第5回 表情は伝染するか(前編)
美容整形で使う「ボトックス」が、コロンビア大学で行なわれた、ある心理学の実験で使われたことがあります。心理学者は時として奇抜な実験を考えますが、これには驚きました。
ボトックスとはボツリヌス菌から抽出されたタンパク質の一種ボツリヌストキシンを注射し、目尻や眉・額の皺【しわ】を改善するというもの。注射の効果は4ヶ月から6ヶ月くらい持続するそうで、メスを使わない美容整形として有名です。
このボトックスを、美容のためではなくて、顔を麻痺させる道具として実験に使っているのです。
ヒトは笑うから楽しくなる?
実は皺伸ばしのボトックスは、一過性の筋肉麻痺を作り出します。皺伸ばしの治療をしていそうな芸能人をテレビの画面ごしに見て、「表情が硬くない?」などと思ったことはありませんか。
皺伸ばしは、額や目尻、眉間などに行いますが、実験では、表情作りに大切な目尻と眉間にボトックスを注射しています。目尻の皺(いわゆる笑い皺)の改善のために注射をするのは、目の周りにある眼輪筋で、にっこりする時に動きます。
眉間の皺消しに注射するのは、眉と眉の間にある皺眉筋です。皺眉筋はむっとした時に動いて、眉間に縦皺を作ります。
実験では、ボトックス注射をした実験参加者に映画を見てもらい、その感情体験を測りました。
さてこの実験の背景にあるのは、「表情フィードバック仮説」です。
これは、「楽しいから笑うのではない。笑うから楽しい」という、1880年代のジェームズ=ランゲ説を起源としています。
この仮説では、私たちの感情は、自身の筋肉などの生理的な反応から作り上げられるとのこと。
この説が正しいとすると、ボトックス注射で皺眉筋を麻痺させた人は、不快な時に動くはずの皺眉筋が動かないので、むっとした感情もわかないことになります。
また、にこにこ笑う時に使う眼輪筋をボトックスで麻痺させて動けなくすると、楽しい感情がわかなくなるはずです。
表情フィードバック仮説は幻か?
表情フィードバック仮説に基づいた有名な実験に、ペンを使って感情を変えるというものがあります。
ペンを口にくわえたポーズをしばらくの間続けるだけ、それだけで感情が変わるというのです。
そのポーズとは、歯が触れないようにつきだした唇でしっかりとペンをくわえる、あるいは、唇が触れないよう、やさしく歯でペンをくわえる。このいずれかです。
ちなみにこの二つのくわえ方では、表情を作る筋肉の動きが異なります。すなわち、前者では「むっとした表情」を作る筋肉が働きますし、後者では「にっこりした表情」を作る筋肉が働きます(実際に鏡を見て確認してください。細めのペンや鉛筆を使うほうがいいようです)。
実験の結果、むっとした表情を模した“唇つき出しポーズ”では不快な感情が、にっこりした表情を模した“歯でペンをくわえる”ポーズでは快適な感情が増すといいます。
ペンをくわえるだけで感情が変わるとは、あまりにもセンセーショナルです。
もちろん実験中、鏡などは見せないので、被験者は自分の表情が変化していることを知りません。なのに、ポーズを維持している間の持続的な筋肉の動きだけで、なにも見たり聞いたり考えたりすることもなく、感情がわきあがるというのです。
しかしたいへん残念なことに、同じ実験を繰り返してもなかなか結果が再現されないそうです。つまり、効果のほどは微妙なのです。
話を戻して、先のボトックス実験の結果を、表情フィードバック仮説から考えてみましょう。
ボトックス注射で筋肉が麻痺すれば、フィードバックが絶たれ、感情は失われるはずです。ところがこちらの実験も、感情への影響は決定的ではないことが実証されたのです。
とはいえこの実験、ボトックスを注射する医師を配置したりと、手間がかかっています。そもそも顔に注射することがかなり痛くてショックなので、その効果で表情が失われた可能性がありますから、この可能性をつぶすため、比較対照するコントロール群として、麻痺する効果のない薬剤の注射も用意しています。実験参加者の謝礼に無料の美容整形の施術を用意したりと、怠りないのです。
ここまでやった実験で「ボトックスでは感情は失われない」という結論がでたことはない、心理学としての意義よりは、ボトックスの施術が表情に影響はないというお墨付きを与える結果になったといえましょう。
表情を失う、最大の問題とは
このように、表情フィードバック説はなかなか実証されないのです。ですがその一方、身体に麻痺をかかえた患者の体験では、表情フィードバックの効果は大きいことが示されています。たとえば顔面麻痺で表情筋が麻痺すると、自身の感情体験が変わるといいます。
ということで、前置きが長くなりましたが、前回の顔面麻痺の話の続きです。
前回お話したように私の顔面麻痺の個人的体験では、滑舌が悪くなることと、食事の不便さに参りました。
しかし、周囲の印象は違うようです。私自身は不便なことが気になって、周りを気遣う余裕もなかったのですが、表情の少ない顔をしていることは、家族には違和感があって、一緒にいることが苦痛だったようです。
つまり周囲の人たちの違和感、これが表情をなくす最大の問題なのです。
表情をなくすと、その人を取り巻く周囲の反応は変わります。
一見すると表情とはなにも関係なさそうなパーキンソン病患者にも、それはあてはまります。
パーキンソン病では脳の障害のため運動機能が少しずつ低下して、姿勢の維持や運動の速度調節がうまく行えなくなることが知られています。鬱になりやすいともいわれており、それと関連もあるのかもしれませんが、表情を失うといわれています。
パーキンソン病患者は意図的に表情を作ることはできても、瞬時で作る意図しない動きができなくなるといわれているのです。意図した表情を作ることができればそれで十分かと思われるかもしれませんが、そんな簡単な話ではないのです。(後編に続く)
山口真美(やまぐち・まさみ)
お茶の水女子大学大学院人間文化研究科人間発達学専攻修了後、ATR人間情報通信研究所・福島大学生涯学習教育研究センターを経て、中央大学文学部心理学研究室教授。博士(人文科学)。
日本赤ちゃん学会副理事長、日本顔学会、日本心理学会理事。新学術領域「トランスカルチャー状況下における顔身体学の構築―多文化をつなぐ顔と身体表現」のリーダーとして、縄文土器、古代ギリシャやローマの絵画や彫像、日本の中世の絵巻物などに描かれた顔や身体、しぐさについて、当時の人々の身体に対する考えを想像しながら学んでいる。近著に『自分の顔が好きですか? 「顔」の心理学』(岩波ジュニア新書)がある。
★<山口真美研究室HP>
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