越えのための身支度をし、一服して体力を養ったという。ここで一泊したという話もある。

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いずれにせよこの縁で徳永寺は葵の紋を許され、江戸時代を通じて幕府からの手厚い援助を受けた。
今でも、朝も早いうちから檀家さん達が境内を掃き清めていて、盛んなお寺のようだった。

兵糧丸を寺の門前で二つ食べ、さぁ最後の旅スタートである。
柘植の集落を抜け、大和街道と重なる、国道25号線を進む。
道は緩やかな昇りで、関西本線がつかず離れず並走している。電車が時々通るのが、なかなか旅情があってよい。伊賀から伊勢へ出るには、別のバイパスがあるので、車はそちらへ行くようだった。サイクリストの姿をちらほら見るばかりで、とにかく静かな道である。
昇るにつれ、両側から木陰が迫り、加太川のせせらぎの音も涼しさをいや増す。

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どうも歩き旅というのは3日目から、体が慣れてくるらしい。足の痛みは変わらずだが、体の奥で、何かギアが入った感じがする。
3日間の旅のなかで徳永寺から加太峠までの道のりが一番楽しかった。
山道に沿ってお地蔵様があちこちにあり、その中には、家に残してきた、我が子の寝顔とそっくりなものもあった。お顔を見ていると、胸が迫るようで、しばしたたずんでしまった。滅多に人は通らないはずなのに、備えている花が新鮮で美しいのも嬉しい。こんな山奥で優しい信仰に触れたようだった。

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伊賀越え最大の難所と言われる加太峠だが、実は緩やかな峠で、1時間半ほどでついてしまった。
知らなかったが、加太峠は、鉄道の聖地で、加太の大築堤、加太駅、大和街道架道橋など、鉄道遺跡と呼べるものがたくさんある。蒸気機関車が健在の頃は、峠を越えようとする雄姿を一目見ようと、日本中の鉄道マニアが集まったという。

峠には街道に沿って、家々の並ぶ小さな集落もある。辺鄙な場所だが、家は皆立派で、行き交う人も余裕のある表情をしていた。自動販売機でペットボトルの水を飲んでいると、背の高い老人が「熱射病に気を付けて頑張って」と励ましてくれた。
日本を旅して感心することは、どんな場所にでもカラオケスナックがあることだが、このこじんまりした集落に一つもあった。看板がなければ普通の民家にしか見えない店で、ドアに「酔っ払いお断わり」という貼り紙がしてあるのがおかしかった。素面で歌ってもつまらないと思うのだが、加太では真面目に歌って神妙に聞くのが決まりなのだろうか。
鉄道にカラオケスナックと、呑気なことばかり書いてあるが、戦国時代、加太は「山賊どもの栖(すみか)」で、伊賀越えのルートのなかでも、最も危険な場所の一つだった。
この集落に住む、穏やかな人たちも、ひょっとしたら山賊の子孫なのかもしれない。

ただ、ここまで来ると、供廻り、多羅尾光俊の子息らに加え、柘植村の衆、200、300人と、甲賀衆の武島大炊助(おおいのすけ)、美濃部清洲之助ら100名余りが従っており、家康の戦力も結構、充実していた。『改正三河後風土記』によれば、特に何事もなく、峠を超えたという。

私も加太越えは険しいものと思い込んでいたので、何となく拍子抜けだった。
加太を抜けると、あとは麓の関宿(せきじゅく)までずっと下り坂が続く。スポーツサイクルが傍らをシャーと心地よげに走り抜けていく。昇りがたいしたことなかったのだから、下りはさらに楽勝だろう。
関宿までは一跨ぎで行けそうである。

■加太峠~関宿

駄目だった。
昇りは朝方だったので木陰があったのだが、昼が近づくにつれ木陰はなくなり、激しい日差しを直に浴びた。
汗を大量にかくと、足もつりやすくなる。
ペットボトルの水もどんどん減っていく。
言い忘れていたが、『雑兵物語』に書いてある、梅干しを思い起こして湧く唾で、咽の渇きがいやされるという話は大嘘である。
脱水症で死ぬだけ。
とにかく大事なのは水である。
幸い加太川が近くを流れている。生水はいけないと『雑兵物語』に書かれてあったが、もうこの際、どうでもいい。

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わずかな木陰で息をつき、時に加太川の水をかぶって、体を冷やしながら2時間歩き続けた。
こむら返りをおこして、何度も道路に倒れ込んだので、まさに七転八倒の2時間。
朦朧とした意識のなか、ようやく関宿に至り、連載の冒頭の無料休憩所にたどりついたわけである。

別に空調はないのだが、畳敷きの無料休憩所は涼しく、心地よかった。
ザックを枕に目をつぶると、すぐ眠りに落ちて、気づけば1時間ほどたっていた。
ログを見ると、柘植の徳永寺から14.64キロ歩いている。
正直、もう指一本動かしたくないのだが、関宿内にある瑞光寺まではもうちょっと。
せめて、そこまでは行きたい。
また、登山靴をはくのに相当な覚悟がいったが、えいやと立ち上がり、再び、激しい日差しのなかに身をさらした。
ちなみに、この日、三重の最高気温は31度だった。

