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第3回【鹿島アントラーズ新監督】コソボから来たセルビア人 、ランコ・ポポヴィッチ

6月12日に天皇杯初戦(2回戦)を迎える鹿島アントラーズ。
J1リーグ17節を終え、首位町田ゼルビアと勝ち点が並ぶ鹿島アントラーズを指揮するのが、コソボ出身のセルビア人、ランコ・ポポヴィッチだ。
2024年シーズンからチームの監督に就任したポポヴィッチの出身地コソボとは、どのような国なのか。ポポヴィッチの半生とともに、コソボという国家の歴史に迫る。
※本記事は、ノンフィクション作家の木村元彦氏の著書『コソボ 苦闘する親米国家』(集英社インターナショナル)を一部抜粋したものです。

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●ストイコビッチゆかりの都市ニシュ
 セルビアの首都ベオグラードから陸路コソボに向かうには、南部の都市であるニシュ経由とセルビア人エンクレイブ(民族集住地域)であるミトロビッツァ経由の二つのルートがある。

 今回は高速道路を使用するニシュ経由を選択した。この高速バスは知人の日本人女性フォトグラファーも使ったことがあるそうだが、そのときに変わった体験をしたという。「車内のスピーカーから、浜崎あゆみの歌がいきなり流れてきたんですよ。何でここでこれが? と思って『ちょっと、これあゆだよ!』と興奮して回りのお客さんに話しかけたんだけど、当然、セルビア人はそれが誰だか知らないし」。運転手の気まぐれなのか、そもそも何で浜崎あゆみの音源がバスに積まれていたのか不思議であるが、行き先がニシュだったからかもしれない。

 ニシュは、名古屋グランパスのストイコビッチがサッカーのキャリアを始めたクラブ、ラドニチュキ・ニシュがある。「ピクシーの故郷に行くんだろ?」という日本人乗客へのサービスだったのだろうか。ちなみにラドニチュキの意味は「労働者」。社会主義時代のニックネームがそのまま残っている。

 ニシュからは州境までタクシーを使う。このときにあらかじめプリシュティナのアルバニア人ドライバーに、到着の予定時間を携帯電話で知らせておく。セルビア側の運転手は、コソボ側からのニシュのナンバーの車に対する投石や嫌がらせを恐れて行ってくれないのだ。タクシー乗り場で客待ちをしている彼らは、どんなにヒマをしていても「料金を二倍もらっても行きたくねえよ」という。これはアルバニア人の運転手も同様で、コソボ州境まで来るのが精いっぱいで、ニシュにまでは絶対に来たがらない。かつてはベオグラードからプリシュティナまで鉄道も走り、国内の定期便も飛んでいた。車も自由に往来していた。いつからこうなってしまったのか。再び記憶をたどる。

 私が最初にコソボ取材に就いたのは、フランスW杯が開催されていた1998年の6月だった。内戦状態にある中、プリシュティナのグランドホテル2階にあったプレスセンターのテレビモニターで、日本対アルゼンチンのバティストゥータのゴールを観た。このW杯期間中、オリンピック休戦よろしくスポーツによるコソボ内戦の一時停戦を少しは期待したのだが、現実はまったく逆に作用していた。戦闘は頻繁に起き、隣の会議室では、ほぼ連日その報告会見が行われていた。あのとき、W杯に出場していた中で、セルビア(当時ユーゴスラビア)は唯一、内戦状態にあった国ではなかったか。

 そもそもコソボに行こうと思ったきっかけは、ベオグラードの新聞で、当時レアル・マドリードでプレーしていたユーゴ代表のFWミヤトビッチをKLA(コソボ解放軍)が暗殺しようとしているという記事を見かけたことであった。私はKLAの「解放区」マレーシャボに入ってその武器装備の出どころや戦闘の目的を尋ねた。米軍が友軍として参戦してバージョンアップを図る前のKLAは、拍子抜けするほどの貧しい山岳ゲリラで、銃もカラシニコフしかなかった。到底、フランスに刺客を飛ばして、この年のチャンピオンズリーグでレアルを優勝に導くゴールを決めたエースを暗殺できるような力があるはずがなかった。これはセルビア側メディアのフェイクニュースだった。KLA「解放区」には、当然ながらアルバニア人しかいなかったが、当時の都市部においては、同じ地区、同じアパートで多民族が混在していた。異なる民族同士のカップルも決して少なくなかったし、セルビアとアルバニアのダブルの子どもも珍しくはなかった。

