#023 紛争地の国際看護師が、アフリカで農家になるまで【ウガンダ】/世界ニホンジン探訪~あなたはどうして海外へ?~
お名前:オピヨ美奈子さん
ご職業:農家、旅行・視察のアテンド
在住地:グル(2016年~)
出身地:新潟
お仕事の依頼など:https://locotabi.jp/loco/amnk6515
紛争地で活動する「国際看護師」
――もともと日本の病院で看護師として働きながら、「国際看護師」としても海外の紛争地で活動されていたそうですね。それはどういったきっかけがあったのでしょうか?
大学生のころ、日本画家・平山郁夫さんの『平和の祈り――サラエボ戦跡』という作品を観たことがきっかけです。1990年代のユーゴスラビア紛争時、戦闘で破壊されたサラエボという都市の子どもたちを描いた作品です。この作品がきっかけでユーゴスラビア紛争に強く関心を持つようになり、大学では国際人道法を専攻しました。
そのうち、「たまたま平和な日本に生まれた人間として、何かしなくてはいけないのではないか?」という使命感が私の中で芽生えたんです。戦争やその影響で苦しむ難民や子どもたちのために、何か行動できる人になりたい。そんな想いで「国際協力の仕事に就きたい」と思うようになりました。
――そこから看護師という道を選択されたのはなぜでしょう?
大学の教授に相談したり、手あたり次第本を読み漁ったりしながら、「どんな仕事があるのか?」「どういう道を進めばいいのか?」を日々考えていました。そこで、「国際看護師なら今からでも目指せるのではないか」と思い至ったんです。現地で苦しんでいる人に直接手を差し伸べたいという想いが強かったので、看護師という道は一つの答えでした。
――実際に国際看護師になられて、海外でも活動をされていたんですよね。
2014年にイラク、2015年にウガンダの病院に派遣されて活動しました。両国とも日本赤十字本社の公募に応募しました。イラクでは病棟看護師として、クルド人自治区にある戦争やテロの犠牲者の手術や治療を専門に行う病院で働きました。ウガンダでは新設した手術室の稼働や、医療機器を清潔に管理するための新しいシステムの導入、マニュアル作成と関係部門スタッフへの指導など、さまざまな業務を経験しました。
ウガンダで第二の人生へ
――いまはウガンダ在住ですが、どういった経緯があったのでしょう?
ウガンダの病院に派遣された時、そこで薬剤師として働いていた夫と出会い、結婚を決めたのがきっかけです。
当時の私は、国際看護師になるという夢を実現したばかり。もっとキャリアを積みたい気持ちが強かったので、結婚後も夫と離れて日本で看護師を続けて、海外派遣に備えるつもりでした。でも、当時最終選考まで残っていた海外派遣の選考で、私の持っていた車の運転免許証が条件を満たさず落選してしまったんです。この落選が「いつ手にできるかわからない海外派遣のチャンスのために、夫と離れて日本で看護師を続ける意味があるのか?」と、人生を見つめ直す機会になりました。
――そこからウガンダへ移住されるのもまた大きな決断ですよね。なにか決め手があったのでしょうか?
その時に夫から言われた「ウガンダに来れば、一緒にできる事がたくさんある」という言葉ですね。
夫は出会った頃から、ウガンダで困っている人を助けたいという想いを強く持っている人でした。私もそんな姿勢に共感して、彼に惹かれていたんです。彼の言葉には「困っている人を助けたいという想いが一緒なら、薬剤師や看護師だけでなく、いろんな方法を模索しながら生きていける」という意味もあったんです。これを聞いて、ウガンダでの新しい人生に賭けてみようという想いが固まりました。
看護師の仕事そのものは、やりがいがあり「私の天職!」と思えるほど大好きな仕事でした。でも、日本で海外派遣のチャンスを待ち続ける人生よりも、夫とウガンダで共に築き上げていく新しい人生の方に明るい未来を感じたんだと思います。でも、いま振り返ると理屈抜きで「とにかく夫と一緒になりたかった」んだとも思いますね。
「お金を使わずに暮らす」生活
――現在はどのようなお仕事をされているのでしょうか?
現在は農業をしながら、夫と一緒にウガンダでビジネスや平和活動を行う日本人のサポート、輸出代行、ウガンダに滞在する旅行者・駐在員向けの医療・観光情報の提供や通訳・アテンドなど、さまざまな仕事をしています。
――いろいろなお仕事をされていますが、農業だけすこし毛色が違いますよね。
農業を始めたきっかけは二つあります。一つは、コロナ禍の2021年に「食料が手に入りづらくなっている」という話を聞いたこと。二つ目は、その直後にロシアのウクライナ侵攻による影響で、ウガンダでも物価が高騰し、お金はあるのに食料が手に入らない状況になったこと。こうしたことが重なって、できるだけお金を使わずに暮らせる生活をつくる必要があると感じたんです。そこで、自給自足を目指して農業をはじめてみました。
――作物は何を作られているのですか?
