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【期間限定】女性参政権のために暴力的に闘った人々――『死なないための暴力論』抜粋

 2/7(水)発売の新刊『死なないための暴力論』(著:森元斎、インターナショナル新書)より、イギリスで女性参政権を求めた「サフラジェット」たちに関する記述を一部抜粋・再構成して期間限定でお届けします。

 2/15(木)には、サフラジェットをテーマにした著作を持つブレイディみかこさんと森元斎さんのトークイベントがございます。
2/15 森元斎×ブレイディみかこ「やらなきゃやられるときには、やるしかない――暴力と尊厳のアナキズム」『死なないための暴力論』刊行記念対談 – 丸善ジュンク堂書店オンラインイベント (maruzenjunkudo.co.jp)
イベント前の参考資料としても、ぜひご一読ください。


街頭に立つサフラジェットたち(1908年)

女性参政権を求めた人々

 ご存じのとおり、ある時期までは女性に選挙権はなかった。女性が選挙で投票しようものなら、違法となる。そして、それについて文句を言おうものなら、国家による暴力が加えられる。こうした事態に対抗すべく、19世紀後半のイギリスでラディカルな女性たちが立ち上がった。しかも暴力的に、である。そして最終的には女性の参政権を認めさせていった。これがイギリスの「サフラジェット」と呼ばれる人たちである。
 「サフラジェット(suffragette)」という語は、投票の権利を与えるよう主張する活動家たちの総称である。もう一つ、「サフラジスト(suffragist)」という言葉もあり、“ほぼ”同義である。両方とも「サフレイジ(suffrage)」という政治的な選挙に投票する権利、すなわち選挙権を意味する語に由来する。では、サフラジェットとサフラジストは何が違うのかというと、前者は「好戦的な過激派」として罵倒する意図でロンドンの「デイリー・メール」紙で使用され、広がったという経緯がある。英語では、「小さなもの」「尖ったもの」「女性的なもの」を意味する際に、語尾に“-ette”とつけるのが、20世紀初頭に流行していた 。この新聞では、サフラジストではなく、サフラジェットと語尾を変えることで、彼女たちを嘲り、からかっていたようだ。しかし、そうした罵倒に対して、サフラジェットたちはこの語を好んで使用し、自らそう名乗るようになった、という経緯がある。この点は、「アナーキー(アナルシー)」という用語の使い方にも通じる。これもそもそもは罵倒用語だったが、アナキストたちはこの語を好んで、反転させて使い、現在に至る。
 さて、女性参政権の獲得のための運動は多様であり、さまざまな団体があった 。サフラジェットたちも、「女性社会政治連合(WSPU:Women’s Social and Political Union)」という団体を結成し、運動を展開していくこととなる。このWSPUの中心人物は、アニー・ケニー、そしてエメリン・パンクハーストと、彼女の長女であるクリスタベル・パンクハースト、次女のシルビア・パンクハーストらであった。「言葉ではなく行動を(Deeds not Words)」という標語のもと、当初は暴力的抵抗行動ではなく、非暴力直接行動をメインに闘争していた。しかし、次第にその動きとうねりが大きくなり、窓ガラスを割ったり、爆破したり、放火したりと、きわめて暴力的な抵抗運動が展開されていった。直接・間接を問わず、彼女らの運動に参加していた人たちは数十万人にものぼるという。

投獄、そしてハンガー・ストライキ

 女性参政権を求める者たちの声はこうだ。「男性がつくった法律では女性を守ることなど不可能であり、そもそも労働も納税もしているのにもかかわらず、女性の声が自分たちの社会を形成できないのはおかしい」。至極当たり前の主張である。しかし、こうした主張に対して、無知蒙昧な男どもはこう言う。「女性は感情に支配されており、ロジカルではない」「女性はドレスとゴシップが好きで子どもっぽい」「女性は気まぐれで、正しい判断ができない」……根拠のないたわごとである。また、女性の参政権に反対する女性もいた。時のヴィクトリア女王は女性の参政権に対して「邪悪な愚行」とまで言い放っていた。
 こうした状況なので、どれだけ多くのデモの参加者が女性参政権を訴えても、まったく埒があかなかった。1908年、ロンドンのハイド・パークで25万人以上もの人々が大々的に女性参政権の必要性を訴えた。それでも当時の首相であったアスキスはその主張を拒否し続けた。さて、どうするか。直接行動を激化させて、認めさせるしかない。サフラジェットたちはアスキスの車に無理矢理乗り込んで直訴したり、官公庁の窓を叩き割ったり、首相官邸の鉄柵に自らの体を縛り付けて、主張をし続けた。結果、どうなったか。刑務所行きだ。