 しかし、1999年のNATO軍の空爆がその風景を一変させた。強力な軍事介入は、民族間の敵と味方の線引きを後戻りできないほどに旗幟鮮明|《きしせんめい》にもたらした。それから8年が経過し、分断はより深まっている。何より、居住地域が完全に棲み分けされてしまったことで、次世代の子どもたちは異なる民族同士で交わることができなくなった。

●オシムの言葉

 イビツァ・オシムはかつてこんなことを言っていた。「いいか、民族主義っていうのは、同じ境遇の者を同じ家や教室の中に閉じ込めて窓も扉も締めて、『他の奴らは敵だ。歴史はこうだ、俺たちは被害者だ、だから奴らを追い出せ!』と教育の場で吹き込み続けることで生まれてくる。それを止めるには人間同士が交わることだ。交わることで信頼を築いて戦争を防ぐことができる」

 オシムが率いたユーゴ代表は、多民族集団として抜きん出た強さと求心力を誇っていたが、それでもサッカーの力だけでは90年W杯の翌年から始まった戦争を止めることはできず、オシムの妻アシマと娘イルマはサラエボ包囲戦の渦中に取り残され、二年半の間、スナイパーによる殺害の危機にさらされ続けた。

 空爆後のコソボの場合は、武力衝突こそ起きないが、動かし難い分断が横たわっている。州境であるメルダレでのタクシーの乗り換えも問題なくできた。ニシュからの車を降り、UNMIKが管理するイミグレーションを徒歩で越えたところで、アルバニア人運転手のガシが、にやにや笑いながら待っていてくれた。あいさつを交わしてプリシュティナ・ナンバーの車に乗り込む。

「景気は、どないだ?」「ぼちぼちでんな」。ガシが稼いでいるのには理由がある。セルビア人運転手とこの州境チェンジの客を紹介し合っているそうだ。「いいヤツなんだよ。ニシュからプリシュティナに行きたいという客がいるときは、連絡が来て俺がここで待つ。逆にプリシュティナから州境を越えてセルビアに移動するときは、俺がヤツに電話して客を紹介する。客も喜ぶし、俺たちも潤う」。もう一つの州境越えのルートであるミトロビッツァは、れっきとした町であるのに対して、このメルダレは単なる山道にぽつんとイミグレーションの箱を作っただけなので、周囲には何もない。客はここで降ろされても何もできず、ヒッチハイクをするしかないので、この紹介制度は歓迎されている。

「セルビア人の運転手とは何語で話しているんだ?」「セルビア語だよ」「アルバニア人としてそれに抵抗はないのか?」

「ないね。チトー(大統領)を知る俺たちの世代は、セルボ・クロアチア語の教育も受けていたからな。ミロシェビッチには酷い目に遭わされたけど、仕事の相棒は関係ない。仕事なんだから、通じる言葉でなけりゃ意味がないだろう。まあ、プリシュティナの運転手仲間に見つかると嫌味も言われるけどな。分断に風穴が空くのは、政治よりも経済からだよな。それもプライベートのな。俺も怖かったから、最初はおそるおそる声をかけたけれど、あのセルビア人はいいヤツだ。多分、ベオグラードのヤツらも。まあ、そんなことは実はみんな分かっているんだがな……」

 周りの目だ。あんなヤツらと和解なんてするなよ、といういわゆる同調圧力だ。ガシのような40歳から上の世代のアルバニア人はコソボに自治権がもたらされていた時代を知っているから、ときに今のセルビア人に同情的な言辞をもらすことがある。しかし、これが町中、コミュニティの中ではそうはいかない。お前は民族愛がないのか? と吊るし上げられる。ガシが言うには、仲間に受け入れられたいときは、ヘイト(=差別煽動)が一番、効くという。げんなりするが、この翌日、私はその事例をまのあたりにすることになる。

