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理解はアダとなる──『ことばの番人』髙橋秀実

作家・髙橋秀実さんの「校正」をめぐるノンフィクション『ことばの番人』。雑誌「kotoba」で連載したのち、2024年9月に書籍を発売して以来、多くのメディアで取り上げられ、続々重版。校正のないSNS文化が蔓延するなかで、日本語の劣化を危惧された著者の渾身の作です。

5刷の重版を記念して、本書第一章より一部抜粋して、お届けいたします。
※髙橋秀実さんは、2024年11月13日にご逝去されました。心よりご冥福をお祈りいたします。

 境田(稔信)さんは一九五九年、千葉市生まれ。高校時代は陸上競技部で活躍し、本人としては「安易に」大学も体育系に進学するつもりだったという。ところが受験で失敗し、「そこから初めて進路を具体的に考えて」専門学校の日本エディタースクールに入学。実は高校では文芸部にも所属しており、同人誌の編集や校正も担当していたらしい。

「当時の校正の仕事は、元の原稿と組版の試し刷りの照合です。原稿と合っているかどうかを確認するのが校正。校正の『校』は訓読みすると『くらべる』ですからね」

──元の文章とくらべるわけですね。

「はい。これはとにかく集中力の仕事でして」

──集中力なんですか?

「内容は理解できなくてもいいんです。とにかく文字、いや文字が読めなくても形をきちんと見る。必要なのは集中力と体力なんです」

──理解できなくてもいいんですか?

「著者や読者は文章を読んで内容を理解しますよね。校正の場合、内容を理解しようとすると、かえって誤植を見落としてしまいます。実際の話、原稿照合は東大卒より高卒が向いていたくらいですから」
 文章を理解してはいけない。「理解」とは「理ヲ說キ分クルコト」「ノミコムコト」(前出『新訂 大言海』)。文章を飲み込み、その理を分別することで、読む側が勝手にすることなのだ。そういえば私も人の文章を引用することがあるが、大抵は写し間違える。内容を理解し、勝手に直してしまうのである。文章を理解すると、その理解に沿って文章が読めてしまう。文字ではなく理解を確認してしまうのだ。
 文章は文字の連なり。一種の模様のようなもので、校正者は模様を照合するのである。

『ことばの番人』

「平成に入った頃に、活版印刷からコンピューター写植に替わってきました。次第に原稿もテキストデータで送られてくるようになると、原稿照合の仕事はなくなります。その代わり、原稿の事実確認などが求められるようになったんです」

 誤字脱字はもちろん、固有名詞などのチェック、そして事実関係の確認。「校正」というより「校閲」になるのだが、根拠になる辞書や資料と「くらべる」という点では変わらない。通常は疑問を感じた箇所を確認するのだが、境田さんの場合は読んでいて疑問を感じない箇所でも、すべて確認するという。

「もともと私はどんなに当たり前の言葉でも、最初は全部辞書を引いていたんです」

──ぜ、全部ですか?

 私はのけぞった。境田さんは何事も「全部」調べるのだろうか。

「自分の知識不足を補うためでもあるんですが、やはりきちんと確認しておきたい。校正というのは確認作業ですからね」

 確かに「わかっている」と思っていることこそ危ない。それゆえ全部引かないと気が済まなくなるのもわからないではないが、全部の言葉を全部の辞書で引くというのは、考えただけで気が遠くなる。

「とりあえず小型の国語辞典を引いてみるんです」

 手軽に引く。「一般的」理解の確認なのだろうか。

「そこで『あれ?』と思うことがあります。これで本当にいいのかなと。だんだん不安というか不満になってきて、じゃあ別の辞書を引いてみよう、満足できないから大型の国語辞典も確認しよう、というふうに展開します。だから時間ばかりかかってしまう」

 例えば、「修正液」という言葉。私などはそのまま素通りしそうだが、境田さんは「あれ?」と思ったらしい。そこで調べてみると、『三省堂国語辞典』の初版(一九六〇年)には「修整」の用例として「しゅうせい液」が出ていた。つまり「修正液」ではなく「修整液」だったのである。同じ辞書の第二版(一九七四年)では「謄写版やタイプで間違えた字を消す液」と説明されていたのだが、第四版(一九九二年)では「謄写版やタイプで」という限定が消えて、第五版(二〇〇一年)では「修正」の項目に移動していた。つまり「修整液」は徐々に「修正液」に修正されていったのである。

「今となっては『広辞苑』『大辞林』『大辞泉』、どれを引いても『修正液』です。なぜかというと、一九七〇年に日本で『修正液』と銘打った商品が発売され、各社もそれにならって『修正液』として売り出したからなんです」

──商品名に合わせたんですか?