■関宿

旧東海道は、かつてこれが日本の幹線道路だったことが信じがたくなるほど狭い。
その細い道をちょっと進むと、江戸時代にタイムスリップしたような景色が目に飛び込んでくる。
虫籠窓、出格子、ばったり(折り畳み式の縁台)。
古い町屋が並ぶ、時代劇そのままの街並みである。

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白子まで歩くのをあきらめ気が楽になったこともあるだろうが、現金なもので、この光景を見て、疲れが吹き飛んでしまった。
関宿がかつての宿場町の面影を残す街だということは知っていたが、ここまで古い町並みが保存されているとは思わなかった。
また、歩いてきたおかげで、かつての旅人にとって宿場町が、どれほどうれしく、有難い存在だったかということを、骨身に染みて理解することが出来た。

関宿は古代から交通の要衝で、もとは鈴鹿関と呼ばれていた。
軍事的にも重要な拠点で、壬申(じんしん)の乱の際、大海人(おおあまの)皇子はここに兵を置き、大友皇子の軍が近畿から出られないようにしている。
武士の時代になってから、当地は伊勢平氏の末裔である関氏が統治した。
伊賀越えの時の当主は、関盛信という人物である。
彼は、こうした、土地に根付いた古豪にありがちな独立不羈(ふき)な性格の持ち主だったようである。
信長の3男・神戸信孝に従っていたが、不和だったため、信長の怒りを買って勘当にされたという話が残っている。近江日野城に預けられていたが、大人しく謹慎するようなたまではなく、近江一の謀将という声望があった樋口直房が、秀吉の怒りを買って、甲賀へ逃げ延びようとしたところを討ち取っている。腕もたったのだろう。
伊賀越えの頃には、信長の怒りも解け、再び関の領主に戻っているが、彼と家康が伊賀越えの際に会ったという伝承は残っていない。
盛信は復帰後、再び信孝付きになっているので、信孝とともに、四国攻めの準備のため堺にいたのかもしれない。

瑞光寺は東西に細長く伸びる関の街並みの真ん中、旧東海道から少し北に入ったところにある。境内には、柿の木があり、その前に写真のような看板が立てられていた。

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それによると、この柿は家康が寺に立ち寄った際に食べたものだという。
伊賀越えの時の話なら面白いが、看板には上洛の時と書かれてある。それに、そもそも伊賀越えは旧暦の6月、初夏の話なので、季節がまったくあわない。
当時、同寺の和尚だった永隆が、三河出身で、家康とは幼馴染だったということなので、その縁で家康は同寺を訪れたのだろう。権現柿の逸話から、伊賀越えの後も、上洛の際はこの寺を立ち寄るようにしていたことが読み取れる。
伊賀越えには間に合わなかったが、その翌年、盛信が中町を築き、それが現在の街並みの基礎となった。そして、慶長6年(1601)正月、幕府が東海道の各宿に対して、徳川家康の伝馬朱印状と、伊奈忠次、彦坂元正、大久保長安の連署による「御伝馬之定」を交付し、東海道が成立、以後、関宿は宿場町として順調に発展していく。
家康も整備されていく関宿の街並みを見ながら、「伊賀越えの時にこうだったら随分楽だったのになあ」と、こぼしたのかもしれない。

■そして白子へ

関宿は観光気分でつい長居してしまった。
15時半頃、JR関駅から電車に乗って白子に向かう。
歩いたら1時間も2時間もかかる景色がどんどん後方に過ぎ去っていく。クーラー付きの箱に乗ってれば勝手に目的地に着く。なんて幸せなことだろう。魔法のようだ。文明万歳である。

関宿を出立した家康は一路西に向かい、白子浜から船上の人になった。
ずっと付き従ってくれた、山口兄弟をはじめとする、伊賀・甲賀衆ともこの地で別れを告げたという。
ただ、白子の海岸のどこから家康が出港したのかよく分からない。駅前に観光協会があったので聞くと「自分たちも分からない」という回答だった。

ただ、郷土史家の赤江作久良という方の書かれた「白子の小川孫三と家康の伊勢湾渡海」というパンフレットを紹介してもらった。
それによると、すでに源平の時代には、同地の古市に平家の水軍があり「白児党」と名乗っていたという。湊としての歴史は相当古いようだが、このパンフレットにも、どこまで港湾施設が作られていたかは分からないということだった。

観光協会の人は「今の白子港に行ってみてはいかがでしょう。そこから見える海岸のどこかから家康は出港したんじゃないか」と言ってくれたので、現在の、白子港へと足を運んだ。