●存在を消されたフットボーラーたち

 ガシの運転で、無事にプリシュティナの安宿、ホテル・イリリアに着いた。イリリアとは古代バルカン地域で独自の文化を誇った民族の名前で、アルバニア人の祖先と言われている。日本で言えば、民宿倭人、ペンション縄文といったところか。ホテル名ひとつにも、アルバニアナショナリズムが滲む。疲れていたが、荷物を放り込むとすぐに向かいたい場所があった。サッカークラブFKプリシュティナのスタジアムの裏手に、行き場を失ったセルビア難民たちが暮らしているバラックがあると聞いていたのだ。スタジアムまでは徒歩で10分もかからない。

 ちなみにこのFKプリシュティナは、コソボ最大のサッカークラブで、80年代はユーゴスラビアリーグの中でも南部の強豪として存在感を見せつけていた。のちにクロアチアの初代代表監督としてチームをフランスW杯で3位に導いたチーロことミロスラフ・ブラジェビッチや、セレッソ大阪で指揮をとったファド・ムズロビッチが監督を務めていたことがある。

 ブラジェビッチはクロアチア人、ムズロビッチはボスニア人であるから、選手の大半がアルバニア人選手であっても、当時のFKプリシュティナは決して固陋ころうな民族主義に固まっていたわけではない。しかし、89年に自治権を剥奪されるとアルバニア人選手はこれに抗議する形でユーゴスラビア(=セルビア)リーグでのプレーをボイコットする。これは他の行政機関から、同胞たちが追い出されたことに対する抗議の意味も含まれていた。

 ほとんどの選手が退団したために、FKプリシュティナには、セルビア人やマケドニア人など、非アルバニア人選手しかいなくなった。前述したが、この時代で著名なセルビア人選手が、後にスペインのクラブ、セルタでCBを務めることになるゴラン・ジョロビッチだ。一方、アルバニア人選手は、自分たちでFIFAに非加盟の独立リーグを作った。スタジアムが使えないために、空き地でのリーグ戦を余儀なくされた。結果的に才能ある選手たちが、現役時代を棒に振ってしまうことになった。

 私がいつも思い出すのが、最もその才能を惜しまれた「コソボの10番」ことアフリム・トビャルラーニである。トビャルラーニはユーゴスラビア時代の80年代にデヤン・サビチェビッチ(=ACミラン、モンテネグロ人)やムラデン・ムラデノビッチ(=ガンバ大阪、クロアチア人)と並んでユース世代のビッグ3と称された男である。チーロ・ブラジェビッチがFKプリシュティナの監督をしていた際にその指導を受けるという貴重な体験もしている。順調に行けば、A代表に選出されてオシムの下でプレーしていたことは想像に難くない。

 オシムは選手選考の評価基準はあくまでもサッカーにあるとして、そこに民族を持ち込まなかった。各共和国の政治家から「我が民族の選手を使え」という圧力が強い中、「その選手が優れていればユーゴ代表を(当時、最も被差別階級に置かれていた)コソボのアルバニア人で11人選んでみせる」とタンカを切った。言っただけではない。87年10月14 日の北アイルランド戦で、ファデル・ヴォークリ(後にコソボサッカー協会会長)というアルバニア人選を起用して2ゴールの活躍(試合は3対0でユーゴの勝利)を引き出している。

 トビャルラーニもまた、ユース世代では名前を知られる選手であった。しかし、代表選手としての道をあきらめてボイコットを貫徹した。プロを辞めることは失業を意味する。それからは艱難辛苦、ピザ屋を経営しながら家族を養ってきた。

 90年から99年までは、コソボのアルバニア人フットボーラーたちがその存在を世界から消失させられた暗黒の期間であった。しかし、99年3月のNATO空爆によって、政治状況が反転すると、今度はFKプリシュティナからセルビア人選手が追われた。そして10年ぶりにFKプリシュティナにアルバニア人選手が戻ってきていた。