警官に逮捕されるサフラジェット(1908年)

 当時のイギリスの囚人には、三つの分類があった。一類は政治犯、二類が軽犯罪の囚人、三類が重労働を課される囚人である。一類は、新聞を読んでもいいし、本を読んでもいいし、家族や友人と連絡も取ることもできて、面会も許された。囚人服を着る必要もなく、比較的自由な立場に置かれた。二類は、最初の一カ月を独房で過ごし、読書も面会も許されない状態に置かれる。三類は、ひたすら労働である。男性も女性も関係なく、ボロボロの囚人服を着せられ、粗末な食事のみで、汗水流して働かねばならない。刑務所にぶち込まれた女性参政権を求める人々は、ほとんどが二類か三類行きで、政治犯としては扱われなかった。
 ここでもサフラジェットは黙っていない。政治犯としての立場を認めさせるため、ハンガー・ストライキに打って出る。これは投獄への抗議ではなく、政治的抵抗であったことを認めさせるためのものだった。ハンガー・ストライキの結果、もしも刑務所内で死なれようものなら、国家には立場がない。国家が暴力的に決めた法に基づいて、暴力的に刑期をまっとうさせることが、投獄の目的である。それを果たせなければ、国家の威信に関わる。また、死人が出れば、より多くの民衆の怒りを買いかねない。だから、サフラジェットたちは食事を拒否して、死ぬ気で抵抗した。またこれは、体調不良による釈放を狙う戦術でもあった。
 釈放された活動家たちは、少し療養したのちに、再び街頭へ出て闘い、また投獄される。刑務所を運動家でいっぱいにしてしまえば、逮捕されても刑務所に入れられることはなくなる、という戦術でもある。身をもって闘うとはこのことである。しかし、国家も黙ってはいない。サフラジェットたちを根絶やしにすべく、暴力のかぎりを尽くして弾圧にかかった。その事例を二つ紹介しよう。

①ブラック・フライデー事件

事件翌日にブラック・フライデー事件について報じる紙面

 ブラック・フライデー事件とは、最近日本でも知られるようになった感謝祭の安売りバーゲンセールのこと、ではまったくない。黒く人だかりができている状態がブラック・フライデーである。それも、バーゲンセールで人がたくさんいるのではなく、デモ隊と警官隊で人だかりができた、という事件だ 。
 1910年、これまでのサフラジスト/サフラジェットの運動が功を奏し、イギリス議会において一部の女性の投票権が認められそうになった。富裕層の女性のみという条件付きであったが、これもまた進展であり、ここからさらに参政権が拡大するのではという雰囲気が生まれた。しかし、そこでまたアスキス登場である。議会で女性参政権を条件付きで認める調停法案が出された際、アスキスはそれを拒否したのだ。アスキスら保守派は、女性に選挙権が認められると、自分たちが選挙で勝てなくなるという妄想に取り憑かれていた。そこで土壇場の拒否を断行したのだ。
 この事態に怒り狂ったサフラジェットたちは、1910年の11月18日金曜日に、国会議事堂までデモ行進をおこなった。およそ300人が馬に乗ったり歩いたりしながら、国会議事堂の入り口までたどり着いた。これを見越していたイギリス政府は、時の内務大臣であるウィンストン・チャーチルの命令のもと、警察官を5000人ほど配備した。そして、この日起こることについては写真撮影も報道も禁止する、という通告を事前に発した。つまり、世間に知られたくないような大弾圧を予定していたということである。警察にとっては民衆に暴行を加えてもお咎めなしになる、というお達しでもある。その結果生まれたのは、警察による女性たちへの暴行の嵐だった。少し長いが、そのときの様子を引用しよう。

