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正誤ではなく違和──『ことばの番人』髙橋秀実
作家・髙橋秀実さんの「校正」をめぐるノンフィクション『ことばの番人』。雑誌「kotoba」で連載したのち、2024年9月に書籍を発売して以来、多くのメディアで取り上げられ、続々重版。校正のないSNS文化が蔓延するなかで、日本語の劣化を危惧された著者の渾身の作です。
5刷の重版を記念して、本書第一章より一部抜粋して、お届けいたします。
※髙橋秀実さんは、2024年11月13日にご逝去されました。心よりご冥福をお祈りいたします。
──具体的に校正はどうやって進めるんですか?
私はあらためて校正作業の手順をたずねた。
「原稿照合の後、まずは素読みです」
即答する(校正者の)山﨑(良子)さん。「素読み」とは、もともと「書物の意味・内容を考えないで、ただ機械的に文字を音読すること」(『日本国語大辞典〔縮刷版〕第六巻』小学館 昭和五五年)を意味していたらしいが、校正用語としては元の原稿などとくらべることなく、ゲラだけを読む。素のものとして素直に読むのだ。
「読みながら内容をチェックする人もいるそうですが、私は文章そのものをそのまま最後まで読みます。その途中で危ないと思った箇所に付箋を貼っておくんです」
──どういう箇所が危ないのですか?
「数字と固有名詞です」
山﨑さんはきっぱりと断言した。〇〇年などの数字と地名などの固有名詞。歴史関係の書籍になると毎行どちらかが出てくるので毎ページに付箋となる。数字と固有名詞は明らかな間違いを生む存在らしく、「ここで間違えてはいけないんです」と彼女は念を押した。
「固有名詞はミステリー小説でもよく使われます。殺人事件は実在する場所でも起こるんですが、そこで固有名詞が使われます。そうなると遺体が発見された場所などにも間違いが生まれる可能性が出てきますよね。固有名詞が使われると、それに付随して時系列や位置関係などを調べなくちゃいけなくなる。そう、ミステリー小説の場合は時系列の矛盾には注意しますね」
ある編集者から聞いた話だが、前の章で死んだはずの人物が次の章で何食わぬ様子で登場したりすることもあるらしい。そうなると別次元のミステリーになってしまうわけで、ミステリーの本筋を守るのが校正なのだ。
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──恋愛小説の場合はどうなんですか?
「ストーリーに矛盾がないか、単純な誤植や漢字の使い方、あとは送り仮名くらいですかね」
──そんなふうに恋に落ちることはありえない、というような間違いはないんですか?
「ないです」
山﨑さんは肩をすぼめた。間違った恋愛はない。恋愛そのものが「あやまり」(前出『新訂 字訓[普及版]』)なのだから。
「最近は恋愛小説より時代小説が増えているんです。舞台は江戸時代が多いのですが、言葉がだいぶ乱れておりまして。現代の言葉が混入したり、あまりにかしこまりすぎた言葉を使っていて、突っ込みどころがいっぱいあります」
時代小説は校正しがいがあるようだ。例えば武士の一人称。江戸時代に武士同士が会話する時に使われていたのは「身共(みども)」という言葉らしい。自分のことを「拙者」と呼ぶのは許容範囲だが、「余は構わぬぞ」などと「余」と呼ぶことは不自然なのでチェックを入れるという。武士が「○○でござる」と言うのはOKだが、「○○でござりまする」は丁寧すぎるのでチェックを入れる。町娘が自分のことを「わたし」「あたし」と呼ぶのは自然だが、武家のように「妾(わらわ)」と呼ぶはずがないのでそれもチェックを入れるそうだ。
──しかし、江戸時代の本当の言葉遣いというのは……。
「わかりません。わかりませんが違和はあるんじゃないかと思うんです」
正誤ではなく違和。違和感ではなく違和。あらためて調べてみると、「違和」とは「調子が変になること」(『日本国語大辞典〔縮刷版〕第一巻』小学館 昭和五四年 以下同)で、下手をすると「心身の調和が失われること」であり、「病気にかかること」もある。違和は体によくないのだ。
おそらくこれは言葉の力だろう。人類学者のマリノウスキーがこう指摘していた。
言葉はそれ自身の力をもつ。それは事物を生ぜしめる手段である。
(ブロニスロー・マリノウスキー著「原始言語における意味の問題」/C・K・オグデン、I・A・リチャーズ著『意味の意味』石橋幸太郎訳 新泉社 昭和四二年)
言葉は表現の手段ではない。事物や思想を言い表わすのではなく、事物をそこに出現させる手段なのである。例えば、子供は食べ物を求める時に「まんま」などと叫ぶ。母親を求めて「ママ」と叫ぶ。言葉にすればそれが出現する。言葉が事物を生じさせるという経験を積みながら語彙を習得していくわけで、大人になっても「花」という字を見れば、そこに花のイメージが出現する。字が間違っていると、その事物は出現せず、「調子が変になる」のだ。
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ちょうど片付けた後で、普段はこの倍くらいの資料があるそうだ。
「でも言葉は生き物ですからね」
──生きている?