●鼻を折られた老婆

 トビャルラーニのことを思い出しながら、スタジアム裏で難民のバラックを探した。小さな路地のようなスペースがあった。入っていくとそこが目指す場所だった。鼻が曲がりそうな異臭が充満している。難民キャンプでよく嗅いだ匂い。下水が完備されていないのだ。肩を寄せ合うように建っている小屋の入り口のひとつをノックして中に声をかけた。「誰?」と年老いた女性の怯えたような返事がした。「日本から来た記者です」。少しの間があり、ギイと扉が開いた。現れた老婆の顔を見て言葉を失った。顔面が鉄仮面のように白い分厚い絆創膏で覆われている。

 理由を聞く前から消え入りそうな声で、「私は鼻の骨を折られたのよ」と彼女、75歳のルーカ・イヴァノビッチは言った。暴行してきたのは、近所に暮らす18歳の少年だという。セルビア難民の彼女を守ってくれる人はもういない。7年前に先立たれた夫の写真が、この粗末な小屋の棚の上にあった。部屋を見渡すと、壁に幾多のビニール袋がかかっている。中身は逃げるときに無造作に詰め込まれた食器や衣類だ。取るものも取りあえずの逃避行であったことが分かる。

「私はただ、家の前に洗濯物を干そうとして外に出ていたのです。家に入ろうとしたら、少年がついて来たので、『ここは私の家ですよ』と言ったら、『ここは俺たちの国だ!』と怒鳴ってきたのです。私は『でもここは私の家です』と言い返しました。そうしたら、ますます激高して顔を拳で殴ってきたのです」。鼻骨が折れ、ルーカは悲鳴をあげて倒れた。あまりの痛さに起き上がることもできなかった。あなたは誰ですか、なぜこんなことをするのですか、問いかけに少年は、「俺は愛国者だ」と名乗った。

近所に住む少年に鼻の骨を折ら れた75歳(当時)のセルビア難民 ルーカ・イヴァノビッチ。
写真=木村元彦

 警察は何の後ろ盾もないルーカへの警備はしてくれない。しばしば愛国者は、仲間を連れてやって来ては部屋の前に汚物を撒いたり、窓の外から、「早く出て行け」と叫んだ。「だから怖くて仕方がない。このバケツの中を見てちょうだい」。覗くと、破壊された錠前がいくつも入っていた。「家の鍵が何度も壊されて家の前に捨てられているの」。付けても付けても外される。それをルーカは証拠として集めてはバケツに入れる。「痛い目や怖い目に遭わせて、私が自分から出て行くのを待っているのでしょう。逃げたい気持ちはあります。若い人なら、セルビア本国へ行って仕事も探せるでしょう。でも年老いた私にはそれもできない。仮に逃げられてもその先の保障はないのです」

 過激な排外主義が、若い者の中で育っている。この18歳の少年はそこに「愛国」という「正義」を持ち込んでいる。コソボはアルバニア人のもの。だから異物は排斥するという正義。18歳の少年ならば、空爆時は10歳。それ以降に彼が受けとった教育は、「共存よりも浄化」だった。さすれば、セルビア人の老婆は排除すべき敵なのだ。

 ルーカに少しのお金、水と食べ物を渡した。小さな声で「ありがとう。私は両親や夫が眠るこの国で一生を終えたい」と言った。

●KIMラジオのモンテネグロ人

 翌日、セルビア人エンクレイブ(民族集住地域)のチャグラビッツァに向かうべくホテル前から、タクシーを拾った。スタジアム裏は難民のバラック小屋の集合体だが、同じコミュニティでもチャグラビッツァはそれ自体が小さな村である。行き先を告げるとアルバニア人の運転手は案の定、顔をしかめた。

「チャグラビッツァ? 悪いが、村の中までは入らないから、手前で降りて歩いて行ってくれ」。

 セルビア人だけの集落に入るのは、彼にしても怖いのだ。コソボ内には、他にもリュプリャン、グニッツァ、ミトロビッツァ北部等々、いくつか、このような飛び地がある。かつてはアルバニア人もセルビア人も主要都市の中で混在していたのだが、治安部隊の撤退後は、セルビア人はこのエンクレイブに逃げ込むかたちとなった。