この事件は、「ブラック・フライデー」として100年後にも語り継がれる、警官による残虐な暴行・傷害事件となった。/その様子は、翌日19日に「デイリー・ミラー」紙が報道している。また。WSPU関係者の後年の著作にも詳述されている。さらには事件後に、国会の「調停委員会」が、多くの証言を含む「覚書│警察の女性代表団の取り扱い」として事件記録を内務省へ提出している。/これらの記録に使われた用語を用いて事件を再現すると、概要は次のようになる。/女性が警官と衝突すると、警官は女性の髪を
引っ張って捕まえて、女性を数メートル先へ投げ飛ばした。女性が地面へ倒れ落ちると、別の警官がその女性をまた別の警官へと投げ飛ばした。女性が再び地面に落ちると、さらに別の警官が同じように女性を投げ飛ばした。こうして繰り返される行為の間に、女性は顔面や体の各所を殴られたり、膝を蹴られたりもしている。また、「デイリー・ミラー」の報道写真によれば、路上に倒れている女性を警官が踏みつけている。/かなりの数に上る女性が、人目につきにくい路地裏で警官に背中を繰り返し殴られ、神経が麻痺して歩行困難をきたしている。建物や壁や街灯の支柱に投げつけられて、歯を折った女性も出ている…(中略)……このような形の暴力行為に加えて、警官の多くが公然と、性的暴行や卑猥な暴行を加えた……

中村久司『サフラジェット』大月書店、2017年、115〜116頁

 女性参政権運動に対して、当時のイギリス政府がどのような姿勢だったのかがよくわかる。アスキス政権はこれほどまでに女性参政権を食い止めようとしていたのだ。裏を返せば、サフラジェットたちがそれだけ体制に脅威を与えていたということを、このブラック・フライデー事件から読み取ることができるだろう。

②強制摂食

強制摂食を受けるサフラジェット

 サフラジェットにふるわれたもう一つの暴力は、「強制摂食」である。
 監獄に入ったサフラジェットたちは、先にも述べたように、自身を政治犯として認めさせるべくハンガー・ストライキをおこなっていた。そうした状態を見かねた国王様は「ご飯食べさせてあげなよ」と言いだした。余計なお世話である。
 結果、監獄でどのような処置が与えられていったかというと、無理やり食事が与えられた。受刑者たちはベッドや椅子に拘束されたり、縛られた状態で、金属製の猿ぐつわを口に押し込まれ、ゴム製のチューブを差し込まれた。口を開かない場合は鼻から差し込まれた。そのチューブに、ぐちゃぐちゃにされたパンと牛乳、生卵などが流されて胃に届くという仕組みである。「器具を使用して肉体を侵害するこうした行為は、抵抗させないように腕力で押さえつけられ、ひどい苦痛と屈辱を伴うもの 」であった。
 これはハンガー・ストライキをした者たち、それもサフラジェットたちだけが受ける拷問でもあった。この処置によって、肺に液体が入ったり、胃が傷ついたりして、肉体的に衰弱してしまう。これが原因で重い病気になったり、精神的にも病んだりして、死へと至ることになった者が続出した。何百人ものサフラジェットが強制摂食という暴力を受けた。こんな記述がある。

シルビア・パンクハーストの最初の強制摂食では、四人の女性がシルビアをベッドに押しつけて動けなくしている。医師の一人は、リー(筆者:サフラジェットのメアリー・リー。彼女も強制摂食を受けていた)の場合と同様に、流動食を流し込む役割で、もう一人は、鼻腔ではなく口からゴム管を通している。シルビアが口を固く結んで拒否し続けると、無理やり唇を広げて、歯のかすかな隙間から金属製の特殊な器具を挿し込んで、機械的に顎を開かせている。/口から出血し、嘔吐をもよおし、ときには失神するのを無視して、シルビアの場合は一日に二回強制された(ほかには一日三回のケースもあった)。一カ月以上続くと、肉体の苦痛に加えて、精神状態が異常になりつつあるのを実感したという。

中村久司『サフラジェット』大月書店、2017年、105頁

 サフラジェットたちは何度も暴れ、何度も監獄にぶち込まれ、何度もハンガー・ストライキをおこない、何度も強制摂食という暴力を受けた。しかしそれでも立ち上がった。すべては女性参政権のためである。

サフラジェットの反撃

 やられてばかりでは気がすまない。やられたらやり返す。反撃である。サフラジェットの面々は、路上で警察と常にバトルをせざるをえない。なぜならブラック・フライデー事件のみならず、運動をおこなえば必ず警察が急襲してくるからである。そうした状態から身を守るために、「サフラジュツ」と呼ばれる柔術を体得していった。これは文字どおり、日本の柔術に由来しており、基本的には攻撃術ではなく、護身術である。敵対する相手のバランスを崩し、相手の体重を利用して、投げ飛ばすやり方だ。サフラジェットの多くが護身術の教室に通っていた。150センチほどのイーディス・ガラッドというサフラジェットは、警官をぽんぽん投げ飛ばしていたそうだ。国家というヒエラルキー上位をうしろ盾に暴力をふるってくる警察に対して、サフラジェットは自衛のための暴力を行使した。このような、ヒエラルキー上位の暴力に抵抗するためにヒエラルキー下位がふるう暴力を、本書では「反暴力」として位置付けたい(後ほど詳述する)。

