第14回 記憶の中の顔(前編)
新型コロナウイルスに関係する内容の可能性がある記事です。
新型コロナウイルス感染症については、必ず1次情報として厚生労働省首相官邸のウェブサイトなど公的機関で発表されている発生状況やQ&A、相談窓口の情報もご確認ください。またコロナワクチンに関する情報は首相官邸のウェブサイトをご確認ください。※非常時のため、すべての関連記事に本注意書きを一時的に出しています。
見出し画像

第14回 記憶の中の顔(前編)

なぜ人は「顔」にこだわるのだろう

顔は、その人のアイデンティティを証明するものなのでしょうか?

パスポートや運転免許証といった身分証明書には、顔写真が必ず貼られます。海外旅行でのパスポート確認などでは、自分の顔と写真とをじろじろと見比べられるのが常ですが、よく考えると変な話です。

そもそも目の前にいる人の顔と、顔写真が同じように見えたら、かならず同じ人であるという保証はどこにもありません。

画像5

たとえば、顔は今の時代、整形手術でかなり印象を変えることが可能です。
また一卵性双生児のように顔がまったく同じであっても、別人であることもありえます。その人のアイデンティティを証明するものとして、顔写真を使うのはかならずしも合理的とは言えません。

さらに言えば、顔写真と比較すると言っても機械などを使って精密に比較しているわけではなく、漠然とした印象で本人かどうかを決めているのですから、どれだけの信頼度があるのか分かりません。宇宙人が見たら、なぜそこまで顔に執着するのかさっぱり理解できないかもしれません(「他に指紋やDNAなどいろいろな確認方法はあるのに」と)。

しかし、その一方で大切な人とのつながりを感じるうえでは、直接、顔と顔をつきあわせることは重要な意味を持ちます(もちろん、それは顔だけとはかぎりません。相手の身体の温かみを感じられるような触れあいも重要です)。

昨年から続くコロナ禍では、感染防止のために移動を制限され、離れて暮らす身内と直接、顔と顔をつきあわせ、手と手を取り合ってコミュニケーションを取ることがむずかしくなりました。また、これまた感染防御のために家族が病人と「最後のお別れ」をしたくても、直接に身体に触れることができないという事態が起きています。これもまた切ないものです。

こうした例を見るにつけても、人と人とのコミュニケーションの基本は身体と身体、顔と顔との直接的なつながりにあるのだと思わされます。

恐山と現代美術の接点

そんなコロナ禍のさなかに、死者と会えるという日本三大霊場の一つ、青森県の「恐山〈おそれざん〉」を訪ねました。緑豊かな山の中に、植物の生えることのない無機質な岩と石の風景が広がります。硫黄の臭いが漂い、岩の合間に水蒸気が立ち上がる。

ところせましと積み上げられた「積み石」を崩さないように歩くと、それだけが色鮮やかな風車が見えて、草履と手ぬぐいが供えられた地蔵に出会います。これこそが仏教説話で語られる「賽〈さい〉の河原〈かわら〉」なのかという雰囲気でした。積み石の中には、故人の名前が書かれた石や、故人の家で使っていたと思われる表札も混じっていました。

画像3

山の奥には威厳に満ちた八角円堂〈はっかくえんどう〉があり、独特の緊張感がありました。古びた地蔵菩薩が見守る中に、亡くなった人々の衣類や靴がたいせつに置かれているのです。まるでそこに故人がいるような、生々〈なまなま〉しい空気が漂っていました。

その中でふと、人々が山に登る目的に気づいたのです。人々はここに来て、亡くなった人とともに石を積み、亡くなった人の身体のあたたかみに触れた気持ちになる。残された衣服や靴に、故人の身体のあたたかみを感じるのではないでしょうか。

そこでさらに思い出されたのは、今年亡くなったフランスを代表するアーティストのクリスチャン・ボルタンスキー(1944年~2021年)です。

彼には大量の衣類を山のように積んだ作品群があります。ここで掲げたのは2014年12月、サンチアゴの美術館で展示された、「ペルソン」(英語題 Persons/パーソンズ)と題する作品ですが、ここでも膨大な古い衣類が集積されています。
これはナチス・ドイツによるユダヤ人の犠牲を想起させるとも言われますが、ここでもそれぞれの衣服に、人々の生きた痕跡を生々しく感じるのではないでしょうか。

画像5

このようにして死者と触れるのは、霊場やアートという特殊な場でだけ許される行為のように思うのです(そうでないと、日常と非日常が入り混じり、人々は混乱することでしょう)。

そうしてみると改めて、顔は別物なのだと思いました。たとえば故人の顔写真は、手帳やペンダントやスマートフォンにしのばせて持ち歩くこともあります。それを人に見せることもあります。身体に関係したものはもっと個人的で、あまり人に見せないのではないでしょうか? しかし写真は例外のようです。

顔写真は、故人の生々しい身体から離れ、それを眺めて生きる人々の所有となっているようにすら感じます。身体の一部であるはずの顔は、それだけ独立しているようです。

もし、葬儀に「遺影」がなかったら……

葬儀では、故人の顔写真である遺影が祭壇の真ん中に置かれます。葬儀の列席者はその顔を見て、改めて故人と過ごした懐かしい日々を思い出し、語り合い、最後に遺影に語りかけます。