 棲み分けされたのは、居住地域だけではない。貨幣単位も分かれてしまった。コソボは、国連部隊やUNMIKが入ってきたことでユーロが流通しているが、セルビア人エンクレイブは、それまで同様にディナールのままである。当然ながらディナールよりも欧州基軸通貨のユーロの方が価値は圧倒的に高く、エンクレイブは慢性的なモノ不足に悩まされている。

 数あるそのエンクレイブの中でチャグラビッツァ取材を選んだのは、ここには唯一の独立ラジオ局(Kosovo I Metohija Radio)通称KIMラジオがあるからだった。私はポポヴィッチの実家についての情報をここで集められないかと考えた。

 KIMラジオには、ジボインという、何やら日本の少女漫画に出てきそうな名前のモンテネグロ人の局長がいる。モンテネグロは宗教が東方正教、文字がキリル文字で、セルビアと同じで親和性はあるが、2006年6月3日に住民投票を経てセルビアから独立をしており、外交的には第三者的な立場にいる。加えてジボインはこの地域のメディア人としては珍しく、民族の枠を超えた公正な知見の持ち主だった。

 以前、「ユーゴの諸地域において民族教育とは何だったと思うか?」と聞いたことがあった。とんでもなく乱暴で丸投げの質問だったが、こんな答えが返ってきた。「多民族国家の中では、アイデンティティを保持する上で重要だったとは思う。全員がユーゴスラビア人(南のスラブ人)なんてあいまいなものに押し込められていて、そんな幻想には辟易していた人々が多くいたのは事実だ。彼らは贔屓のサッカークラブで自分の民族性を確認していたくらいだから。ただ、そのアイデンティティが戦争や排外をしたい勢力に利用されてしまった部分は否めないな。民族教育ももちろん大事だが、教育ならば必ずそれと同時にまず人権や法治を教えるべきだ。民族愛ってのは、他民族を憎むことじゃないはずだ」

 サッカーと民族性について少し補足をすると、ユーゴにおいてセルビア人ならレッドスター・ベオグラード、クロアチア人ならディナモ・ザグレブというようにチームと民族は極めて密接に結びついており、これが紛争にも利用されていた。レッドスターのサポーターのリーダーだったアルカンことジェリコ・ラジュナトビッチは同胞の保護を名目に、フーリガンで構成した通称「虎部隊」を率いて、ボスニアでムスリムの人々の家屋を襲い、財産を収奪した。ディナモのサポーターのBBB(バッド・ブルー・ボーイズ)は、義勇兵となってブコバル包囲戦に参戦している。紛争を自身で経験した人間が、これらの現象を批評的に見ることは困難なはずだが、ジボインは説得力のある分析を施してくれた。

 彼なら公正に知恵を貸してくれるのではないか。久しぶりの再会をイメージしていると、タクシーがキーッと音を立てて急停車した。チャグラビッツァ村の入り口に着いた。

「俺が運転できるのはここまでだ」とすまなそうに言う運転手に礼を言って、車から出る。彼が悪いわけではないのだ。悪いのは分断を持ち込んだヤツだ。

 放送局といっても二階建ての簡素な民家である。パソコンの置かれた事務室とミーティングルーム、そしてスタジオという造りである。

独立ラジオ局KIMラジオの局長ジボイン・ ラコチェビッチ。
写真=木村元彦

 見事なカイザー髭を蓄えたジボイン・ラコチェビッチは、柔和なまなざしが印象的な大男だ。トルココーヒーを勧めてくれた。せっかちな私は単刀直入に切り出した。「実はペーチ出身のセルビア人のサッカーの指導者の生家を探してそこに行こうと思っている。それで聞きたいのだが、今はどんな状況なんだ? 俺は行けたとして、例えば彼が近々、オフになってから、生家に向かうことは可能だろうか?」。ジボインは、こちらの意図を理解すると、デスクに戻って新聞を一部取り出してきた。「今朝の報道だ。これが今のコソボを象徴しているな」。彼はどんなときでもエビデンスを前に説明を施す。新聞はアルバニア語の代表的な日刊紙・インフォプレス紙だった。一面には、99年当時にセルビア軍に所属していた者の名簿が公表されていた。

