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第4回 私、顔面麻痺になりました(前編)

今回は私の顔の話をしましょう。
10年前のことですが、顔面麻痺になりました。
帯状疱疹ウイルスが原因の、ラムゼイハント症候群というものでした。
顔研究者なのに、自分の顔面麻痺にはなかなか気づかなかった。そんなお話です。

「顔面筋のプロ」なのに


実は私は大学院時代に、実験で顔面筋の働きを測っていました。ですから、顔面のことについては、いささか詳しいのです。
機械の揃った生理人類学の教授の実験室に居候して、作り笑いや偽の表情をつくりだすときの顔の筋肉の動きを調べていたのです。

顔中に丸い小さな金属の電極を貼りつけて、それぞれの電極が拾った筋肉の活動電位を測り、その動きを調べるというちょっとワイルドな実験です。もちろん自分の顔面筋も測定しました。
だから、自分がどのくらい顔の筋肉を動かせるかを知っていましたし、ちょっとは難しい顔面筋の動きもできる自負がありました。

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そんな自分が、将来顔の筋肉が動かなくなるなどとは夢にも思ったことはなかったわけです。いざ顔面麻痺になると、顔面筋の構造を知っていますから、どの筋肉が麻痺で動かないのか理解はできます。しかし、自分に起きた麻痺をどうすることもできなかったのです。

人生最高と最悪の日々に帯状疱疹が

原因は帯状疱疹でした。これはストレスが引き金となるそうですが、たしかにその当時は人生最高と人生最悪の日々を過ごしていました。

人生最高は、研究者として大きな研究予算を獲得したこと。
人生最悪は、大学の業務でのことでした。

研究予算が当たった喜びは説明するまでもないでしょうが、問題は大学の業務です。

そもそも日本の社会で研究者として活躍している大学教員は、誰しもが多かれ少なかれ大変な思いをしています。教育や運営という大学の業務と研究を並行せねばならないからで、たとえ世間から期待されるような仕事を受けたとしても、大学の業務は待ったなしです。
学生数の多い私立大学では誰もが忙しいこともあって、そんな中で研究を続けるしんどさを痛感していました。しかも当時はまだ若く不器用で、事態は悪くなるばかり。八方ふさがりの状況に耳をふさいで過ごす日々だったのです。

なぜか崩れたファンデーション

そんな日の夜、眠れないほどに喉が腫れあがりました。ラジオ出演した翌日で、緊張しながら喋りまくったせいかと思ったのですが、ふだんの喉の痛みとはどこかしら違っていました。
喉よりも奥にある、リンパが腫れているような感じです。その腫れは、しばらくすると右耳の強烈な痛みへと移っていきました。風邪で耳が痛くなったのかもしれないと、家にあった抗生物質を飲んでふと耳を触ると、膿に触れてどきっとしたことを覚えています。

満足に眠れない日が続いてもなかなか病院に行こうという腰があがらず、耳鼻科に行ったのはそれから一週間ほどたってから。診断は外耳炎でした。しかしその診断から2日たった朝、かすかな異変に気きました。

コンパクトを開けると固まっているはずのファンデーションがぐずぐずに崩れています。
なんとなく胸騒ぎがしてコンパクトの鏡で顔を見ました。すると、目の下の涙袋の形が左右で微妙に違っていて、右側の目の下の涙袋がなくなってたのです。
とはいえ、無精者の私は、毎日自分の顔をこまめに見るタイプではありません。異変の確信は持てないので、身近にいる夫に様子を尋ねてみたのですが、「そんなものでは?」の一言。

どんなに頑張っても右頰が動かない!

そうとはいっても、一度気になりだすとあれこれ気にかかります。チリチリとした小さな痛みが眼球の奥の方にあるような、右側の舌にも違和感を持つような……。いずれの異変も心もとないので、再び耳鼻科に行くことにしました。

そこで、思いがけないことに気づきました。「頬を膨らませてください」の医師の指示に従い、頬を膨らませようとして、初めて自分の頬の右側だけが動かないことを知ったのです。
なんと、頑張ってみても右の頬だけに力が入らない!末梢神経を原因とした顔面麻痺は、顔の片側におきるのです。

その時までは、とにかく耳が痛いだけで、ひどい耳の病気を治してほしい一心で耳鼻科に行ったわけです。痛みの方は、帯状疱疹と同じような痛みなのでしょう。とにかく、なんとも我慢できない痛みでした。まさかそれが、顔が動かなくなっていたなんて、これっぽっちも思っていなかったのです。

これで決定的だったのですが、詳細な検査と治療を受けるため、翌日の朝一番に大学病院に行くことになりました。
家に戻ってインターネットを検索してみると、怖い話ばかりが目に飛び込みます。顔面麻痺には、治りやすいものからそうでないものまでさまざまな種類がありますが、中でも「ラムゼイハント症候群で顔面麻痺が完治する確率は2~3割」とも書かれていてあったのには参りました。

なぜもっと早く病院に行かなかったのだろう。そういえば耳の痛みがひどくなる前、麻痺した右耳のピアスをなくしたではないか。なぜその時に小さな異変に気づかなかったのか。どうしようもないことばかりを考えていました。

顔面麻痺には薬がない!