もし「自分の葬儀に遺影を置かないで」といった意向を生前に周りに伝えようものなら、親しい人たちは戸惑〈とまど〉うことでしょう。実際にその通りの葬儀にしたとしたら、葬儀に集まった人々は寂しい思いをするのではないでしょうか。

本人の意思により葬儀は行わないということはあっても、本人の意思により葬儀で顔写真を使用しないということはあまりないと思うのです。

葬儀ということで言えば、故人との最後のお別れでは、親しい人は棺の窓をそっと開けてその顔を見、身体にそっと触れることが許されます。身体は触れることにより関係が作られて、顔は見ることにより関係が作られます。

しかし、触覚で触れる対象としての身体は、遺体が火葬されたり、土葬されたりすれば、もはや遺された人々との関係は成立しません。一方、視覚として見る対象の顔は、身体がなくなった後も、顔写真としての存在が残るというわけです。ここからも顔は身体の一部であっても、身体とは異なる位置を占めることがわかります(もちろん全身を収めた写真も保存の対象になるでしょうが、そこでもその人を表わすのは顔でしょう)。

画像4

遺影が物語るように、身体はどちらかというとその人自身のもので、顔とはその人のものであって、同時にその人のものではないということなのでしょう。

私たちは「顔」で他者と結びついている

とある作家のエッセイに、興味深いエピソードを見つけました。本に掲載する、いわゆる「著者写真」を本を執筆した当時の写真にすべきか、本として出版された今の写真にすべきか悩むという話でした。

本を読む時に思い描く作者の顔とは、いつの顔なのでしょうか?
もし、その本の作者が存命中であったとするならば、読者にとっての作者は本を読んでいる、その時点での顔をしていることでしょう(たとえば、村上春樹さんの小説を読む人たちは、今の村上さんの顔を思い浮かべながら読んでいるはずです)。

しかしずいぶんと前に作品を書いた作者からすると、語っているのは執筆したときの自分なのですから、今の自分と当時の作品を結びつけて考えられるのは本意ではないかもしれません。また、同じ読者と言っても、その作家の熱烈なファンだったら、作品を作りだした当時の作家の顔を見てみたいと思うかもしれません。

作者と読者との立場の違いもある上に、実にさまざまな読者がいるわけで、どの時代の作者の写真を使用すべきかは、とても悩ましい問題であることがわかります。

もちろんファンの思惑〈おもわく〉とはまったく関係なく、「我が道を行く」という手もあるわけです。たとえば、歳を取ってもいつも同じ写真で押し通すという方法もあります。また、最近は写真加工が簡単にできますから、現在の写真であっても年齢を感じさせない加工もできます。この場合、パブリックイメージのほうに自分を寄せていくということになります。

そういえば、作家ではありませんが、自身の分身アンドロイドを作ったロボット研究者は、分身アンドロイドの姿に自分をあわせ続けているそうです。分身アンドロイドに似せるため、自分の顔に美容整形もして、むしろそれを楽しんでいるそうなのです。

余談はこのくらいにして、話を戻せば、私たちにとって顔というのは身体の中でも特別の存在です。

しかも、どれが「その人の顔」であるかは、顔の持ち主よりも見る側の思いが大きく関与します。その人との関係性や、付き合いの長さなどによって、「顔」はまったく違ってきます。かりに同じ遺影を前にしたとしても、故人の子どもからすれば、自分の子ども時代の、元気だった親の姿をそこに見るでしょう。

顔については(持ち主の自分よりも)見る側の思いが大きく関与するということです。その人とのつきあいの長さや濃さなどで、同じ顔でもまったく違って映るのです。たとえば同じ遺影を前にしたとして、それが故人の子の目からすれば優しかった親の姿を、故人の幼馴染〈おさななじみ〉であれば、小学校時代のやんちゃな姿をそこに見ることでしょう。

これは遺影に限った話ではありません。離れて暮らす年老いた親のことを、その子どもたちが思い出すときも、離れて暮らすわが子を親が思い出すときも、今の姿ではない、ともに暮らしていたころの顔を思い出すのではないでしょうか。その人との付き合いをもとに、人それぞれが心の中に顔を描いているのです。

〈後編に続く〉

山口先生プロフィール

山口真美(やまぐち・まさみ)
お茶の水女子大学大学院人間文化研究科人間発達学専攻修了後、ATR人間情報通信研究所・福島大学生涯学習教育研究センターを経て、中央大学文学部心理学研究室教授。博士(人文科学)。
日本赤ちゃん学会副理事長、日本顔学会、日本心理学会理事。新学術領域「トランスカルチャー状況下における顔身体学の構築―多文化をつなぐ顔と身体表現」(略称「顔・身体学」)のリーダーとして、縄文土器、古代ギリシャやローマの絵画や彫像、日本の中世の絵巻物などに描かれた顔や身体、しぐさについて、当時の人々の身体に対する考えを想像しながら学んでいる。近著に『自分の顔が好きですか? 「顔」の心理学』(岩波ジュニア新書)がある。
★山口真美研究室HP
★「顔・身体学」
★ベネッセ「たまひよ」HP(関連記事一覧)

連載一覧

更新のお知らせや弊社書籍に関する情報など、公式Twitterで発信しています✨️ よかったらフォローしてください(^^)

ありがとうございます\(^O^)/
集英社インターナショナルの公式noteです。硬軟とりまぜたオリジナル連載、新刊案内など更新予定です! https://www.shueisha-int.co.jp/