「自分たちを迫害をしたやつらを見つけた! というスクープみたいな扱いだ。この意味が分かるだろう? 当時の徴兵は義務だったから、時期がくれば誰もが兵役に就いていた。その名簿だ。当たり前だが、コソボに来ていない兵士もいる。リストにある人物全てがコソボのアルバニア人の迫害に当たったわけではない。それにもかかわらず、こうして一般紙に名前が掲載されている」

 ユーゴ紛争における戦争責任の追及については、すでに国連の安保理決議によって設置されたICTY(旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷)が担っている。スイス人の女性検事であるカルラ・デル・ポンテが大量虐殺を指揮した戦争犯罪者たちを次々に訴追しており、セルビアのミロシェビッチ大統領、スレブレニツァで約8000人以上のイスラム教徒を虐殺したムラジッチ、カラジッチの両軍人、クライナの軍事掃討作戦(通称「オルーヤ=嵐」と呼ばれる民族浄化作戦)でセルビア人を約20万人追い出して難民にしたクロアチアのゴトビナ将軍たちが、戦争犯罪の責任を追及されている。

「そういうとんでもない戦犯たちはしっかりと裁かれるべきだ。しかし、ただ徴兵で召集された兵士の名前を羅列して、弾劾を煽るのは不毛な犯人探しではないか。ミロシェビッチ政権が行った蛮行と一般のセルビア人は分けて考えないといけないのだが、これでは差別煽動に繋がるだろう?」。ジボインが憤る。

 ふと、ストイコビッチを思い出した。彼も兵役の義務はコソボで果たしている。

「ピクシーもこの時代に生きていたら、そうなったのかな。確かにここに名前を載せられたセルビア人は、コソボ内にはもう住めなくなるだろうな」。私の言葉にジボインは首を振った。「ここに名前がなくてもセルビア人なら怖いだろうな。こんな私刑みたいな報道をされると、融和は進まない。しかし、残念なことにこういう報道が今、熱狂的に受け入れられているのだ。この新聞もかなり売れたそうだ」。売れる。作る。また売れる。読んだ人間はそこで「正義と愛国」に目覚めて行動に移す。「熱狂はエンクレイブを敵視する。私はモンテネグロ人だが、やはり怖いよ。少数者であることが、まるで悪い事のように感じてしまう」

●ポポヴィッチの生家の現状

 KIMラジオでは、マイノリティであるセルビア語話者のために放送を続けている。「メディアの役割ってのは公益性だろう。災害や事故のアナウンスなんかは一刻も早く知らせなくてはいけない。これを伝える放送がひとつの言語だけということになってしまったら、エンクレイブの人たちの生活はどうなる?うちの経営は厳しいが、それでも何としても存続しないといけない」

 具体的な要件に移りたくて、ポポヴィッチの生家の住所を見せた。「それでここに行きたいんだが、どうかな?」。モンテネグロ人はメモの地名を見つめていたが、肩をすくめた。「ペーチか。セルビアの聖地だが、もうほとんどセルビア人はいないだろう。あそこのデチャニ修道院は相変わらずイタリア軍が守ってくれているが、人は住んでいないはずだ。このチャグラビッツァにもペーチから逃れて来た家族が何組かいたが、攻撃対象になってしまったと言っていたな」。日本だと鎌倉時代にあたる1327年に建設されたセルビア正教のデチャニ修道院はその歴史的価値によって、2004年にユネスコの世界遺産に登録されている。だからKFOR(コソボ治安維持部隊)は特に人員を割いて警備にあたらせてはいるが、標的にされる状況に変わりはなく、2006年に危機遺産にも指定されている。デチャニ以外に破壊されたセルビア正教の宗教施設は数限りない。

©KASHIMA ANTLERS

 別れ際、「ペーチがどうなっているか、自分も気になる。襲われてなければいいが」とジボインは言った。ランコ・ポポヴィッチの生家にいよいよ向かう。(第4回に続く

木村元彦(きむらゆきひこ) 
ノンフィクション作家、ジャーナリスト。1962年、愛知県生まれ。中央大学文学部卒業。アジア・東欧などの民族問題を中心に取材・執筆。『悪者見参』『オシムの言葉』(共に集英社文庫)、『コソボ 苦闘する親米国家』(集英社インターナショナル)など著書多数。


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