大学病院の受診で、顔面麻痺が確定しました。麻痺は初期的であることもわかりました。ところが顔面麻痺には、対処療法しかありません。

抗ウイルス薬とステロイドで帯状疱疹の炎症は抑えるとしても、麻痺については、血流の流れをよくすることしかないようです。そう、麻痺は止められないのです!

病院に通うたびごとに麻痺の進行を検査しますが、どんどん進行していくのがわかるだけ。軽減はできても、麻痺の進行そのものを止めることも、麻痺そのものを治すこともできないのです。

通い始めは、頬を膨らますことはできなくても、頬の筋肉(大頬骨筋)の下半分くらいは動いていました。その後、大頬骨筋が凍りついたように動かなくなっていきました。
表情を作っても、右だけ動かないままだったことでしょう。麻痺は顔の上の方にも進行していましたが、自分では気づくことすらできませんでした。

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【顔面麻痺の特徴】 上から1)眉が上がらない 2)まぶたが垂れ下がり、目を閉じられない 3)頬におしろいをつけられない 4)口角が下がる。口が閉じられないのでドライマウスになる。

麻痺した右目だけ、まぶたを完全に閉じることができなくなっていたのですが、医師に指摘されるまで気づくことはなかったのです。まばたきができないので目が乾き、目薬を手放せません。

右に目を向けにくくなったせいか、自分の身体の右側に存在するものに過敏になりました。自分の目の前のテーブルの右手側に背の高いコップを置かれると、即座に左側に並べ替えていました。自分の右側から人とすれ違うのも、不快でした。右側に存在するもへの感度が希薄になっていたのでしょうか。この右空間への不快感は、麻痺が治ってもしばらく続きました。

いちばん困ったのは「食べること」だった

顔学の本で、“顔は食物を摂取する口から進化したもの”と読んだことを思い出しました。顔の半分を占める頬は、ものを食べる時、顎で噛みながら頬で食べ物をたくわえるために働きます。つまり顔の麻痺で最大に困ったのは、食べることだったのです。

大頬骨筋の片側の筋肉だけだと、食べるのに苦労します。たとえば骨付きチキンの肉を、歯を立てて骨からはがすことができない。

食べるための道具も、それぞれが全く違った意味を持って見えました。箸は、憎むべき道具となっていました。箸を使うと噛み切ることが多くなり、片側だけの顎を酷使することになります。レストランのテーブルにナイフとフォークが並べてあると、ほっとしました。それでも噛みくだすのに力がいるため、食べること自体がとても疲れる作業になります。

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上唇も、右側だけがうまく動かせません。右側の唇だけ、押さえないと閉じてくれないのです。食べ物を口にしている時だけでなく、飲み物を飲むときにも、そっと手で口の右側を押さえなくてはなりません。食べることに不自由する上に、人前で食事をすることがおっくうになりました。

味覚までも失った絶望感

顔面筋とは直接関係ないのですが、味覚も変化していました。

右側だけ味を感じないような気がして、そのせいか味覚のバランスがおかしなことになっていました。味覚の違和感には、ほとほと悩まされました。

風邪で鼻が利かなくなったように、味全体が薄く感じられないのとは違うのです。舌に感じる味と感じない味が、まだらなのです。

なぜか、子どもでもわかりやすい、インパクトのある味だけがわかる。たとえばスパイスの強いエスニック料理や、子どもが好きそうなハンバーグといった料理ならば、ふつうに味わえるのです。

一方で、日本食や繊細な味わいの料理、りんごジュースやヨーグルトといった淡い味がおかしく感じられました。
味がわからないだけでなく、化学調味料のような味がいつまでも舌に残って、気分が悪くなります。

さらに不幸なことに、ビールやワインの旨みがわからない。このまま一生ビールやワインを味わえなくなるのかと思うと、絶望的な気分にすらなりました。
エネルギーを摂取する食が損なわれると、生きる上での大きな楽しみを失います。麻痺の終結とともに味覚を取り戻すことはできましたが、昨今はコロナの後遺症で味覚がおかしくなると聞きますが、そのつらさはいかばかりかと思います。(後編に続く)

山口先生プロフィール

山口真美(やまぐち・まさみ)
お茶の水女子大学大学院人間文化研究科人間発達学専攻修了後、ATR人間情報通信研究所・福島大学生涯学習教育研究センターを経て、中央大学文学部心理学研究室教授。博士(人文科学)。
日本赤ちゃん学会副理事長、日本顔学会、日本心理学会理事。新学術領域「トランスカルチャー状況下における顔身体学の構築―多文化をつなぐ顔と身体表現」のリーダーとして、縄文土器、古代ギリシャやローマの絵画や彫像、日本の中世の絵巻物などに描かれた顔や身体、しぐさについて、当時の人々の身体に対する考えを想像しながら学んでいる。近著に『自分の顔が好きですか? 「顔」の心理学』(岩波ジュニア新書)がある。
★〈山口真美研究室HP
ベネッセ「たまひよ」HP(関連記事一覧)

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