ウガンダでの主食になるキャッサバやとうもろこし、サツマイモ、お米、「マトケ」と言われる青バナナ、落花生、トマト、豆、オクラ、しょうが、パイナップル、アボカドなどを育てています。
――種類が豊富ですね。農作業は大変ではありませんか?
農業は手間も時間もかかるのですが、いざやってみるとおもしろいんです。こちらでは、種を植えたら水も農薬も与えず放置します。はじめに畑を耕すのは大変ですが、あとは勝手に育つので自然のたくましさに毎回驚かされています。
あと、「何が起きても大丈夫かもしれない」という気持ちが芽生えてきましたね。農業は土地と種さえあればできるので、「今後何か困ったことが起きたとしても、自分達で食料をつくりだして生きていける」という安心感があります。本当の豊かさとは、お金があって裕福なことではなく、たとえゼロからでも自分たちで手間暇をかけて何かを生み出せることだと気づきました。夫と「農業は錬金術だよね」って話したりしてます(笑)。
「呪術」が色濃く残る社会
――日本にはない慣習などがあれば教えてください。
呪術や魔女文化が残っていますね。集会をして歌ったり踊ったりもするんですが、仕返しや復讐のために呪術を使うケースもあります。
例えば、家族を殺された人が犯人を呪うために、魔術を使える人に頼んで呪いをかけてもらうといった話もあります。私は大学時代に「中世の魔女文化」などを学んでいたのですが、いざ現代のウガンダにも呪術が存在すると知った時は「そんなことあるわけないじゃん」と思ってしまいましたね。
――でも、今では信じている?
一度だけ、呪術らしきものの被害にあったことがあります。
以前住んでいた家は長屋の構造で、隣の部屋に叔母が住んでいたのですが、ある日突然、私の部屋にだけ、大量の蜂が入って来たんです。夫は不在だったので、すぐに外に出て叔母に助けを求めました。叔母は「これは誰かが嫉妬して呪術を使ったんだ」と言って、祈祷師を近所から連れて来てくれました。そして、叔母と私に加えて、その祈祷師となぜか祈祷師の息子も来て、全員で和になって手を繋ぎ、現地語でお祈りしたところ、蜂は消えていなくなったんです。この体験をしてからは「もしかしたら呪術は本当に存在するのかも」と思うようになりましたね。
――なぜ呪術の文化が残っているのだと思いますか?
コミュニティの中で「和を乱したくない」という気持ちが影響していると思います。例えば、人の農作物を盗んだ人がいたとします。普通なら警察に通報するところですが、その後にその人との関係性が悪くなることを恐れて、隠れて魔女に処罰を頼んだりすることがあるんです。
――なるほど、呪術と聞くと縁遠く感じますが、「騒ぎにして和を乱したくない」という気持ちには共感できますね。
変わった「弱者」観
――今後はどういった活動を予定されていますか?
日本に限らず、先進国に住む人々がウガンダの人々の生活から学びを得てもらえるような体験の場を提供したいと考えています。
というのも、移住当初と比べて、私自身の中で「社会的弱者」の考え方が変わり始めたんです。ウガンダに来たばかりのころは、この国は「助けを受ける側」と思っていました。1日2ドル以下で暮らしている人々も多く、NGOを含む多くの組織が支援をしています。これは事実です。
でも、自分が「支援する立場」としてでなく、実際にウガンダの村の一員として暮らしていくうちに、むしろ「1日2ドル以下で生活をしている人たちは凄い」と思うようになったんです。私も農業をはじめて、支出を減らすようになったとはいえ、やはり1日2ドルで生活をやりくりするのは難しい。その一方、彼らは普通に生活を成り立たせていて、苦労している様子もないんです。私たちが彼らの生活から学べることはたくさんあるのではないかと思っています。
取材:2023年7月
写真提供:オピヨ美奈子さん
※文中の事柄はすべてインタビュイーの発言に基づいたものです
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聞き手
おかけいじゅん
ライター、インタビュアー。
1993年東京生まれ。立命館アジア太平洋大学卒業。高校時代、初の海外渡航をきっかけに東南アジアに関心を持つ。高校卒業後、ミャンマーに住む日本人20人をひとりで探訪。大学在学中、海外在住邦人のネットワークを提供する株式会社ロコタビに入社。同社ではPR・広報を担当。世界中を旅しながら、500人以上の海外在住者と交流する。趣味は、旅先でダラダラ過ごすこと、雑多なテーマで人を探し訪ねること。