「そうです。例えば『えんごしゃげき』も、正しくは『掩護射撃』ですが、今は『援護射撃』も許容になっているので、それはそれでOKなんです。『掩護射撃』とすると、かえって違和が感じられることもあります。『シミュレーション』も話し言葉では『シュミレーション』と言ってしまわれる方もいますしね」
私もてっきり「援護射撃」「シュミレーション」が正解かと思っていた。そう、校正の難しさは、本来は正しい言葉に違和があり、間違った言葉に違和がなかったりすることなのだ。ちなみに間違った言葉の使い方を「誤用」と呼ぶが、誤用の対義語は「慣用」。正しい使い方ではなく、慣れ親しんだ使い方なのである。
誤用の実例を多数収録した『新編 日本語誤用・慣用小辞典』(国広哲弥著 講談社現代新書 二〇一〇年 以下同)などを読んでみると、例えば、「いまごろの若者は」という文章の「いまごろ」は誤用らしいのだが、「この文脈ならば『いまどき』とするのが慣用である」と指摘する。「喝采を叫ぶ」も誤用で、「『喝采をする』のなら分かるけれども、『喝采を叫ぶ』とは普通言わない」とのこと。判断基準は正誤ではなく、「普通言う」か否か。たとえ誤用であっても、普通に言われるようになって「誤用の域を脱したと考え」られることもあるのだ。かつて「とても」は「とても敵かなわない」というように必ず否定的な表現を伴う言葉だったのだが、今では「とても素晴らしい」などという。かつての誤用が、いつの間にか慣用になっており、これを「間違っている」と指摘すると、それこそ間違いになってしまうのである。「幼少の頃」という言い方も然り。私もよく使うフレーズなのだが、『大辞林 第三版』(三省堂 二〇〇六年)などは「幼少」について、こう記している。
自分のことについては用いず、偉人・貴人について用いる
つまり「私が幼少の頃は」は間違い。校正者としては「幼少」に×を入れて、「本来使えません」と指摘することもできるが、今や誰であろうと「幼少」は使われるようになっており、誤用の域を脱しているので指摘すべきではない。現時点で普通か否かを判断するのが校正であり、となると校正者に求められるのは普通の人であることなのだ。
普通か……。
私は溜息をついた。近頃はなんでもかんでも「超」や「めっちゃ」を冠して意味を増幅させる。あるいは東日本大震災のことを「3・11」と数字化したり、レベルがちがうということを「レベチ」、アーティスト写真を「アー写」などと無闇に略したりする。「タイパ(タイムパフォーマンスの略)」的に物事を素早く処理したいという経済効率が先に立つようで私などは許し難いのだが、普通に使われているのであれば、それも受け入れなくてはいけない。校正には妥協や忍耐も必要なのだろう。
髙橋 秀実(たかはし・ひでみね)
1961年、横浜市生まれ。東京外国語大学モンゴル語学科卒業。テレビ番組制作会社を経てノンフィクション作家に。『ご先祖様はどちら様』で第10回小林秀雄賞、『「弱くても勝てます」開成高校野球部のセオリー』で第23回ミズノスポーツライター賞優秀賞を受賞。『はい、泳げません』『おやじはニーチェ認知症の父と過ごした436日』など著書多数。