「液を塗っても字が消えるだけで修正されるわけではありません」

 力説する境田さん。確かに液で正すわけではないのだ。

「あくまで修整する液なので私は『修整液』が正しいと思うんですが、みんなが『修正液』だと思っているので、今の国語辞典では『修正液』になっているんです。ただし、新聞・通信社系では、文具と写真用とで使い分けます」

 たとえ意味が間違っていても、みんなで使えば正解になる。誤用も用例。多くの誤用がやがて正当性を得るのだ。

日本初の近代的国語辞典『言海』や『広辞林』のコンパクト版『小辞林』が並ぶ(ほんの一部)。

「極め付け、ってよく聞きますよね」

 続ける境田さん。

「校正をしていて、『極め付け』と出てきたんですが、正しくは『極め付き』じゃないかと思ったんです」

──極め付き、極め付け……。
 あらためて問われると、どちらも間違っているような気がする。

「実はこの『極め』というのは骨董品などの鑑定書のことなんです。『折り紙付き』という言い方もあるように、鑑定書付きのことを『極め付き』と言うんですね」

 正解は「極め付き」らしい。しかし境田さんが調べたところ、一七点の国語辞典のうち、六点が「極め付け」を見出し語にしていたという。「極め付き」という見出し語に「極め付け」が付記されていたのが三点。「極め付け」を誤りだと指摘していたのは『大辞泉』の第二版(小学館 平成二四年)と『新選国語辞典』の第九版(小学館 平成二五年)だけだったそうである。『大辞泉』は「『極め付け』とするのは誤りだが、慣用で使われることもある」と補説しているのだが、その電子版である『デジタル大辞泉』では「『極め付け』ともいうが、本来は、『極め付き』は事物等に極め書きがついていること、『極め付け』は事物等に極め書きをつけることをいう」に変更されているという。つまり誤りだった言葉が、慣用されることによって新たな用法を得たというわけなのだ。まるで国語学的な発見のようで、ここまで調べると、境田さんは辞書で校正しているというより、辞書を校正しているのではないだろうか。

──それで校正としては、どうされたんですか?

「その時は『極め付け』という言葉に『極め付き?』と付けました。明らかな間違いではないけれども、念のため本来は『極め付き』ではないかという指摘です。『幕あけ』も本来は『幕あき』ですけれど、今は『幕あけ』が一般的になってきました。だから、本来は『あき』だという必要はありません。新聞・通信社系では、演劇などで実際に幕が開く場合のみ『幕あき』です。もっとも、戦前の場面で『幕あけ』が出てきたら、『幕あき』ではないかと指摘しますけどね」

──そこまで調べるんですか……。
 私が溜め息をつくと、彼がつぶやいた。

「どんなに校正しても、最終的には著者や編集者がこれでいいんだと言えば、それで本になります。私たちの指摘は却下されれば、それで終わりです」

 どんなに正しい指摘をしても、却下されれば終わり。それに何の指摘もない校正は、何もしていないということではない。調べた上で問題がない。あるいは調べすぎて正誤が反転し、指摘できなくなることもきっとあるのだろう。
 正しい指摘とは何か。
 境田さんの話を聞きながら、私は考えさせられた。「校正」というくらいなので、正しい方向に導くことなのだろうが、そもそも「正しい」とは一体、何なのだろうか。どういうことを「正しい」というのだろうか。

髙橋 秀実(たかはし・ひでみね)
1961年、横浜市生まれ。東京外国語大学モンゴル語学科卒業。テレビ番組制作会社を経てノンフィクション作家に。『ご先祖様はどちら様』で第10回小林秀雄賞、『「弱くても勝てます」開成高校野球部のセオリー』で第23回ミズノスポーツライター賞優秀賞を受賞。『はい、泳げません』『おやじはニーチェ認知症の父と過ごした436日』など著書多数。

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