白子の人は家族で釣りに行くのが好きなようで、港は家族連れの釣客で一杯だった。親が釣り糸を垂らす後ろで子供たちが元気一杯走り回っている。
築堤の先端に向かう途中、そうした子供の一人から話しかけられた。
3歳か四歳の子供で、父親の後ろで折り畳みの椅子に座っている。
舌足らずで、何を言っているか分からなかったので、微笑んだだけでやり過ごしたところ、追いかけてきた。
「こんにちは」
どうも挨拶していたようである。これは私の方が失礼だった。
「こんにちは」
と返すと、うれしそうに笑って、また父親の後ろの椅子に戻っていった。
のんびりとした時間の流れるよい町である。

赤江氏のパンフレットによると、白子の住人の小川孫三という人物が、逃げ延びてきた家康を麦わらに隠し、知多まで船で送り届けたという。
先述の通り、家康は伊賀・甲賀衆の支援を受けており、加太越えの段階で相当な大人数になっていたはずである。今更、麦わらに隠して匿う必要があったとは思えないが、小川孫三のように、白子町の人々は、陰に日向に家康を支援してやったのだろう。
この穏やかな人々がその子孫たちだと思うと、港ののどかな景色も感慨深いものがある。
築堤の先端につくと、堤に腰掛け、海を眺めながら、兵糧丸を食べた。

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やっぱり、酸い味がする。干したら長期保存できるという話だったが、干し方が甘かったのかもしれない。
実際の家康の旅はもう少し続くが、すでに危険の去った、自領での旅である。

兵糧丸を食べるのもこれで最後。
「伊賀越え」でなく「ほぼ伊賀越え」になってしまったが、今回の旅は、ここに終了である。

結局、兵糧丸は1日目に6個、2日目に9個、3日目に5個、合計20個食べた。
歩行距離は、1日目が36.3キロ、2日目が36キロ、3日目が25.49キロ、合計97.79キロであった。
消費カロリーは1日目が5,203カロリー、2日目が5,548カロリー、3日目が3,397カロリー、合計14,148カロリー。
兵糧丸の外に食べたものは、糒1合、梅干し6個、芋がら縄3切れ、ミカン5個、それから、ペットボトルのポカリ250ccと、バヤリースオレンジ250cc。
先に話した通り、日本軍の1日当たりの行軍距離が24キロであるから、素人の徒歩旅の距離としては、まぁまぁの結果ではないかと思う。そして、他のものを少しは食べたが、旧軍以上のハイペースな旅を支えるだけの栄養分を兵糧丸が備えていることは、今回の旅で確かめることができたように思う。

一応、ネガティブな面も改めて触れておく。
旅の途中、果物や野菜が無性に欲しくなることがあったので、ビタミン分が不足しているのかもしれない。また、結構、重いし嵩張る。家に返ったあと、正直もう見たくもなかったので、部屋の隅に転がしておいたら、1週間もたたないうちに黴が生えていた。案外、長期保存にも向かないのかもしれない。
そうした弱点も考慮の上なら、旅のお供になかなかなアイテムである。

■おまけ 四日市

白子の後は、四日市で宿を取った。
ホテルの部屋で荷物を降ろし、登山靴を駅前の靴屋で買ったサンダルに履き替えると、背中に羽が生えたようだった。
街に繰り出し、焼肉屋に突撃する。
まずは生ビールをひっかけた。昔見た映画で、砂漠をさ迷っていた旅人が、オアシスを見つけ、泉に顔を突っ込んでごくごく音を立てて水を飲むシーンがあったが、この生ビールのうまさはそれに匹敵した。
3日ぶりのアルコールに細胞がプチプチ音を立てて喜ぶ。
焼肉も素晴らしかった。
塩タン、上カルビ、上ロース、ハラミにツラミ、センマイ、レバー……。
肉は美味い。美味しい。脂が焼ける音程甘美なものはなく、その匂いに至ってはもはや麻薬である。
丹念に焼いたものを、ご飯の上でワンバン、ツーバン、ご飯とともに書き込むと、タレと肉汁、そして米の甘味が、口のなかで絡みあい、ほっぺが顎ごと落ちそう。

戦国時代の食を追ってつくづく分かった。
現代日本は何と豊かなのだろうか。
選択があることの幸福。
色々あるが、結局、今が一番幸せな時代である。
焼肉万歳。
生ビール万歳。
現代日本、万歳である。
何でも食べられる、この幸運が永遠に続くことを願いながら擱筆とする。

(連載:戦国飯とともに「家康の伊賀越え」に挑む! 了)

【著者プロフィール】
黒澤はゆま(くろさわ・はゆま)
歴史小説家。1979年、宮崎県生まれ。著者に『戦国、まずい飯!』(集英社インターナショナル)、『劉邦の宦官』(双葉社)、『九度山秘録』(河出書房新社))、『なぜ闘う男は少年が好きなのか』(KKベストセラーズ)がある。好きなものは酒と猫。


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