イーディス・ガラッドの柔術道場
(British Press, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons)

 一方で、ゲリラ的な暴力的反撃もあった。いくらデモをしても埒があかない。そう思ったサフラジェットたちは、この間の運動の成果からアスキスらと面会を取り付けた。しかし、この面会は拒否された。ふざけるな! ということで、官庁街の窓ガラスを破壊していく。官庁が立ち並ぶパーラメント広場からトラファルガー広場への道路沿いの窓ガラスを、投石やハンマーで叩き割っていったのだ。これは政府にかなり圧力を与えた。もちろん、人に危害は加えていない。サフラジェットたちは、自分たちや通行人に窓ガラスの破片が飛び散らないように、事前にガラスの割り方のワークショップをおこなっていたのだ。しかし、サフラジェットたちは投獄され、監獄でお決まりの強制摂食という暴力を受けた。つまり、こちらは無機物への暴力であるが、あちらは人体への生死に関わる暴力をふるった。こちらもあちらもともに暴力をふるっているが、その程度や質はまったく異なるのだ。

盛り上がる運動、しかし……

 こうしたサフラジェット/サフラジストたちの闘争は、急展開を迎えることとなった。
 まず、1914年に「グラスゴーの戦い」と呼ばれる闘争があった。これまで見てきたとおり、サフラジェットの運動は暴力的ではあったが、そこにはやはり圧倒的な暴力の非対称性があった。つまり、ヒエラルキー上位の国家が行使する暴力と、ヒエラルキー下位のサフラジェットがそれに対抗するためにふるう暴力という非対称性である。こうした状況下で、WSPUの独裁的なリーダーであったエメリン・パンクハーストはこう考えた。自分が公の場で演説をすれば、必ず捕まる。しかし、もし演説のあとで警察の追手から逃げ切れば、警察はバカだということを世間に示すことができる。そしてもし自分が捕まっても、世論からの同情を得ることができる、と。彼女はグラスゴーにおけるサフラジェットの集会で登壇を決意する。当日、会場は満員で、警察もエメリンを捕らえるべく待機していた。誰しもがエメリンの登壇はないだろうと思っていた。その矢先、であった。エメリンは会場のセント・アンドリュース・ホールの舞台に立ち、5000人を前に演説をはじめたのである。どういうことか。会場へは変装して入り、まんまと警察の目を騙したのである。
 会場のサフラジェットたちは沸き立ち、警察も慌てふためく。エメリンの周りは武装したボディガードが取り囲み、舞台の周辺には有刺鉄線が張りめぐらされていた。警察もエメリンに近づくことはできない。周辺のサフラジェットたちも警察を取り囲み、椅子やテーブルをひっくり返して大乱闘である。花瓶、水差し、コップ、バケツに入った水、椅子、ベンチなど、使えるものは片っ端から警官めがけて投げつけ、猛攻撃したという 。最終的にはエメリンは捕まってしまうが、この闘争で、再びサフラジェットたちはやる気をみなぎらせていった。
 こうして、闘争は引き続き盛り上がるかのように思われた。しかし、ここで分岐点が生じる。第一次世界大戦の勃発と、イギリスの参戦である――

※この続きはぜひ『死なないための暴力論』でお読みください※

【イベント情報!!】
2/15(木)19:30~21:00 @ジュンク堂書店池袋本店
森元斎×ブレイディみかこ
「やらなきゃやられるときには、やるしかない
――暴力と尊厳のアナキズム」
『死なないための暴力論』刊行記念対談

森元斎さんの新著『死なないための暴力論』が刊行されます。
本書は、ジョルジュ・ソレルからデヴィッド・グレーバー、女性参政権運動からBLMまでを参照しながら、支配・搾取・差別に抗うための「力」のあり方を探る一冊となっています。
今回、本書に推薦文を寄せられたブレイディみかこさんをゲストにお迎えして、「尊厳を守るための暴力」についてお二人に語り合っていただきます。また、ブレイディさんは本書でも取り上げられている「サフラジェット(イギリスで女性参政権を求めた人々)」をオマージュした著作もお持ちです。イギリスにおいて、いかに人々は尊厳を守ろうとしてきたのか、日本との比較も織り交ぜながらお話しいただく予定です。

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